カタリ派 – 世界史用語集

カタリ派(Cathares/アルビジョワ派とも)は、12〜14世紀にかけて西欧、とりわけ南フランス(オクシタニア)と北イタリアを中心に広まった二元論的キリスト教運動です。彼らは物質世界を悪の原理に帰し、霊的世界を善の原理に帰する教義を掲げ、聖職者の富と権力に染まった当時の公教会を厳しく批判しました。独自の按手儀「コンソラメントゥム」を唯一の秘跡とし、断食・禁欲・清貧を徹底する〈パルフェ(完全者)〉と、日常社会に暮らす〈クレディアン(信徒)〉が支え合う二重構造の共同体を形成したことが特徴です。彼らはやがて、教皇庁・フランス王権・北仏諸侯の連携によるアルビジョワ十字軍と異端審問の標的となり、拠点都市と山城は次々と陥落、14世紀初頭までに地上からほぼ消えました。とはいえ、カタリ派は中世社会の宗教的多様性、都市と在地貴族の自律性、そして「正統」形成の政治を鋭く映す鏡であり、近代に至るまで強靱な記憶を残し続けています。本稿では、教義と生活、歴史的展開、弾圧と戦争、遺産と史料という観点から、神話化や誤解を避けつつ分かりやすく整理します。

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教義と生活実践:二元論、唯一の秘跡、禁欲の倫理

カタリ派の神学の芯には二元論があります。世界は善の神(霊の創造主)と悪の原理(物質の支配者)の対抗関係にあると捉え、人間の魂は本来は善の神の領域に属しつつ、物質の身体に囚われていると考えました。この「二つの原理」は地域と系統によって強弱があり、徹底した〈絶対二元論〉(悪の原理は善と並立する永遠の起源)と、悪を堕落した天使長や被造に由来させる〈穏健二元論〉が併存しました。旧約聖書の造物主に距離を置き、善なる神の啓示として新約、とりわけ『ヨハネ福音書』を重視する解釈姿勢が見られます。

秘跡観はラディカルです。洗礼・聖餐・叙階などカトリックの七つの秘跡を退け、〈手按(按手)〉と〈聖書朗誦〉による唯一の秘跡「コンソラメントゥム」を採用しました。これは罪の赦しと聖霊付与の儀礼で、共同体の〈完全者(パルフェ/女はパルフェット)〉が司式します。重病者や臨終者に授けることも多く、授与後は厳しい断食(〈エンデューラ〉と呼ばれる極端な節食が行われた事例も伝わる)に入ることが理想とされました。パルフェは菜食・禁肉・禁卵・禁誓・禁殺・禁性交・所有否定を誓い、徒歩宣教と労働で生計を立て、清貧と非暴力の倫理を体現しました。女性がパルフェになり得た点も注目され、ジェンダー面での包摂性を示します。

共同体は二重構造でした。信徒(クレディアン)は日常世界の職業と家庭を維持しつつ、定期的に〈メルセデ(赦し)〉を願ってパルフェのもとを訪れ、食卓を囲み(アゴーペ的な共同食)、聖書講解を受けます。組織は家(ドマス)単位や地域の〈教会〉に分かれ、長老・ディアコン級の役職名を用いましたが、序列は緩やかで、財産は寄進と互助で賄われました。カタリ派の倫理は聖職者の堕落や聖遺物崇敬の商業化に対する批判と結びつき、都市の職人層・商人層、在地貴族の庇護を得て広がりました。

歴史的展開:起源、広がり、南仏オクシタニアの土壌

カタリ派の起源は東方の二元論系運動(ボゴミル派、さらに遡ればマニ教の伝統)との思想的連関が指摘されますが、直接連続性を断言することは慎重であるべきです。確かなのは、11世紀末〜12世紀にかけて西欧の都市と地方で、〈清貧・禁欲・原始教会回帰〉を求める諸運動(例:ヴァルド派)と並走して、カタリ的説教者が出現したことです。北イタリアのロンバルディア、エミリア・ロマーニャ、ピエモンテの都市圏では、商人ギルドや手工業者層が受容の基盤を提供し、南仏ではトゥールーズ伯領、カルカッソンヌ、アルビ、フォワ伯領などオクシタニアの諸都市・城館が保護者となりました。

オクシタニアは、オック語を話す独自の文化圏で、地中海交易に開かれ、都市自治と在地貴族の相対的自立が強く、吟遊詩人〈トルバドゥール〉文化が栄えた地域でした。ここでは、司教座・修道院の権威は北仏や帝国地に比べ薄く、教皇・王権の統制が及びにくい条件が整っていました。12世紀末には、カタリ派〈教会〉は司教・長老を擁するほど制度化し、リヨンやフィレンツェに伝わる儀礼書(いわゆる〈カタリ派儀礼書〉)や、〈二つの原理について〉と題される神学文書群が、その内側の議論と規範を今に伝えます。

同時に、公教会側も改革の圧力にさらされていました。修道院改革(クリュニー、シトー)、教皇権の伸長、説教修道会の創設(ドミニコ会・フランチェスコ会)は、〈貧しさ〉を掲げる運動に対応し、カタリ派にも説教対抗を行いました。ドミニコ(のちの聖ドミニコ)は南仏でカタリ派説教師に論戦を挑み、簡素な巡礼生活で民衆に迫りますが、政治と軍事の歯車はやがて戦争へ向かいます。

弾圧と戦争:アルビジョワ十字軍、異端審問、最後の山城

1209年、教皇インノケンティウス3世はカタリ派弾圧のための十字軍を宣言しました。契機は、教皇使節の殺害と、トゥールーズ伯レーモン6世の優柔不断・加担疑惑でした。北仏の諸侯や騎士、王領軍の参加者は贖罪と領地拡大の機会を求めて南下し、十字軍司令官としてシモン・ド・モンフォールが頭角を現します。最初の衝撃はベジエの陥落(1209)で、〈彼らを皆殺しにせよ。神は自らの者を識別される〉と伝えられる苛烈な殺戮の言葉が象徴的記憶として残りました(実際の発話の真偽は議論がありますが、虐殺が起きた事実は重い)。続いてカルカッソンヌが降伏し、都市・城は次々と帰属を変えます。

十字軍は〈異端鎮圧〉であると同時に、フランス王権が南仏を統合する〈国家建設戦争〉の側面を強め、トゥールーズ伯家はレーモン6世・7世を通じて抵抗と譲歩を繰り返しました。1229年の〈パリ条約(モー条約)〉で伯は王権に従属し、南仏は事実上フランス王領に組み込まれます。以後、軍事的掃討から司法・警察的統制へ軸足が移り、1230年代以降、教皇直轄の異端審問所がトゥールーズ、アルビ、カルカッソンヌなどで組織化されました。審問は告発・証言・悔悛・贖罪・財産没収・鞭打ち・十字標の着用・投獄など多様な手段を用い、〈記録〉は当時の社会史の一級資料を今に残しています。

軍事的最終局面は、象徴的な山城の陥落です。モンセギュール(1244)は長期包囲の末に降伏し、多数の信徒とパルフェが火刑に処せられました。クエルブス(ケルブス)やラグラ(アリエージュ谷)といった峻険な拠点も次々失われ、組織的抵抗は終わります。14世紀に入ってからも散発的な潜伏は続き、1321年にはアルジェスで〈最後のパルフェ〉とされるギヨーム・ベリバストが捕らえられ処刑されました。こうして、運動としてのカタリ派は歴史の表舞台から姿を消します。

遺産・史料・誤解:何が残り、どう読むか

カタリ派は消えましたが、広範な〈記憶〉と〈紙の遺跡〉を残しました。第一に、教会側の審問記録(司祭ベルナール・ギーらのマニュアルを含む)は、村落・都市・女性・職人・在地貴族の宗教実践や日常生活、方言表現までも克明に写し取り、社会史の窓となっています。第二に、〈儀礼書〉〈二つの原理〉〈祈祷書〉といった内在的文書は、教義の層(絶対/穏健二元論)と実践の具体(断食規定、安息日の扱い、巡回の規則)を明らかにし、同時代の他運動(ヴァルド派、フランチェスコ会スピリトゥアーレ派)との比較を可能にします。第三に、オクシタニアの地名・伝承・城郭遺構は、近代以降の観光・郷土史と結びついて再物語化され、〈南仏の自由〉〈失われた清貧の教会〉の象徴として再評価されました。

ただし、近代ロマン主義や神秘主義の加筆訂正には注意が必要です。カタリ派を〈古代の秘儀の継承者〉や〈テンプル騎士団・聖杯伝説〉と直結させる説は、史料的裏付けに乏しいものが多く、歴史とフィクションの区別が求められます。〈エンデューラ=集団自殺〉といった極端なイメージも、個別事例を一般化した誤解である場合があります。彼らの禁欲と非暴力は厳格でしたが、信徒の日常は多様で、在地社会との折り合いの中で振る舞いは変化しました。

カタリ派の歴史的意義は、第一に、中世の〈正統〉がどのように政治と制度によって形成されたかを示す実例であること、第二に、都市社会の自律と在地貴族の保護が宗教運動の命運を左右すること、第三に、女性の宗教的主体性や説教の広がりが教会史を豊かにすること、にあります。アルビジョワ十字軍は、単なる宗教戦争ではなく、フランス王権による国家形成戦争であり、南仏の言語・法・身分秩序の再編を深く進めました。こうした〈宗教・政治・社会〉の交差点に立つ運動として、カタリ派を読むことが大切です。