鎌倉幕府 – 世界史用語集

鎌倉幕府は、源頼朝が東国武士を基盤に権力を確立し、1192年に征夷大将軍に任じられて以後、1333年に滅亡するまで日本列島の統治を担った武家政権です。朝廷(院・天皇)と並立するかたちで成立し、武士団の現実的な軍事力と土地支配を背景に、御恩と奉公の関係、守護・地頭の配置、合議を重んじる訴訟と行政の整備など、従来の公家政治とは異なる統治技法を打ち立てました。北条氏の執権政治と評定制、1232年の御成敗式目に代表される武家法の確立、博多を中心とする対外交易と宋銭流通、蒙古襲来(1274・1281)への防衛とその後の恩賞不足による動揺などを経て、後醍醐天皇の討幕運動と諸国の武士蜂起により崩壊します。武士の法と裁判、土地の分割・相続・請負、禅宗や鎌倉仏教の広がりなど、のちの日本社会の基本形を生み出した時代として知られます。

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成立としくみ――源頼朝の権力形成、二重政権、守護・地頭

12世紀末、平氏政権のもとで全国に広がった武士団は、在地の土地支配と軍事動員力を握る新しい社会勢力でした。伊豆に配流されていた源頼朝は、1180年の挙兵を皮切りに東国の豪族(坂東武士)を結集し、鎌倉に本拠を置いて軍政と財政の中枢を整えます。1185年の壇ノ浦で平氏を滅ぼすと、朝廷からの任命(宣下)によって諸国に守護・地頭を設置する権限を獲得しました。守護は主として軍事・警察(大犯三箇条の取締)を担い、地頭は荘園・公領の現地管理や年貢徴収・土地紛争の処理にあたりました。

鎌倉の政庁には、軍事・警察を司る侍所、財政・一般政務の政所(公文所)、訴訟を扱う問注所が置かれ、頼朝は有力御家人を参画させて合議・奉行制を実務の基礎にしました。頼朝が1192年に征夷大将軍に任ぜられると、武家の棟梁としての地位が公的に裏づけられますが、朝廷の法と儀礼は従来通り京都にあり、しばらくは朝廷と幕府の二重政権として運営されました。東国の現実的支配と、西国を含む全国的な任命権・裁判権の獲得を併走させた点に、鎌倉政権の独自性があります。

幕府の人間関係は御恩と奉公で結ばれました。将軍は恩賞(本領安堵・新恩給与)によって御家人の土地権益を保障し、御家人は軍役・警固・奉公を果たします。土地は相伝され、合戦・治安維持での功績は文書(下文・安堵状)として記録され、法的権利の根拠となりました。こうした文書主義と先例の重視は、後の武家法に継承されます。

執権政治と武家法――北条氏、合議制、御成敗式目・引付

頼朝没後、将軍家は幼少・短命が続き、政治の中枢は有力御家人たちの合議に移ります。中でも源頼朝の妻政子の実家である北条氏が台頭し、初代執権北条時政、二代義時の時期に、将軍を補佐する執権政治が制度化されました。承久の乱(1221)で後鳥羽上皇方を破り、院政の軍事的基盤を切断すると、幕府は京都に六波羅探題を設置し、西国支配の監督を強化します。これにより鎌倉の裁断は全国的な効力を持つようになり、武家政権としての性格がいっそう鮮明化しました。

三代執権北条泰時のもとで、合議を制度化した評定衆が整備され、1232年には日本初の本格的武家法典である御成敗式目が制定されます。式目は全51か条からなり、土地相続・売買・境界・訴訟手続・職務倫理など、御家人社会の紛争処理に必要な原則を、先例(先規)と「道理」によって明文化しました。条文は抽象的で、個別事件に適用する際は先例と照合して判断する柔軟さがあり、のちの室町・戦国の武家法にも深い影響を与えます。

さらに四代執権北条経時・五代時頼の期には、訴訟の増加に対応して引付衆(引付所)が創設され、審理の迅速化と先例整理が進みました。引付は今日の高等裁判所に近い上訴審の機能を持ち、書記・奉行を通じて判決文と先例が集積されます。こうして、武家の実力支配は、法と文書による可視化された統治へと変質しました。

もっとも、北条氏の権力は当初の合議的性格から、しだいに得宗専制へ傾きます。得宗家(北条本家)に直属する家臣団御内人の台頭、平頼綱と有力御家人の対立(二月騒動、1293)などは、内部の緊張を高めました。権力集中は意思決定を迅速にする一方、旧来の御家人層の不満を蓄積させる要因ともなります。

経済・社会・文化と対外関係――荘園公領制の変容、宋銭流通、禅と鎌倉仏教、蒙古襲来

荘園・公領の現地管理を担った地頭の存在は、土地制度を大きく変えました。年貢や雑役の取り立てを請け負う地頭請、荘園領主と地頭・在地勢力が耕地を分け合う下地中分などは、従来の領主権と在地の実力の折衝から生まれた妥協の技法です。これにより、在地の自立性が高まり、武士・名主・百姓のあいだで土地の分割・相続・売買が活発化しました。農具の改良・二毛作の拡大、市の発達に伴って、貨幣(とりわけ宋銭)の流通が広がり、質屋・借金・徳政の問題も顕在化します。幕府は物価騰貴や借金苦に対して、永仁徳政令(1297)などの債権破棄策を講じましたが、信用秩序の混乱という副作用も招きました。

対外関係では、博多を中心に宋(のち元)との交易が活発化し、陶磁器・絹織物・薬物・書籍・技術が流入しました。禅僧や商人、博多の有力者が媒介となって、輸入銭は国内の決済に広く使われ、寺社造営や武士の生活文化を支えます。宗教面では、禅宗(臨済・曹洞)の受容とともに、法然・親鸞の浄土教、日蓮の唱題運動、叡尊・忍性の社会事業など、いわゆる鎌倉仏教が広がりました。武士の規律や実務と相性のよい禅は、北条時宗の開基による建長寺・円覚寺といった巨刹の成立を通じて、武家の精神文化に根をおろします。

1274年(文永)・1281年(弘安)の蒙古襲来は、鎌倉政権最大の試練でした。幕府は異国警固番役を課し、博多湾岸に石築地(防塁)を築き、御家人・国人らを動員して防衛にあたりました。短期決戦で外敵を退けたものの、従来のように敵地を占領して所領を分配する「恩賞の材料」が乏しく、出費過大と恩賞不足は御家人の生活を圧迫します。これに加えて、得宗家の専制と経済の流動化が重なり、在地武士の離反や新勢力の台頭を招く温床となりました。

文化面では、運慶・快慶ら慶派仏師の力強い写実、東大寺再建の勧進に見られるネットワーク型の資金調達、和歌・連歌の洗練、『平家物語』に象徴される語りの文化が、武人社会の感性を形づくります。実務に役立つ往来物・仮名文書の普及、訴訟文書の整備は、読み書き計算の裾野を広げました。鎌倉は坂と谷に寺社と屋敷が点在する地形に合わせ、やぐら(横穴墓)や切通しの道路が掘削され、軍都と宗教都市の顔を併せ持つ景観が整います。

動揺と崩壊――得宗専制の行き詰まり、後醍醐の討幕、新たな秩序へ

13世紀末から14世紀初頭、得宗家権力は内管領の専横や御内人の跳梁によって不満を買い、御家人の所領争いと借財は深刻化しました。永仁徳政令のような一時的救済は、市場と在地経済の痛点を露わにし、根治には至りません。朝廷内では後醍醐天皇が親政を志向し、記録所・雑訴決断所の再整備、官職人事の刷新を通じて権威回復を目指します。幕府は京都監視のための六波羅探題を強化しましたが、倒幕計画の摘発と失敗(正中の変、1324)・(元弘の変、1331)を経ても運動は鎮まず、諸国に不満を持つ武士層が結集していきました。

1333年、足利尊氏が京都で幕府方を離反して六波羅探題を撃破し、同時に東国では新田義貞が挙兵して鎌倉へ進撃します。鎌倉は籠城の末に陥落、北条高時は一族とともに自刃し、約150年続いた武家政権は幕を閉じました。政権の崩壊は、恩賞秩序の崩れと在地武士の自立化、得宗専制の硬直、対外戦争の負担という複合要因の収束点でした。こののち、後醍醐天皇は建武の新政を開始しますが、足利尊氏ら武家勢力との矛盾は解けず、やがて室町幕府の成立へと歴史は移ります。

鎌倉幕府の時代は、武士の法・裁判・文書主義、土地の細分相続と請負管理、貨幣流通と市場、宗教と実務の結びつき、そして対外関係への対応といった、多面的な変化が重なりました。朝廷の権威と幕府の実力がせめぎ合い、在地の現実に合わせて制度を組み替える—その積み重ねが、日本列島の政治社会の骨格を長期にわたり形づくったことは、同時代の史料群(法制・訴訟文書・寺社記録・交易記録)から具体にたどることができます。鎌倉を理解することは、武家の統治がどのように生まれ、どのような局面で行き詰まるのかを読み解く手がかりになります。