「カルヴァン派公認」は、一般に1648年のヴェストファーレン条約(ミュンスター/オスナブリュックで締結)によって、神聖ローマ帝国内でカルヴァン派(改革派)がカトリックとルター派に並ぶ「合法宗派」として承認された出来事を指す言い方です。1555年のアウクスブルクの和議は、カトリックとルター派の二宗派体制(cuius regio, eius religio=領主の宗教が領内の宗教)を定めましたが、カルヴァン派はそこから外れていました。16世紀末から17世紀前半にかけてカルヴァン派はプファルツ選帝侯領、ヘッセン、ブランデンブルク、帝国都市、さらにネーデルラントなどで広がり、三十年戦争の渦中で宗派と主権の秩序が揺れるなか、最終的にヴェストファーレン体制の下で法的地位を獲得したのです。ここでは、なぜ公認が必要とされたのか、その具体内容、他地域の「公認」との比較、長期的な射程を、分かりやすく整理します。
背景—アウクスブルクの和議から三十年戦争へ:カルヴァン派はなぜ「外」だったのか
1555年のアウクスブルクの和議は、ルター派の存在を正式に認め、皇帝と諸侯・帝国都市のあいだに宗教妥協を成立させました。ここで採用された「領主の宗教が領内の宗教(cuius regio, eius religio)」は、宗教内戦を止める現実的解決でしたが、法的保護の対象は「アウクスブルク信仰告白(ルター派)」とカトリックに限られ、当時まだ制度整備の途上にあったカルヴァン派(改革派)は含まれませんでした。さらに「司教領の留保(レジウム・エクレジアスティクム)」により、司教がルター派へ転じた場合は所領を手放すべきと定められ、教会領のカトリック保持が厚く守られたのも、改革派に不利な条件でした。
しかし現実の信仰地図は、すぐに二宗派の枠を越えます。ライン中流のプファルツ選帝侯領は16世紀後半にカルヴァン派へ転じ、ハイデルベルク信仰問答(1563年)を通じて教育・礼拝の標準を整えました。ブランデンブルクも1600年代初頭に改革派を採用し、帝国都市には改革派教会が根を張ります。帝国外でも、1560年代以降のネーデルラント独立運動は改革派教会に支えられ、ドイツ西南やスイスと思想・人材のネットワークを結びました。にもかかわらず、帝国法の文言上はカルヴァン派が「保護外」に置かれたままだったため、宗派対立と領邦主権の衝突が法的に未解決の火種として残り、ボヘミア動乱(1618)からの三十年戦争では、宗派と主権の秩序が全面的に問い直される事態へ発展しました。
三十年戦争の前半では、プロテスタント諸侯の連合(カルヴァン派のプファルツ選帝侯を中心とする連合)と、カトリック側(皇帝・バイエルンなど)がぶつかり、白山の戦いやプファルツ領の没収など、宗派と所領をめぐる力による再配分が進みます。1629年の「復旧令」は、1552年以降に世俗化された教会領の回復を命じ、カトリックへの大きな揺り戻しを図りましたが、これは逆に戦争を長引かせました。フランスの参戦(1635)で戦争は大国間戦争へと転化し、帝国内の宗派秩序は軍事と外交の再設計なしには収拾できない段階に至ります。
1648年の「公認」—ヴェストファーレン条約の条項と実務的効果
1648年のヴェストファーレン条約は、ミュンスター(帝国とフランスの平和)とオスナブリュック(帝国とスウェーデンの平和)の二文書で構成され、帝国法の改訂を含みました。ここでの核心は、(1)カルヴァン派(改革派)をカトリック・ルター派と並ぶ公法上の宗派として明記し、帝国議会や裁判における宗派平等の原則を確認したこと、(2)「ノルマル・ヤール(標準年)」として1624年を採用し、その時点の宗派・教会財産の帰属を原則固定して、戦時中の強制的な転換や没収を無効化する基準を設けたこと、(3)諸侯の宗教決定権(ius reformandi)を基本的に維持しつつ、領内の少数派信徒に私的礼拝や限定的公的礼拝の権利(Exercitium religionisの一定の保護)を与え、露骨な信仰弾圧を抑制する「弁別的寛容」を制度化したこと、に要約できます。
第一点は、カルヴァン派の「法的不可視」を解消し、プファルツやブランデンブルク、帝国都市の改革派が、教会・学校・司法の領域で公然と制度を運用できる道を開きました。これにより、領邦君主が改革派であっても、帝国議会での発言や同盟形成が「違法」扱いされる余地は小さくなります。第二点の標準年(1624)は、没収された修道院・教会財産の返還をめぐる紛争を収束させ、戦前水準での均衡を取り戻す実務的基準として機能しました。第三点は、領邦主権と信徒の信仰自由の緊張を緩め、少数派の信徒生活を最低限保障するセーフガードとして働きました。全面的な信教の自由にはほど遠いものの、宗派の共存を制度の中へ組み込む第一歩だったのです。
このほか、帝国最高法院(帝国カンマー裁判所・帝国枢密院)における宗派パリティ(均衡)や、帝国議会における宗派別審議の手続き(itio in partes)が確認され、宗派間の対立を手続きで緩和する工夫が加えられました。ヴェストファーレン条約はしばしば「主権国家体制の起点」と説明されますが、帝国内部の視点では、宗派の多元性を「手続き」と「固定基準」で管理する仕組みづくりこそが、平和の実体でした。
他地域における「公認」との比較—ナント勅令、ユトレヒト同盟、ワルシャワ連盟、トランシルヴァニア
カルヴァン派の公認は、神聖ローマ帝国の話にとどまりません。比較のため、いくつかの地域を見ておくと理解が立体的になります。フランスでは、1598年のナントの勅令によってユグノーに限定的な信仰と要塞都市の保有権が認められ、内戦を一時終息させました(ただし1685年にルイ14世が勅令を廃止し、ユグノーは大量亡命へ追い込まれます)。ネーデルラントでは、1579年のユトレヒト同盟が実質的に改革派を公認の宗教として位置づけ、都市ごとの寛容実践(メノナイト、ユダヤ教徒などの居住容認)と並行して共和国の国教的性格を形づくりました。
ポーランド・リトアニア連合では、1573年のワルシャワ連盟が貴族間の宗教的平和と相互寛容を謳い、改革派(カルヴァン派)やルター派、さらに一定の範囲で反三位一体派(ソッツィニ派)も生存空間を得ました。トランシルヴァニアでは16世紀後半から複数宗派(カトリック・ルター派・改革派・ユニテリアン)が「受容された宗教」として公認され、多元主義の先駆的体制が続きます。これらはいずれも、宗派対立の激化に直面した社会が、戦争回避のために制度的寛容を模索した例ですが、対象範囲・保証の強さ・国家の関与度はそれぞれ異なり、長期的存続も一様ではありませんでした。
この比較から見えてくるのは、「公認」が単に信仰の自由の宣言ではなく、徴税・軍役・司法・教育・婚姻・墓地管理など、生活の制度全体に関わる包括的再設計だという点です。ヴェストファーレン体制のカルヴァン派公認も、信仰の表明をめぐる権利だけでなく、学校・大学の設置、教会財産の保有、牧師任免と裁判権、都市の自治慣行に直結しました。
公認の影響—帝国政治の安定化、宗派均衡の常態化、文化・教育への波及
ヴェストファーレン条約によるカルヴァン派公認は、帝国政治にいくつかの安定化効果をもたらしました。第一に、帝国議会や選帝侯会議で、改革派を排除する名分が消え、交渉テーブルの構成が現実に即したものとなりました。第二に、宗派の地理分布が法的に固定化され、領邦間の越境改宗や財産没収を伴う力づくの再編の余地が狭まりました。第三に、少数派の信徒が私的礼拝や一部の公的礼拝を維持できることは、移住や地下化の圧力を弱め、都市の経済活動や学術の継続に資しました。
教育・文化の面では、改革派の大学(ハイデルベルクなど)やギムナジウム、印刷所が安定運営に転じ、神学・法学・自然学の国際的ネットワークが再起動します。詩篇歌や教理問答の出版は、識字と共同体形成に寄与し、都市の公共空間の再建にも繋がりました。また、ユグノー亡命で流出していた技術者・商人・学者の一部が、帝国諸邦やオランダへ定着していた経験は、ヴェストファーレン体制下での宗派共存の経済的メリットを可視化しました。宗派の違いを越えた商取引や学術交流が、ゆっくりと戻っていきます。
もっとも、公認がすべての緊張を解いたわけではありません。各地で少数派礼拝の場所・時間・祝祭などをめぐる微視的な紛争は続き、帝国都市では市参事会の構成や学校人事をめぐる綱引きが長く残りました。また、改革派内部でも予定説や儀礼、政治参加のあり方で見解が分かれることがあり、17世紀後半から18世紀にかけて正統主義と敬虔主義のバランスを巡る議論が続きます。公認は「出発点」であり、共存の練習を続けるための枠組みにすぎない—この自覚が重要でした。
用語と年号の整理—何が「カルヴァン派公認」かを取り違えないために
授業や試験の文脈で「カルヴァン派公認」といえば、原則として1648年のヴェストファーレン条約による帝国内合法化を指すのが定番です。これと混同しやすい出来事として、(1)1555年アウクスブルクの和議=カルヴァン派は未公認、(2)1598年ナントの勅令=フランスでユグノーに限定的自由(1685年に廃止)、(3)1573年ワルシャワ連盟=ポーランド・リトアニア貴族の相互寛容、(4)トランシルヴァニアの多宗派公認体制、(5)オランダ共和国での事実上の国教化と都市寛容、が挙げられます。問いのスケールが「帝国法」か「各国法」かで、答える出来事が変わりますので、文脈を読み取るのが大切です。
また、ヴェストファーレン条約のキーワードとして、(a)1624年基準(ノルマル・ヤール)、(b)宗派平等(カトリック/ルター派/改革派の三宗派)、(c)少数派礼拝の限定的保護、(d)帝国議会・最高法院での宗派均衡、(e)領邦主権と帝国法の折衷、を押さえておくと、条約の実質が見えやすくなります。カルヴァン派公認は、このパッケージのなかの重要要素であり、単独の法律だけで達成されたわけではありません。
最後に、1648年の転換は、宗教の自由化というより、「多宗派を抱える広域政治を、内戦に戻さず運営するための技法」の確立でした。宗派の違いを法と手続きで包摂するという発想は、のちの世俗国家や立憲秩序の設計にも影響を与え続けます。カルヴァン派公認という一点を通して、三十年戦争後のヨーロッパが模索した現実的平和の形が見えてくるはずです。

