カルボナリ – 世界史用語集

カルボナリ(Carbonari)は、19世紀前半のイタリア各地で活動した秘密結社の総称で、ウィーン体制下の専制と外来支配に抵抗し、立憲化とナショナルな統一・独立を志向した政治的地下ネットワークを指します。名称は「炭焼き人」に由来し、森の小屋・炉・炭の象徴を用いた儀礼や隠語が有名です。思想的には、啓蒙主義とフランス革命の市民的自由の理念、ナポレオン期に拡がった法の平等・近代官僚制の記憶、そしてカトリック的道徳語彙を折衷しつつ、反専制・反オーストリア・反警察国家を掲げました。各地の支部(ヴェンディータ)を核に軍人・官吏・弁護士・学生・職人らが分散的に結びつき、1820–21年・1830–31年の蜂起で可視化されます。大規模な統一国家の創出には至らなかったものの、リソルジメント(イタリア統一運動)の前段で政治文化・抵抗技法・連帯の言語を準備した点に大きな歴史的意義があるのです。

以下では、起源と思想的背景、組織と儀礼・通信の仕組み、主要な蜂起の経過と弾圧、そして遺産と限界・国際波及を、できるだけ平易に整理します。概要だけでも大枠を掴めますが、さらに知りたい方は各見出しをご覧ください。

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起源と思想—ナポレオン期の記憶、ウィーン体制への反発、立憲主義の受容

カルボナリの起点は、19世紀初頭のナポリ王国や南イタリアにさかのぼるとされます。フランス占領とナポレオン的改革(法典・行政・軍制)は、旧体制の特権を揺るがし、同時に反発と失望も生みました。1815年のウィーン会議後、半島は複数の王国・公国に復旧され、ロンバルディア=ヴェネトはオーストリアの直接支配下に入り、各地で警察権力と検閲が強化されます。こうした「反動」と対をなす形で、地下の結社が広がりました。カルボナリはフリーメイソンの儀礼や構造から影響を受けつつ、よりイタリア的・民衆的な象徴を用い、山間の炭焼き小屋を模した場で「炉(フォルノ)」や「炭(カーボネ)」を徳・真理・労苦の寓意として扱いました。

思想面では、立憲体制の確立(権利章典・議会・責任内閣)と法の支配、言論・結社・信教の自由が中核です。宗教には否定的というより、教会権力の政治支配には批判的で、個人の信仰と公共道徳の調和を強調する傾向がありました。地域によっては、明確に反教権主義・世俗主義を掲げる分派も現れます。対外的には、オーストリアによる介入・占領体制への反対、半島諸国の連帯・統一の希求が共有されました。

組織と儀礼・ネットワーク—ヴェンディータ(支部)、階梯制、隠語と通信

カルボナリは単一の中央集権組織ではなく、大小の「ヴェンディータ(売場・支部)」を基礎とする分権ネットワークです。会員は徒弟(アプレンディスタ)—職人(マエストロ)—高位会員(グラン・マエストロ等)といった階梯を昇格していき、誓約・試問・寓意的儀礼を通じて仲間意識と規律を養いました。入会の誓いは、国家と自由のため沈黙を守り、同志を裏切らないことを神前に誓う形式が多く、違反には厳罰を暗示する文言が含まれました。これは実際の暴力の常用を意味するというより、密告と分断の蔓延する社会で信頼を再構築するための心理的装置でした。

通信・連絡は、暗号化した書簡や合言葉、象徴(斧・炭・炉)、日常的な職能ネットワーク(職人・行商・学生・兵士の移動)を活用して行われました。構造の分権性は、摘発に対する耐性を高める一方、統一指揮や全国的蜂起の同時性を阻む要因にもなります。しばしば軍の士官や下士官が参加し、兵営内の連絡線(ロッジ)が決起の「点火装置」になりました。上層には「アルタ・ヴェンディータ(高位支部)」と呼ばれる指導層が存在したとされ、諸侯や高位聖職者の一部にも同情者がいたと伝えられますが、全体像は地域差と時期差が大きいのが実情です。

この組織文化は、のちのマッツィーニらの「青年イタリア」に継承されつつ、批判も受けます。すなわち、陰謀・軍事クーデタ依存の傾向、秘密性が生む内部不信、地方主義の強さが、広範な国民動員と公開政治に適応しにくいという反省です。とはいえ、弾圧下で政治的公共圏を維持する技法—密かな印刷・ビラ配布・法廷での演説・獄中記の出版—は、この時期に洗練されました。

蜂起の展開—1820–21年ナポリとピエモンテ、1830–31年中部諸邦、そして弾圧

カルボナリの存在が広く知られる契機は、1820–21年の一連の蜂起です。まず1820年7月、ナポリ王国でグリエルモ・ペペら軍人カルボナリが決起し、国王フェルディナンド1世にスペイン憲法(1812年憲法)受容を迫って成功、立憲政府が発足しました。しかし、ウィーン体制の守護者を自任するオーストリアは「トロッパウ議定書(1820)—ライバハ会議(1821)」の大国合意を背景に介入し、翌1821年3月にはナポリに再侵入して革命政権を崩壊させます。このときの敗北は、外部の軍事圧力に対する地域政府の脆弱さを露呈しました。

同1821年、サルデーニャ王国(ピエモンテ)でもサントッレ・ディ・サンタローザらが蜂起し、カルロ・アルベルト皇太子が一時的にリベラル派と歩調を合わせるなど政変が進みましたが、ここでもオーストリア軍の出動で短命に終わります。多くの指導者が亡命し、ロンドンやパリ、マルセイユにイタリア人コロニーが形成され、ヨーロッパ都市の亡命者ネットワークができあがりました。

1830–31年には、フランス七月革命の余波がイタリアに及び、モデナ公国・パルマ公国・教皇領の諸都市(ボローニャ、フェラーラ、レッジョなど)で一斉に立憲自治を宣言する動きが起こります。モデナではチーロ・メノッティが中心となり、公爵フランチェスコ4世との駆け引きの末に逮捕・処刑され、運動は失速しました。教皇領レガツィオーニでは「イタリア合衆国臨時政府」的な試みが現れますが、ここでもオーストリアの救援軍が介入して鎮圧、旧秩序が回復します。こうした経験は、各都市の「市民軍」の力量不足、農村の支持の薄さ、軍事と外交の同時運用の困難を浮き彫りにしました。

弾圧は苛烈でした。秘密結社そのものを禁圧する法令、検閲と密偵制度の強化、見せしめ的裁判や投獄・追放が相次ぎます。とくにオーストリア支配下のロンバルディア=ヴェネトでは、警察国家的監視が張り巡らされました。他方で、裁判廷や獄中から発せられた弁明書・回想は広く読まれ、シルヴィオ・ペッリコ『我らの牢獄(Le mie prigioni)』などのテクストは、抑圧の実相と自由の倫理を広い読者に伝える「逆流」の役目を果たします。

影響と評価—リソルジメントへの橋渡し、国際波及、遺産と限界

カルボナリは、イタリア統一そのものを達成したわけではありませんが、政治文化・人的ネットワーク・抵抗のレパートリーにおいて、決定的な橋渡しを果たしました。第一に、立憲主義と言論・結社の自由という語彙を、裁判・新聞・サロン・講義・説教といった公共の場へ押し出し、「秘密から公開へ」の道筋をつけました。第二に、軍人・中産市民・職人・学生を横断する社会連帯の萌芽を育て、後続のマッツィーニ派やガリバルディの志願兵運動、1848年の「諸国民の春」に参加する市民ミリシアの母体を提供しました。第三に、亡命ネットワークを通じてロンドン・パリ・マルセイユ・ブリュッセルにイタリア問題を国際化し、外国の自由主義者・新聞・出版社を巻き込む「世論の回路」を確立しました。

国際的には、カルボナリ的陰謀様式はフランスのカルボナリスム(1821–22年の陰謀)、スペインやポルトガルの自由主義結社、ポーランド蜂起の秘密組織、ロシアのデカブリスト(1825)の地下結社とも共鳴しました。対する旧体制側は、教皇ピウス7世の回勅『Ecclesiam a Jesu Christo』(1821)やレオ12世『Quo graviora』(1826)で秘密結社を厳しく非難し、ウィーン体制の大国は「相互干渉」の名の下に鎮圧を正当化します。こうして、結社—弾圧—世論—亡命—再挑戦という循環が19世紀前半のヨーロッパに広がりました。

評価と限界については、いくつかの点が指摘されます。肯定的には、カルボナリは抑圧下の社会で「信頼と規律の小さな公共圏」を維持し、法廷闘争や印刷・説得の技法を磨き、自由と祖国の結びつきを日常語にしたことが挙げられます。他方、限界は、(1)地域分散と内輪の儀礼が全国的統一行動を阻んだこと、(2)軍部の一部と都市中層に依存して農村大衆への浸透が弱かったこと、(3)反オーストリアと立憲主義という「否定の連合」は強かったが、統一の具体像(連邦か中央集権か、王政か共和か)で一致を欠いたこと、に集約されます。この反省は、1848年革命や1860年代の統一戦争期に、王政下の立憲統一(サルデーニャ王国主導)へ現実的に接続していく上で重要な前提となりました。

総じて、カルボナリは、地下に芽吹いた「政治の学校」でした。焚き火のほの暗さで誓われた約束は、敗北と亡命の連鎖に晒されながらも、近代イタリアの市民文化と公共倫理のDNAに入り込みます。炭焼き小屋の象徴は、煙のように消えたのではありません。のちの公開政治と国民的動員の炎を支える、見えない種火として燃え続けたのです。