議会派 – 世界史用語集

「議会派」は、17世紀のイングランド内戦(English Civil Wars, 1642–1651)において、国王チャールズ1世を支える王党派(Royalists, Cavaliers)に対抗して、国会(議会、Parliament)の権限擁護と宗教改革の徹底を掲げて戦った勢力の総称です。都市の市民層、ジェントリ(郷紳)、一部の貴族、商人、職人、急進的なピューリタン諸派が広く結集し、最終的に新模範軍(New Model Army)を軸に勝利して共和政(コモンウェルス)を樹立しました。彼らは必ずしも単一の政党ではなく、長老派(Presbyterians)と独立派(Independents)などの複数潮流を内包し、王権の統制方法、教会制度、徴税・財政、軍の統帥権をめぐって内部論争を抱えつつも、議会主権の拡大と専制抑止という共通目標で行動した点に特徴があります。内戦の過程で議会派は徴税・軍制・海運・貿易の制度を再設計し、航海法や宗教寛容(一部制限付き)など近世イングランドの政治経済秩序を大きく塗り替えました。本稿では、①形成の背景と社会的基盤、②内部構成と軍事・組織運用、③内戦・共和政への歩みと権力の再編、④宗教・経済・対外政策と遺産、の四点から、平易に整理して解説します。

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形成の背景と社会的基盤—王権と課税・宗教の争点

議会派の台頭は、国王チャールズ1世の統治に対する広範な不満と結びついていました。財政面では、議会の同意なしに船舶税(Ship Money)などの課税や強制貸付を繰り返し、王室裁判所(星室庁・高等宗教裁判所)を通じた恣意的司法が問題視されました。宗教面では、大主教ロートの主導する礼拝や教会統治の「高度教会派」的改革が、清教徒(ピューリタン)にとってはカトリック回帰と映り、国教教会の統一をめぐる対立が深まりました。王は1629年から11年間も議会を開かない「専制的親政」を続けましたが、スコットランドの反乱(主教戦争)で軍資金を要し、1640年に短期議会・長期議会を召集せざるを得なくなります。

こうしてロンドンの商工業者、港湾市、織物産地、東部の穀倉地帯など、国家財政と貿易を支える諸地域が議会派の社会的基盤となりました。市民的自由の保護、課税の合法性の確保、教会統治の改革を求める声が、地方のジェントリや弁護士、説教師を媒介に広がり、請願・印刷物・説教という情報回路で結びついていきます。議会派は、単なる反王権ではなく、法に基づく統治(rule of law)と納税者の同意という原理を掲げる側であったことが重要です。

内部構成と軍事・組織—長老派と独立派、新模範軍の創設

議会派の内部は一枚岩ではありませんでした。長老派はスコットランド型の教会制度(長老制)の全国導入と、教会統一の確立を志向し、妥協的王政維持に前向きでした。これに対して独立派は、各会衆(コングリゲーション)の自律を重んじ、宗教的少数者への一定の寛容を唱え、国王の統制をより強く求めました。清教徒の急進派(バプティスト、分離派、水平派=レベラーズなど)は、議会派の外縁から強い圧力を加える存在でもありました。

軍事面では、初期の地方義勇軍と傭兵中心の体制では王党派の騎兵に後れを取りがちでした。これを是正するため、1645年に「自制条例(Self-Denying Ordinance)」で軍と議会の兼職を原則廃し、フェアファクス総司令官とクロムウェル(騎兵指揮)らのもとで常備的・全国規模の新模範軍が創設されます。新模範軍は、兵站・給与・装備の統一、厳格な規律、能力主義的な将校登用、宗教的モラルと説教による結束で知られ、ネイズビーの戦い(1645)などで決定的勝利を挙げました。軍は単なる戦闘組織にとどまらず、請願や討議を通じて政治的意思を形成する場となり、後の権力再編に大きな影響力を持ちます。

議会運営では、評議会・委員会・徴税局・海軍委員会などを整備し、戦費調達と地方行政の統合を図りました。印刷・出版の統制、検閲、対王党派プロパガンダも組織的に行われ、都市のクラブや教会が情報の結節点となりました。ロンドン市の資金力、港湾の租税、商人の前貸しが、議会派の持久力を支えた点は見逃せません。

内戦と権力再編—国王裁判、共和政、護国卿期への道

第一次内戦(1642–46)で優位に立った議会派は、和平交渉をめぐって内部対立を深めます。長老派は国王との妥協に傾き、独立派と新模範軍は、国王の二重交渉や反乱扇動を問題視しました。1648年、王党派残党とスコットランド勢の「第二次内戦」が勃発すると、軍は「国家の敵」として国王の責任追及に踏み切ります。1648年末の「プライドのパージ」により、軍は長老派議員を武力的に排除し、残存議会(Rump Parliament)は1649年に特別裁判所でチャールズ1世を〈国家への反逆〉として有罪・処刑に付しました。これは「王は法の上に非ず」という主権概念の転換点であり、欧州政治史においても特異な事件でした。

王政廃止後、コモンウェルス(共和政、1649–53)が宣言され、上院の廃止、王室地所の没収、アイルランド・スコットランドへの遠征が行われます。クロムウェルはアイルランド鎮圧で苛烈な手段を用い、反発と長期的宿痾を残しました。他方で、海軍力を整備して第一次英蘭戦争(1652–54)に勝利し、海運と貿易の覇権をめぐる新局面を切り開きます。議会はしばしば分裂と停滞に陥り、1653年、クロムウェルは軍事的支柱を背景に「護国卿(Lord Protector)」として統治権を引き取り、護国卿統治(プロテクタレート、1653–59)が始まりました。

護国卿期の統治は、宗教的・政治的寛容と秩序維持の折衷を模索するものでした。クロムウェルは各種の非国教徒プロテスタントに礼拝の自由を一定認め、ユダヤ人の再受け入れを許可する一方、国教会やカトリックには制限が残りました。憲章的文書(Instrument of Government 1653、Humble Petition and Advice 1657)は、行政・軍・議会の権限配分を定め、君主制度なき憲政の試みでしたが、軍と議会の力学は最後まで安定せず、財政と選挙改革も定着しませんでした。クロムウェルの死後、政局は揺らぎ、1660年にチャールズ2世が迎えられて王政復古が実現します。

宗教・経済・対外政策と遺産—寛容・航海法・「議会主権」の基層

議会派の宗教政策は一枚岩ではないものの、「国家教会の強制的統一を緩め、プロテスタント内部の多元性を拡げる」という方向性を持ちました。完全な信教の自由ではなく、カトリックや反三位一体派には強い制限が残りましたが、独立派が推す〈良心の自由〉は、のちの寛容法(1689)や啓蒙期の議論の前提を耕しました。説教・出版の自由度が上がることで、都市の公共圏が広がり、識字と自律的結社の伝統が強化されたことも重要です。

経済・対外面では、1651年の〈航海法〉が象徴的です。これは、英本国と植民地間の交易を英船・英人に限定し、オランダ商船の仲介排除を狙う保護・重商主義政策でした。海軍・商船の育成、港湾・造船の雇用、関税収入の確保を通じて、イングランドを海上帝国へと押し上げる足場となります。内戦期には議会派が港湾・関所・関税を掌握し、財政と金融の近代化(公債、市場金利の可視化、歳入管理)も前進しました。

議会派の最大の遺産は、〈議会の同意なき課税は許されない〉〈軍の維持と統帥は文民の統制下に置かれるべき〉という原理を、実戦と制度で具体化した点にあります。これは王政復古後も完全には巻き戻らず、名誉革命(1688–89)と権利章典、財政=軍事国家(fiscal-military state)の成立、内閣と政党政治の発達へと接続していきました。議会派の内部対立や軍の政治介入は、代議制と武力の関係という難問をも露わにし、近代の立憲主義が解くべき課題を先取りしました。

要するに、議会派は「王に抗った反乱軍」ではなく、「法に基づく統治と納税者の同意」を軸に、宗教と政治の秩序を組み替えた広範な社会的連合でした。都市・商業・新興地主の利害、市民的自由の要求、宗教改革のさらなる前進という複数のベクトルを束ね、軍事的には新模範軍という近代的常備軍のプロトタイプを創出しました。勝利後に露呈した権力の集中と分立の緊張は、のちの憲政の制度設計に深い示唆を与え続けています。議会派を理解することは、イングランド内戦を英雄譚としてではなく、制度と社会の再編という観点から読み解く近道になります。