考証学(こうしょうがく/Kaozheng)は、明末から清代にかけて中国学術界で興隆した、文献の真偽・語義・音韻・制度・度量衡・地理・暦算などを、実証的な方法で検討する学風の総称です。宋明理学のように大きな道徳原理から万事を導くのではなく、紙背の証拠・文字の形体・音訓・典籍の伝来・版本の系譜・石刻や青銅器の銘文といった具体的資料に基づいて、細部から全体像へ近づく姿勢が要でした。清中期の乾嘉期(乾隆・嘉慶年間)に最盛を迎え、経書の校勘・音韻学・訓詁学・目録学・金石学に卓抜な成果を残しました。代表的な人物には、顧炎武・黄宗羲・王夫之の先駆、厳若璩・閻若璩(同人)・惠棟・戴震・段玉裁・王念孫・王引之・阮元・朱駿声・孫星衍・張穆・章学誠などが並びます。彼らは「実事求是(事実に即して是を求む)」を学問の規範とし、虚飾を排して、典籍の世界に積み重なった矛盾や混乱を整理し直しました。以下では、成立の背景、方法と領域、主要人物と成果、展開と帰結を、わかりやすく説明します。
成立の背景――宋学批判と明清交替、印刷・蔵書文化の成熟
考証学が生まれた土壌には、いくつかの大きな要因が重なっています。第一に、宋明理学(朱子学・王学)に対する批判です。理学は道徳形而上学を重視し、経書の講学を通じた教化を学問の中心に据えましたが、明末には空論化・語録主義への反発が強まりました。顧炎武や黄宗羲は、世の乱れを前に「学は世用に資すべし(経世致用)」を唱え、原典へ立ち返る厳密な読解と、制度・地理・財政・兵農の具体的研究を志向しました。この姿勢が、のちの乾嘉学派に「方法」として継承されます。
第二に、明清交替による学術環境の変化です。清朝は版籍・賦役の把握を徹底し、国家の文書行政が整備されました。他方で、文字の獄に象徴される言論統制は、政治思想の抽象的論争を抑制し、比較的安全な領域としての文字・音韻・訓詁・校勘に人材が流入する契機になりました。国家が主導した『四庫全書』の編纂や図書整理は、大規模な資料蒐集を促し、目録学・版本学の発達をうながします。こうして、網羅的な情報へのアクセスと、細密な文献実務を担うエコシステムが整いました。
第三に、印刷と蔵書文化の成熟です。明代中葉以降、私家版の出版が盛んになり、江南では商業出版・書肆のネットワークが形成されました。清代に入ると、徽州商人・蘇州・杭州・揚州などの富裕層が蔵書楼を建て、善本の収集・影印・校勘を競います。校雠(こうしゅう)の基盤としての版本比較が可能になったことは、考証学の方法を現実に支えました。石刻拓本や青銅器の銘文(金石)も収集対象となり、紙の本に閉じない資料観が育ちます。
方法と領域――小学・訓詁・音韻・金石・制度学の総合
考証学の方法は、とくに「小学」と総称される基礎学(文字学・音韻学・訓詁学)に依拠します。文字学では、『説文解字』に始まる字書の体系を再検討し、字形の変遷・偏旁の組成・篆隷楷行草の書体差を意識して、誤写と異文を峻別します。段玉裁『説文解字注』は、その代表的成果で、許慎の体系を最新の資料で補正し、用例と意義を具体化しました。
音韻学では、反切・等韻・四声の体系を精密に扱い、『切韻』『広韻』『集韻』など韻書の系譜を辿って、古音(上古音)・中古音の再構成を試みます。王念孫『広雅疏証』、『読書雑志』に見える音義の考証、王引之『経伝釈詞』などは、語の意味が音声的類推で拡散した歴史を示し、語義の確定に音韻を用いる模範を示しました。音義の手がかりは、経史子集の用例から民間文書、金石文まで幅広く求められます。
訓詁学は、語の用法と句の構造を対象に、章句の意味を歴史的文脈に即して確定する作業です。戴震『孟子字義疏証』は、理学的な道徳的解釈を退け、語の本義・通義を丹念に追って、『孟子』を「言葉の体系」として読み直しました。こうして、経学は抽象的な「義理」から、言語事実を積み上げる「証据」に軸足を移します。
金石学は、石刻・鐘鼎文・碑誌・墓志銘・石経など、書物以外の固着資料の読解を通じて、伝世文献の誤りをただしたり、失われた制度・地名・人名を復元したりする領域です。清代には拓本の蒐集・交換が盛んになり、阮元『積古斎鐘鼎彙編』、孫星衍『寰宇訪碑録』などが、考古的資料を経学・歴史学に接続しました。
制度学(礼制・官制・律令・度量衡・暦算)も考証学の重要分野です。礼制では、喪祭・冠婚の規定を『周礼』『儀礼』『礼記』の伝に照らして比較し、諸本の矛盾を調停しました。官制・地理では、郡県・道里・駅伝の実測を重ね、古今の名称と実地を対校する作業が進みます。暦算・天算では、西洋暦法の導入に伴う再整理もあり、考証学の「実測主義」は、新知識の受容を助けました。
目録学・版本学も欠かせません。『四庫全書総目』の類は、書名・著者・巻数・版本・内容を記載し、偽書・佚書・重出の判定に基準を与えました。これにより、研究者は「何が信頼でき、何が疑わしいか」を共有でき、学術コミュニケーションの土台が固まります。
人物と成果――厳若璩・戴震・段玉裁・王氏父子・阮元・章学誠
厳若璩(閻若璩)は、『尚書』のいわゆる「古文尚書」の多くを偽作と論じ、伝世経典の権威に正面から切り込みました。綿密な語彙・文体比較と伝本の系譜分析にもとづくこの「偽古文」論は、考証学の胆力と方法の象徴として知られます。
戴震は、音訓の厳密な分析と、哲学・倫理の議論を接続した学者でした。『孟子字義疏証』は、用語の本来の意味に即して議論を再構成する試みであり、語義の微分が道徳と政治の大論題に波及しうることを示しました。戴震はまた、快楽・欲望の肯定を含む人性論を展開し、理学の勧善主義に対する批判的対案を提示します。
段玉裁は『説文解字注』で、字形・音義・用例を網羅的に注解し、古文字資料を取り込みながら許慎の字書を再生させました。段の作業は、単なる注釈ではなく、資料批判と再編の総合で、近代的な言語学の先駆とも評価されます。
王念孫・王引之の父子は、それぞれ『広雅疏証』『経伝釈詞』などで語義・虚詞の精密な分析を行い、古典読解の基礎体力を飛躍的に高めました。虚詞(之・其・者・也・以・於など)の機能を歴史的に捉え直すことで、文意の取り違いを矯正した功は大きいと言えます。
阮元は、学官・地方長官として学術行政を推進し、『皇清経解』や金石彙編の編纂、『経籍志』の整備、学者の育成に尽力しました。揚州・蘇州のサークルを束ね、研究資金・出版・交流のインフラを提供した点で、考証学の「制度的支援者」と位置づけられます。彼のもとに集った学者群(江藩・焦循・朱駿声・孫詒譲ら)は、専門分化と協業のモデルを示しました。
章学誠は、「六経皆史(六経はすべて歴史である)」の命題で知られ、経学と史学を統一して捉える視座を提示しました。『文史通義』は、文献学・史学・経学の境界を横断し、学問の実証的基礎と叙述の構築原理を論じます。彼の方法意識は、近代歴史学の出発点の一つとして評価されています。
展開と帰結――乾嘉の盛期から近代転換、他地域との接続
乾嘉期には、考証学は経学の主流となり、官学・私学の双方で研究と教育が広まりました。書院では小学・訓詁の講習が基礎科目となり、郷塾でも反切・韻書の素養が求められます。蔵書家・学者・書肆・刻工・拓工・目利きが結びついたサプライチェーンが形成され、研究は個人の書斎を越えて「分業の知」となりました。国家の編纂事業(『四庫全書』など)は資料の集中と整理を助ける一方、禁書・収抑の政治が研究の範囲を画し、学知と権力の緊張は常に存在しました。
19世紀後半、列強の圧力と国内の動揺が深まると、学界は「経世致用」の再燃と、西学(西洋科学・法政)の受容を迫られます。考証学で培った実測・比較・資料批判の技法は、暦算・測量・地図・化学・鉱物・医学など新領域の理解に資する一方、政治・制度の大改革を語るには速度が足りないと見なされる場面も増えました。考証学者の一部は、海関統計・地理誌・兵制史の実証に活路を開き、他の一部は新学堂の設置や訳書事業に関わります。劉師培・章炳麟らは訓詁・音韻の技法で国語学・国粋主義を展開し、近代国語学の形成に橋を架けました。
同時期、日本の国学・和刻本・朝鮮の実学・ベトナムの阮朝学術とも、学風の共鳴と資料の往還が見られます。清末の留学生・書籍商が媒介となって、韻書・字書・金石拓本・地図が東アジアを循環し、東西の知識体系の交差が起こりました。考証学の技法は、台湾・日本・朝鮮の東洋学・漢学にも吸収され、碑誌・甲骨・簡牘の読解へと進化します。清末に発見された甲骨文・金文の体系的研究は、考証学の金石学を拡張し、上古史の再構成へと連なりました。
民国期には、新文化運動の文脈で、考証学はしばしば「小さき学」「章句の学」と批判されました。胡適の実証主義や傅斯年の史学革命は、別の言葉で同じく「証拠の学」を唱えつつ、対象と枠組みを近代歴史学・社会科学へ広げようとしました。ここで、乾嘉以来の校勘・訓詁・音韻・金石の技法は、大学制度の中で「国学」「文献学」「歴史語言学」として再編されます。つまり、考証学は姿を変えながら、基礎技法として残存・継承されました。
今日から見れば、考証学は一方で細密で保守的に見えるかもしれませんが、他方で、資料批判を学問の基礎に据え、言葉と制度と物証を統合して過去を再構成する方法は、分野を越えて有効です。文字一画の違い、音韻一母の配列、拓本文の字配、それらの「小さな事実」を手がかりに、歴史像を丹念に組み立てていく営みが、清代の書斎と書肆のあいだで静かに続けられていたのだという理解が、考証学をつかむ近道になります。

