朝鮮における「義兵(ぎへい、의병/義兵)」は、国家の非常時に官軍を補い、あるいは官権が機能不全に陥ったときに自発的に蜂起して領土と共同体を守った民間武装の総称です。中核を担ったのは地方の両班(儒生・郷紳)や僧侶、農民・商工民で、王朝への忠義や名分、郷里社会の自衛、異国の侵略への抵抗といった理念に動機づけられました。とりわけ壬辰倭乱(文禄・慶長の役, 1592–98)での「壬辰義兵」と、19世紀末から日韓併合(1910)前後にかけての「近代義兵(反日義兵)」が歴史的に著名です。前者は官軍の敗走と補給途絶のなか、在地の志士・僧兵が遊撃戦で背後を攪乱し、国土の回復に貢献しました。後者は甲午改革・乙未事変(閔妃殺害, 1895)・乙巳条約(保護条約, 1905)など主権侵害に対する抵抗として拡大し、やがて満洲・沿海州へと拠点を移す独立武装闘争へ接続していきます。本稿では、成立の背景、主な蜂起と指導層、組織・戦術・兵站、思想と社会基盤、近代以降の展開と評価を、できるだけ平易に整理して解説します。
成立の背景:名分論と郷里共同体、防衛の社会的土台
義兵の思想的背景には、儒教的な名分論と「忠義」観がありました。王朝(国君)への忠誠、先祖の墓域・社稷の防衛、郷里の父老母子を守る責務が、私兵動員や自費装備を正当化しました。実際の動員の場は、郷約(郷里の相互扶助・規範)や書院・書堂といった儒学的社交、寺院・僧房の組織、そして里社・市場の縁でした。国家非常のたびに、これらの結節点が民兵の招集所に変わります。
法的・制度的にみると、朝鮮王朝は平時には兵農分離と常備軍(五軍営・訓練都監など)による防衛を志向しましたが、国境・倭寇・女真対策では在地への自衛委任も不可欠でした。武器は弓・火縄銃・長柄武器が中心で、火器・火薬の確保は官倉や捕倭倉、地方の金属工房に依存しました。寺院は山間に位置し、兵站の隠匿・糧秣供給・情報連絡に適していたため、僧兵(僧義兵)の基盤となりました。
壬辰義兵(1592–98):在地志士・僧兵・游撃のネットワーク
1592年、豊臣政権の侵攻により官軍は釜山から漢城・平壌へと急速に後退し、王室は北方へ避難しました。この空白を埋めたのが各地の在地勢力による義兵です。代表的人物として、慶尚道の郭再祐(곽재우)、全羅道の高敬命(고경명)・趙憲(조헌)、忠清道の趙憲と並ぶ金千鎰(김천일)らの志士、江原道の李浚慶(이준경)系の郷紳、そして僧侶の西山大師・休静(서산대사 休靜・惟政の号は清虚)と、実戦指揮で知られる三寶僧侶・惟政(サミョンダン 釋惟政, 通称:松雲大師)らが挙げられます。
壬辰義兵の戦いは、城郭の争奪よりも、補給線の遮断・小規模奇襲・地の利を生かした山野戦に特徴がありました。郭再祐は洛東江流域で赤衣の軍(赤衣将軍として知られる)を率いて渡河点を制し、敵の背後を撹乱しました。高敬命は全州・長興などで郷兵を糾合し、金千鎰は南原や稷山の守備で奮戦しました。僧兵は山城の守備・糧秣輸送・夜襲で威力を発揮し、水軍(李舜臣)・官軍の再建を側面支援しています。
兵站は在地の有力者の私財、寺社の備蓄、郷里の米塩供出で賄われ、軍律は儒仏の規範(略奪禁止・婦女保護・逃亡厳罰)で維持されました。義兵の蜂起はモラル・ブースターとしても機能し、官軍再建までの時間を稼ぎ、後方の治安と地域住民の抵抗意志を支えた点で、戦略的意義が大きかったと評価されます。他方、各地の指揮統一や補給の重複、戦果の誇張など、在地分散ゆえの限界も併存しました。
近代義兵(1895–1910):主権侵害への抵抗と独立戦へ
19世紀末、内政改革の混乱と列強の干渉が重なり、義兵は新たな局面に入ります。1895年の乙未事変(閔妃殺害)と断髪令は、儒生層に「名分の破壊」と受け取られ、在地の儒学者・郷兵が蜂起しました。指導者としては、崔益鉉(최익현)、柳麟錫(유인석)、李麟栄(이인영)、申乭石(신돌석)などが著名です。彼らは檄文を掲げ、外国軍の撤退、断髪の撤回、売国官僚の処罰を訴え、地方で官衙・憲兵隊・鉄道・電信を襲撃しました。1896年の一時的鎮静後も、1905年の乙巳条約による保護国化は大きな波を呼び、1907年の軍隊解散(旧韓国軍の武装解除)は、職を失った兵士を義兵に合流させ、運動を全国規模の武装抵抗に変えました。
戦術はゲリラ戦に進化し、山地・森林を拠点に小部隊で行動、夜戦・待ち伏せ・鉄道破壊・税務所襲撃で占領統治の神経を刺す方式が広まりました。李麟栄の「13道義兵総司令部」構想は、分散蜂起の統一を目指す試みで、通信手段として飛脚・密書のほか、古典語の暗号や仮名交じり文書(対外宣伝)も用いられました。財源は郷里の賦課、富裕者の献金、敵補給の鹵獲に依存し、武器は旧式小銃・獣銃・日本軍からの奪取品・手製爆薬などが混在しました。女性の支援網(食糧・衣服・潜伏先の提供)や学生・商人の情報網が、陰の兵站を構成しました。
義兵には保守的名分論と近代的ナショナリズムが交錯しました。崔益鉉・柳麟錫らの檄は「衛正斥邪(正を衛り邪を斥く)」の語を多用し、王政・礼教の回復を訴えますが、1900年代には「国権回復」「自主独立」が前面に出て、国外への宣伝(海外新聞・亡命政権との連絡)が強化されます。東学(後の天道教)系の民衆運動は、初期には官軍と衝突(甲午農民戦争)しましたが、のちには義兵と連携する地域も生じ、反日・反外勢の広い連合が模索されました。
日本側は憲兵警察・鎮圧部隊・親衛団を組織し、戸籍・通行許可・鉄道と電信の管理、保甲制度の再編で治安網を構築しました。懐柔(投降勧告・帰農支援)と強圧(縛首・村落焼討・連座)の両面作戦がとられ、義兵は1909年頃までに本土での大規模行動が困難に陥ります。多くの指導者が戦死・処刑・流刑となる一方、生き残った指揮官や若手は満洲・沿海州に拠点を移し、「義兵」は「独立運動軍」「光復軍」へと名を変えて国境の外で戦い続けました。
組織・戦術・兵站:分散ネットワークの強みと弱み
義兵は、常備軍の編制・訓練・兵站に比べれば、組織はゆるく、指揮統一や補給の面で脆弱でした。しかし、その分「現地適応力」と「学習速度」に優れました。地形認識、在地の人脈、文化的正当性(儒仏の規範、祖先祭祀の守護)によって、占領者の情報網に対抗しうる「見えない回路」を持ちえたのです。壬辰期には弓・火縄・槍と小舟・山城を組み合わせ、近代期には小銃・爆薬・鉄道破壊・電信遮断が導入されました。夜襲・佯動・誘引・分進合撃の作法は、官軍経験者や猟師・山民の知恵から学び、短期間で共有されました。
兵站の要諦は「散」「薄」「速」です。定常的な補給線を持たず、蓄えは小規模に分散、移動は迅速、追跡を受ければ村落・寺院・山小屋のネットワークへ消える。これが可能だったのは、郷約・門中(宗族)・寺院・市の相互扶助と、文書・檄・讃歌による士気の維持があったからです。他方、旱魃や冬季の糧秣欠乏、武器弾薬の枯渇は直ちに戦力を奪い、情報漏洩・密偵の浸透は壊滅的打撃を招きました。義兵の成否は、地元社会の支持の厚みと抑圧の強度の相関で決まりました。
思想・文化:忠義から国権回復へ、宗教者の役割
義兵を鼓舞した言葉は時代で変容しました。壬辰期の檄は「大義名分」「君父の仇討ち」「社稷の護持」を説き、仏教側は国土守護と衆生救済の発願を重ねました。近代期には「国権恢復」「自主独立」「外勢逐除」といった近代的ナショナリズムが前景化します。宗教者の役割も一貫して重要で、休静・惟政の系譜は近代においても僧侶・道士・巫覡が連絡・隠匿・治療・祈祷で後方を支えました。義兵歌・挽歌・碑文は記憶を継承し、地方の祠や史跡は「忠義」の教材として機能しました。
近代以降の継承:独立軍・三・一運動、記憶の政治
1909年以降、国内での大規模武装は困難となり、1910年の併合後は満洲・沿海州・中国本土に本拠を移した独立武装闘争が展開します。義兵出身者は、韓人愛国団、北路軍政署、互助軍、義烈団、のちの大韓民国臨時政府傘下の光復軍など各系統に合流し、鉄道・橋梁の破壊、要人狙撃、宣伝戦に従事しました。1919年の三・一運動は非暴力の大衆運動として記憶されますが、背後には長期の武装抵抗の経験とネットワークがあり、蜂起の地域分布や指導層の顔ぶれには義兵期の名望家・宗教者・青年が重なります。
戦後の記憶政治では、義兵は「国民的抵抗の先駆」として顕彰される一方、近代義兵の中の保守名分論や排外主義、内部の分裂も検討対象となりました。壬辰義兵についても、武功の評価と地域的誇張、僧兵の位置づけなど学術的議論が続いています。記憶の継承は碑・祠・史跡・教科書・映像作品で担われ、地域祭礼や行進は、歴史への接続点となっています。
位置づけ:帝国と共同体のはざまをつなぐ抵抗の形
義兵は、正規軍でも単なる暴徒でもない「中間的な武装秩序」でした。国家が弱体化したとき、郷里共同体の自律と名分に基づいて武装し、外敵や専横に抗して公共善を守るという理念が、その背骨です。壬辰期には在地の自衛が国家再建の時間を稼ぎ、近代には主権侵害への抵抗が国民国家形成の情念を育て、国外の独立戦へとつながりました。分散・即応・在地支援という特性は、軍事的には脆弱さと紙一重ですが、社会の粘り強さと想像力を可視化する役割を果たしました。義兵の歴史をたどることは、非常時における社会の自己組織化、名分とナショナリズムの交錯、宗教と軍事の関係、そして記憶の継承の力学を学ぶ手がかりとなります。

