義兵闘争とは、19世紀末から20世紀初頭にかけて朝鮮半島で起こった、日本の政治・軍事的介入と植民地化の進行に抵抗するための自発的武装運動の総称です。儒学教育を受けた在地の知識人(儒生)や郷里の有力者、農民、職人、僧侶、さらには旧軍人まで、多様な人びとが「義」の名の下に結集しました。政府公認の正規軍ではなく、地域ごとに組織された民間の戦闘集団であり、占領当局や協力的な官僚・親日勢力に対してゲリラ戦を展開した点が大きな特徴です。概要だけを押さえるなら、〈外圧による主権侵害に対し、社会の幅広い層が「正しい戦い」と信じて起ち上がった抵抗運動〉と理解すれば十分です。
この運動は、1895年の王妃殺害事件(乙未事変)や、1905年の保護国化(乙巳条約)、1907年の韓国軍解散といった大きな政治的転機のたびに勢いを増しました。武器は旧式の火器や刀槍が中心でしたが、地の利を生かした夜襲・待ち伏せ・交通網の攪乱などで、各地の日本軍・憲兵警察・行政機構に現実的な圧力を与えました。国家の制度的防衛力が弱体化するなか、地域社会が自発的に主権の維持と共同体の安全を守ろうとした点に、この運動の核があります。義兵闘争は1910年の併合前後で独立軍運動へと連続し、のちの満洲や沿海州での抗日武装闘争にもつながっていきます。
以下では、なぜ義兵闘争が生まれ、どのように展開し、どんな人びとがどのような方法で戦い、歴史上どのように位置づけられているのかを、もう少し詳しく説明します。
起源と背景――「義」の名のもとに集う理由
義兵闘争の起源は、外圧の高まりと国内政治の混乱が重なった19世紀末にさかのぼります。朝鮮王朝(李氏朝鮮)は長期にわたり冊封秩序のなかで存立してきましたが、19世紀後半には西欧列強や日本、清国、ロシアが朝鮮半島をめぐって激しく角逐しました。甲申政変や甲午農民戦争(東学農民運動)を経て国際情勢は一層流動化し、日清戦争(1894–95年)で日本が勝利すると、朝鮮に対する発言力と軍事的影響力を急速に強めました。
決定的だったのは、1895年に起きた王妃(閔妃)の殺害事件です。王朝の象徴が暴力的に排除されたことは、政治的主権の侵害だけでなく、伝統秩序・道徳への冒涜として受け止められ、在地社会の憤激を呼び起こしました。ここで初期の義兵が各地に蜂起し、儒学者や郷勇(郷里の武装組織)、僧兵などが地方単位で武装集団を組織します。彼らが自らを「義兵」と称したのは、個別の私怨や利得のための戦いではなく、社会全体の正義と王朝の正統を守る「義」の行いであることを強調するためでした。
1905年、日露戦争に勝利した日本は、乙巳条約によって大韓帝国の外交権を掌握し、保護国化を進めます。外交の扉が閉ざされ、国際社会に直接訴える道が細るほど、国内では「われわれ自身が守るしかない」という危機感が高まりました。さらに1907年に至って軍隊解散令が出され、皇帝譲位など政治の動揺が続くと、失職した兵士や下士官が各地の義兵に合流して戦力が増し、運動は第二のピークを迎えます。国家という盾が薄くなるほど、地域社会は自発的防衛の役割を担わざるをえませんでした。
展開の段階と広がり――1895年・1905年・1907年の三つの波
義兵闘争は一枚岩ではなく、三つの大きな波として理解すると把握しやすいです。第一の波は1895年の乙未事変直後に生じた初期義兵の蜂起です。これは王朝の象徴を守るという道徳的衝動が強く、各地の儒生・郷勇・僧侶が在地のネットワークを使って集結しました。装備は貧弱でも、官衙の襲撃や協力者への圧力、要路の遮断など、象徴的で局地的な行動が中心でした。この段階では王朝そのものへの忠誠と、外来の専横に対する反発が主題でした。
第二の波は1905年の保護国化以後に拡大した中期の義兵運動です。外交権喪失により国家の外部発信が封じられると、運動はより政治化し、保護国体制そのものを否認する訴えが前面に出ます。地域間の連絡が強化され、義兵同士の連携や募金・兵站の確保、武器調達の工夫が進みました。山間部の根拠地化、郵便・鉄道など近代的インフラへの襲撃は、占領統治の実務に打撃を与え、治安維持のコストを上昇させました。
第三の波は1907年の軍隊解散を契機に爆発的に拡大した段階です。解散によって武器の扱いに慣れた人材が民間へ流れ、在来の義兵組織に専門性が加わりました。指揮系統の整備、夜襲・奇襲・分散行動・撤退のサイクルを徹底するゲリラ戦術、各地での情報連絡網の構築など、軍事的洗練がみられます。地方官庁や警察署、鉄道路線、鉱山、倉庫などを狙った攪乱は、植民地化のインフラそのものを標的にする点で、初期段階よりも戦略的でした。
各段階の運動は地理的にも広がり、山岳地帯や森林地帯だけでなく、農村の市場や交通の要衝を巻き込みました。冬季は補給と休整、農繁期は兵力の流動といった季節要因に左右されながらも、運動は絶えず再編を繰り返しました。行政側は憲兵警察制度の拡充、地方への戒厳や連帯責任の導入、武器所持や通行の厳格な取り締まりなどで対抗しましたが、義兵の柔軟な分散と再結集のスタイルは容易に根絶できるものではありませんでした。
担い手・思想・戦術――地域社会がつくる抵抗のかたち
義兵闘争の担い手はきわめて多様でした。儒学の古典に通じた在地士族や書院の門人は、道徳的正統性の言語を提供し、檄文や誓約文を通じて共同体の合意を形成しました。彼らは「義」を公の名目として掲げ、私的な暴力との一線を引くことで支持を集めました。農民や職人は人的基盤と兵站を担い、山間の寺院や僧侶は物資の隠匿や連絡の中継点として機能しました。旧軍人や武術に通じた人物は軍事的な訓練と指揮を引き受け、全体として、地域社会のさまざまな職能が寄せ集まって一つの抵抗体を形成したのです。
思想面では、王朝への忠誠と外来勢力への抵抗という伝統的枠組みが基底にありましたが、20世紀初頭の国際状況のもとで、その表現は次第に「主権の防衛」「民族の自立」という近代的な語彙へと移行しました。これは義兵闘争が単なる王朝回復運動ではなく、近代的ナショナリズムの形成に寄与したことを意味します。檄文には忠義・名分・礼といった語が並ぶ一方で、国権・独立・民気の鼓舞といった新しい表現も加わり、人びとの共感の回路が広がりました。
戦術面では、地形の把握と住民の支援が生命線でした。義兵は密やかに集結して短時間で攻撃し、すぐに山野へ散開して追撃を避ける「打っては離れる」戦い方をとりました。鉄道・橋梁・通信施設への攻撃は、統治の神経を直接刺激するため効果的でしたが、報復の強化も招きました。武器は散弾銃や旧式小銃、刀槍が中心で、弾薬不足は慢性的でした。これを補うために、奪取・密造・密輸・寄付など、地域の創意工夫が総動員されました。制服がないため識別に旗印や徽章を用い、夜間の行動では合図の歌や掛け声が重要な役割を果たしました。
情報面では、書院・寺院・市場・親族ネットワークが通信網として機能しました。口承の伝達は迅速である一方、風説や誇張の混入というリスクも抱えました。為政側が密告や懐柔策を併用したのに対し、義兵側は相互扶助の誓約や裏切りへの制裁でネットワークを守ろうとしました。こうした緊張は地域社会に深い影響を与え、日常の信頼関係を再編成していきました。
連続性と帰結――独立運動への架け橋
1910年の併合を境に、朝鮮半島の政治的枠組みは大きく変わりますが、義兵闘争で培われた人的ネットワーク、戦術、経験は消滅せず、満洲・沿海州・中国内地など域外へ舞台を移しつつ独立軍運動に継承されました。国内では取り締まりが強化され、都市部での出版・教育・文化活動による非合法・半合法の抵抗が重要性を増す一方、国外では武力抗争が継続し、連携して独立の理念を広めました。義兵闘争の経験は、のちの大規模な独立宣言運動や臨時政府の樹立に間接的な影響を与え、抵抗の象徴的言語と実務的ノウハウの両方を提供しました。
歴史叙述のなかで義兵闘争は、長く「散発的で非近代的な抵抗」と評されることもありました。しかし、地域社会の総合的な動員、柔軟なゲリラ戦の適用、共同体の正統性を支える言説の構築など、多面的に見ればきわめて近代的な社会運動の側面を備えていました。中央国家が弱体化した局面で、地方の自律的秩序がいかに国家的課題を引き受けたかを示す事例としても重要です。義兵闘争は、敗北と弾圧の歴史であると同時に、社会のさまざまな層が政治に参加し、主権と尊厳を守ろうとした試みの歴史でもありました。
また、この運動は朝鮮半島内部だけの現象ではありませんでした。周辺地域の民族運動や列強の勢力圏政策、国際世論との相互作用のなかで理解する必要があります。とくに日露戦争後の国際秩序の再編は、列強間の妥協と勢力分割を促し、弱小国の主権を切り縮めました。そうした外的条件が義兵闘争を長期化させ、国内の抵抗が国外の支援と結びつく構図を生みました。新聞・雑誌の報道、亡命者の活動、宗教ネットワークなどを通じて、義兵の存在は海を越えて知られるようになりました。
総じて、義兵闘争は朝鮮近代史のなかで、伝統と近代、在地と国家、合法と非合法、武と文が複雑に交差する場でした。人びとは慣れ親しんだ価値を拠り所にしつつ、新しい言葉や方法を学び取り、共同体を守るための選択を重ねました。義兵の旗のもとに集まった無数の意思は、個別の戦いの勝敗を超えて、近代朝鮮社会の政治的主体形成という長いプロセスに深く刻み込まれたのです。

