九竜(クーロン)半島南部割譲 – 世界史用語集

九竜(クーロン)半島南部割譲とは、第二次アヘン戦争の講和として1860年に結ばれた北京条約(北京議定書ではなく、英清間の「北京条約」)により、広東省香山県の一部である九竜半島のうち〈界限街(Boundary Street)以南〉の地区と昂船洲(ストーンカッターズ島)が清からイギリスへ永久割譲された出来事を指します。これによって、1842年南京条約で割譲された香港島の対岸に当たる本土側まで英領が拡張され、ヴィクトリア・ハーバー(香港島と九竜の間の良港)を左右両岸から押さえる地政学的構図が完成しました。のちに1898年の英清協定で〈新界〉が99年間租借されると、界限街は「割譲地(南)」と「租借地(北)」を分ける境界線として記憶に刻まれ、1997年の返還にいたる香港史の骨格を成していきます。つまり、この用語は〈1860年時点での本土側の“英領化”〉を示すキーワードであり、香港という港湾都市の空間軸と法域の二重構造を理解する入口です。

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背景――第二次アヘン戦争、天津条約、北京条約へ

九竜南部割譲の直接の文脈は、1856年の「アロー号事件」に端を発し、英仏連合軍が清と戦った第二次アヘン戦争にあります。1858年の天津条約では、通商の拡大や公使の北京駐在などが定められましたが、清朝の内部抗争と反発で実施が進まず、1860年、英仏連合軍は再進軍して北京に迫り、円明園焼き討ちという衝撃的事件を経て、最終的に北京条約が締結されます。英清間の北京条約には、通商条項の再確認に加えて領土条項が盛り込まれ、〈九竜半島南端部と昂船洲の永久割譲〉が明文化されました。これにより、香港島だけに依拠していた英領の軍事・港湾機能は、対岸の平坦地と海峡の二岸支配によって飛躍的に強化されます。

戦略上、九竜側の確保には複数の利点がありました。第一に、香港島北岸(中環~湾仔)の対岸に砲台・倉庫・兵営を置くことで、港口の防衛と停泊艦艇の遮蔽が容易になること、第二に、浅瀬の埋め立てや桟橋敷設に適した砂洲が広がり、補給・修理・検疫の後背地をつくりやすいこと、第三に、広東内陸との陸路接続(のちの九広鉄路建設の布石)を押さえられること、です。九竜側の低地と緩斜面は、軍事・行政・ドック労働に従事する人口の受け皿にもなりました。

割譲の範囲と線引き――界限街・昂船洲・海岸線

条約文に基づく割譲範囲は、おおむね今日の「九龍半島の南端部」に相当します。のちに道路名として定着する〈界限街(Boundary Street)〉付近が、実務上の北限(すなわち割譲地と、それ以北で1898年に租借される新界との境)を成しました。東は九龍湾・紅磡(ホンハム)方面の海岸線、西は油麻地~尖沙咀~佐敦・西九海岸へと連なり、前面の海には〈昂船洲(ストーンカッターズ島)〉が含まれます。昂船洲は後年、埋め立てと橋梁で本土側と一体化し、巨大なコンテナ埠頭群の一角となりましたが、1860年代時点では重要な軍事・検疫の前進基地でした。

「界限街」は、文字通り「境界を示す街路」です。1898年に新界が租借されると、界限街以南は〈割譲〉、以北は〈租借〉という法的性格の差が生じ、行政の線引き・地価・土地権利・警察権限などに違いが発生します。地図上の細い線は、のちに都市形成の節理となり、現在も道路名として歴史記憶を留めます。なお、界限街の北側にあった〈九龍寨城(九龍城砦)〉は、清朝の軍寨を由来とし、1898年の新界租借に際しても清の管轄が例外的に認められたため、法的に曖昧な地位をもち続け、20世紀後半の「壁の中の都市」へと変貌します。これは1860年の割譲範囲からは外れていた点を押さえておくと理解が整理されます。

行政・軍事・インフラの整備――九竜の都市化はこう始まった

割譲ののち、英領政府は九竜側に軍・警察・倉庫・埠頭・検疫施設を順次整備しました。尖沙咀(チムサーチョイ)は、桟橋と税関・ホテルが並ぶ玄関口となり、英国海軍の石炭補給や艦船の短期停泊を支える拠点として機能します。半島内部には兵営(ホワットフィールド兵営=Whitfield Barracks[現九龍公園一帯]、ガンクラブ・ヒル兵営など)が置かれ、戦略道路の敷設が始まりました。

九竜の基幹道路として知られる〈ネーザン・ロード〉は、1860年代に「ロビンソン・ロード(九龍)」として線形が整えられ、1900年代に現在の名称へ改称されました。これが尖沙咀から北方へ真っ直ぐ伸び、油麻地・旺角・太子と、市街地を貫く骨格となります。道路の両側には「唐楼(トンラウ)」と呼ばれる騎楼型の低~中層混合建築が建ち並び、1階に店舗、上階に住居・工房が入る九竜らしい街並みが形成されました。

鉄道は都市化の決定打です。1910年前後、九広鉄路(KCR)が九竜塘から深圳方面(羅湖)へ延伸し、やがて広州と直結すると、九竜は「本土と海」をつなぐ中継点としての地位を固めます。尖沙咀の臨海にはKCR終着駅と埠頭が置かれ、海陸複合の旅客・貨物動線が完成しました(のちに九龍駅は紅磡へ移転)。これらのインフラ整備は、1860年の割譲によって「本土側の自由裁量地」を得たことが前提で、英領政府は用地取得と区画整理を比較的スムーズに進めることができました。

社会・経済への影響――人口移動、商業の北進、庶民都市の誕生

割譲後の九竜は、香港島側の商館・官庁・金融の対岸に、倉庫・中継商・小売・工房が堆積する「庶民都市」として成長します。尖沙咀のホテル・遊歩道は観光と社交の場となり、油麻地・旺角には街市(公設市場)と露店、職人の工房が密集しました。19世紀末から20世紀前半にかけての中国大陸の混乱(革命・内戦)や南中国の飢饉は、多くの移民・難民を九竜へ引き寄せ、集合住宅と路地の迷宮を広げます。戦後になると軽工業(縫製・玩具・電子部品)が東九竜(観塘・九龍湾)に根を下ろし、九竜は労働と生活の都市として独自の活力を獲得しました。

文化面では、九竜は香港島の官庁街・ビジネス街に対して、粤劇の小劇場、茶餐廳(喫茶食堂)、夜市、ビデオゲームセンター、補習塾などが連なる生活文化の基盤となりました。ネオン看板が密集するネーザン・ロード沿いの光景は、20世紀後半の香港アイデンティティの視覚的アイコンとなり、「獅子山精神」と呼ばれる勤勉・自助の物語は、九竜の斜面市街を背景に語られます。これらの社会文化的蓄積の起点に、1860年の割譲があったことは見逃せません。

法域と主権の連続性――割譲(永久)と租借(期限付)の違い

九竜南部割譲を理解するうえで重要なのが、〈永久割譲〉と〈期限付き租借〉の法的差異です。前者は主権の移転を意味し、国際法上、イギリスの完全な管轄が及びました。後者は主権は清(のち中華民国)に残しつつ、一定期間、統治権を借り受ける形態で、条約終了時には返還が前提となります。1898年に新界が「99年租借」とされると、香港島・九竜南部(永久割譲)と、新界(租借)の〈二重の法域〉が香港全体に共存することになりました。実務的には同一の総督府が統治しましたが、国際政治上はこの差異が決定的で、1970~80年代の英中交渉でも〈租借期限〉が返還のタイムリミットとして作用し、結果として〈割譲地も含めた一体返還〉という政治的決断に収れんしていきます。

また、九龍寨城のような〈例外区〉が生んだ法的曖昧さは、治安・都市計画・衛生の課題を増幅させました。英領当局は事実上の規制を試みつつも、法的管轄の壁(清→中華民国→中華人民共和国)を越えて完全な執行を行うことが難しく、1970~80年代にかけて撤去・公園化されるまで、九竜の内部に「無秩序の島」が併存し続けました。これも、1860年の割譲と1898年の租借の〈段差〉から派生した現象と位置づけられます。

長期的意義――港湾都市の器を完成させた一手

1860年の九竜南部割譲は、単なる領域の拡大にとどまらず、〈港湾都市としての香港の器〉を完成させる決定打でした。ヴィクトリア・ハーバーを両岸から管理できる体制は、軍事・検疫・港湾運営の効率を高め、のちの鉄道・道路・空港(旧カイタック)・コンテナ港の整備へと連なる「背骨」を提供しました。さらに、割譲地の平地は、庶民の居住・労働の受け皿となり、香港島の行政・商業中枢と相補的な都市機能の分担を可能にしました。

この一手はまた、香港を大陸中国・南シナ海・英帝国ネットワークに接続するハブとして確立し、19世紀末~20世紀の東アジアの政治経済に深く関与させます。難民の避難港、資本の逃避先、情報と文化の中継地――その多面的役割の陰には、1860年の境界画定と、それに続くインフラ・統治の積み重ねがありました。1997年の返還は、この長い歴史に法的な終止符を打つと同時に、九竜—新界—珠江デルタの広域一体化という新しい段階を切り開いています。

総じて言えば、九竜(クーロン)半島南部割譲は、〈条約外交が都市空間をつくる〉ことの典型例です。軍事的優位を背景とした強制的合意という出自の問題性を忘れてはなりませんが、同時に、その「一線の引き方」が、のちの百数十年にわたる都市の骨格・社会のリズム・人びとの記憶を規定した事実も直視すべきです。界限街の一直線、尖沙咀の桟橋跡、ネーザン・ロードの喧騒――それらは、1860年の決定が現在の風景に投げた長い影であり、世界史のなかで条約と都市をつなぐ学びの格好の素材なのです。