「教皇子午線(植民地分界線)」は、15世紀末にローマ教皇の勅書(教書)と、それを受けてスペインとポルトガルが結んだ条約によって、大西洋上とその先の「未知の諸地域」を両王国の勢力圏に分けた線を指す通称です。1493年、教皇アレクサンデル6世が発した勅書群は、アゾレス/カーボヴェルデ諸島付近から西へ引いた子午線を境に、西側の新領域の布教・征服・交易の優先権をスペインに、のちに条約(1494年トルデシリャス条約)では東側をポルトガルに認めました。要するに「西はスペイン、東はポルトガル」というシンプルな分割原理ですが、実際には経度測定の未発達や地図の不確かさ、アジア航路の探検、他国の反発、先住社会の存在など、多くの問題をはらんでいました。それでもこの線は、ラテンアメリカの言語地図(スペイン語圏とポルトガル語圏)や、アフリカ・アジアの一部での勢力分布、国際法思想(いわゆる「発見の権原」)に、長い影響を与えました。以下では、成立の背景と勅書・条約の中身、線引きの技術と政治、世界史への影響と評価を、わかりやすく解説します。
背景と成立――教皇勅書からトルデシリャス条約へ
15世紀、イベリア半島ではレコンキスタの終結(グラナダ陥落、1492年)と相前後して、海上拡張が加速しました。ポルトガルはアフリカ西岸の探索と香料諸島(モルッカ)への到達を視野に入れ、スペインはコロンブスの航海に投資して「西回り」でアジアに至ろうとしました。どちらもキリスト教の布教と通商利権の確保を大義名分に掲げ、教皇からの権威づけ(授権)を重視していました。
この状況下で、1493年に教皇アレクサンデル6世(出自はスペイン系のボルジア家)が、いくつかの勅書を続けて発します。とくに重要なのが『インテル・カエテラ(Inter caetera)』で、カーボヴェルデ諸島から西へ一定距離離れた子午線を基準に、その線以西の新発見地に対する布教・統治権をスペイン王に優先的に認める内容でした。つづく勅書『エクシミアエ・デウォティオニス(Eximiae devotionis)』『ドゥドゥム・シクィデム(Dudum siquidem)』は、この授権の適用範囲を調整・拡張し、スペインの主張をさらに後押ししました。
しかし、先にアフリカ西岸沿いの航路開発と交易拠点化を進めていたポルトガルにとって、勅書の線引きは不利に映りました。両王国は翌1494年、トルデシリャスで直接交渉に入り、子午線を教皇案より東にずらすことで妥協します。条約は、カーボヴェルデ諸島の西方「370リーグ」の地点を通る南北線を境界とし、その線より西の未領有地の優先権をスペイン、東の優先権をポルトガルに与えると定めました。こうして「教皇子午線」は、実務的にはトルデシリャス条約線として固まり、教皇の承認は政治的後ろ盾として機能することになります。
もっとも、リーグ(海里)の定義も測量法も地域で揺れており、具体的に「どの経度」を指すのかは曖昧でした。当時の技術では経度決定が困難(正確な航海用時計がない)で、航海者は太陽高度・星の位置・推測航法に頼っていました。したがって、条約線は「理念としての境界」であり、現場では相互の航路・拠点・通商の既成事実が、あとから地図に線を引かせるという性格が強かったのです。
仕組みと射程――どこを分け、何を認めたのか
トルデシリャス条約線は、大西洋に引かれた一本の南北線として理解されます。線以西の「未知領域」についての探索・征服・布教・交易の優先権(独占的ではないが、他国に先んじる権原)をスペインに、以東をポルトガルに与えるという構図です。アフリカ西岸・喜望峰まわりのインド洋航路は東側に含まれるためポルトガルが主導権を握り、西インド諸島(カリブ)やのちのメソ・南米の大半は西側としてスペインの活動領域になりました。
この線引きがもたらした最も有名な帰結の一つは、南米東岸の一部がポルトガル側に入ったことです。16世紀初頭、ポルトガル艦隊が南米東岸に到達し、のちのブラジル植民地の端緒が開かれます。ポルトガル語が南米で唯一の大言語になっている背景には、この「条約線の東側」という初期条件が横たわっています。
一方、アジア側でも線引きの問題は尾を引きました。世界は丸い以上、大西洋で引いた線の反対側にも境界が必要です。スペインはマゼランの世界周航(1519–22)以後、太平洋を横断して香料諸島方面への参入を狙い、ポルトガルと島々(モルッカ)をめぐって対立しました。両国は1529年のサラゴサ条約で、東洋における勢力圏の境界(おおよそ香料諸島付近を基準とした「反対側の線」)を取り決め、ポルトガルが金銭を支払う代わりにアジアの特定地域での優先権を再確認する妥協に至ります。こうして、地球規模で「東はポルトガル、西はスペイン」という大枠が整理されました。
ただし、これらの線は「世界のすべて」を実効的に分割したわけではありません。まず、ローマ教皇の権威を承認しない国々(のちのイングランド、オランダ、フランスなど)は、教皇勅書や両国間条約を国際法上の根拠とは認めず、独自に私掠・植民・交易を展開しました。次に、地図に線が引かれても、現地の先住社会(アメリカ先住民、アフリカ・アジアの諸王国)にはそもそも同意がないため、条約線はヨーロッパ内部の合意にとどまり、現地では武力・外交・通商を通じた個別交渉の積み重ねが続きました。
教皇勅書と条約の背後には、当時の国際秩序観が横たわります。すなわち、「キリスト教世界の指導者(教皇)が、未キリスト教地域に対する布教と統治の権原をキリスト教君主に授与できる」という発想です。これが後世に「発見の権原(Doctrine of Discovery)」と呼ばれ、近代国際法の形成や植民地主義のイデオロギーに影響を与えました。
技術・地図・現場――線を“引く”ことの難しさ
今日の感覚からすると、子午線は経度何度と簡単に記述できますが、16世紀には経度を高精度で測る術がありませんでした。緯度は太陽や北極星の高度から比較的容易に求められる一方、経度は時間差の計測に依存します。正確な携帯時計(マリンクロノメーター)が登場するのは18世紀で、16世紀の航海者は時刻のずれ・海流・風向の推測で航跡を復元していました。したがって、条約線の「370リーグ」は実務上、海図上のおおよその帯域を意味するにすぎず、島や海岸線の帰属は「先に旗を立て、要塞や教会を建て、通商を押さえる」既成事実のほうが決定的でした。
測量・地図製作も政治と不可分でした。ポルトラノ海図、のちのメルカトル図法の普及、王立天文台と緯度・経度表の整備は、航路と領域主張の基盤を固めますが、情報は国家機密として扱われました。自国に有利な測地単位の採用や、諸島の位置づけの解釈で駆け引きが行われ、条約線は「科学と政治の間」に漂い続けます。アマゾン奥地やラプラタ流域など、内陸部での線引きはさらに困難で、17~18世紀にかけてスペイン・ポルトガル間の追加条約(マドリード条約1750年、サン・イルデフォンソ条約1777年など)が実態に合わせて国境を引き直しました。
現地の力学も重要です。ポルトガル領ブラジルでは、サトウキビや後期の金・ダイヤモンド景気を背景に、内陸へ進出する開拓民(バンデイランテス)が増え、実効支配は条約線を越えて西へ広がりました。逆にスペイン側でも、アンデスやラプラタでの教会・都市のネットワークが境界を押し返す場面がありました。条約線は硬い壁ではなく、ゴムのように伸縮し、場面ごとに交渉と衝突で形を変えたのです。
影響と評価――言語地図、国際法、植民地主義の長い影
第一に、言語と文化の地理です。ラテンアメリカの大勢はスペイン語圏となり、ブラジルにポルトガル語が広がった背景には、初期の条約線の設定と、それにもとづく司教区・修道会・都市設置の流れがあります。布教(イエズス会・フランシスコ会などの修道会)と行政(王立アウディエンシア・副王領)が連動し、教育・法・都市計画の枠組みが地域ごとに固まりました。言語・法文化の分岐は、独立後の国家形成にも持続的影響を与えます。
第二に、国際法思考への影響です。教皇勅書と条約は、ヨーロッパ内部の合意で世界を「分割」し得るという前提を容認しました。これはのちに、海洋自由論(グロティウス)と海洋支配論(セルト)などの論争を誘発し、国際法の枠組み(領海、交易権、勢力圏)を考える土台になります。同時に、先住民の権利をどう位置づけるかという難問を生み、征服・布教・文明化という言説が支配を正当化する装置として働きました。近年、この「発見の権原」概念は、先住民の権利回復運動の文脈で再検討が進み、宗教界・学界・司法の場で批判的見直しが行われています。
第三に、ヨーロッパ内の競争を加速させた点です。イングランド、オランダ、フランスは、教皇の授権を根拠とする二国分割を認めず、17世紀以降、海軍力・民間投資・私掠免許を総動員してカリブ・北米・インド洋で独自の植民帝国を築きました。結果として、トルデシリャス的秩序は多国間競争の海に溶け、条約線はスペイン・ポルトガル内部の調整線に後退します。にもかかわらず、最初の「世界を線で考える」発想は消えず、のちの勢力圏(例:19世紀のアフリカ分割)に通じる思考のひな型になりました。
第四に、宗教と政治の関係です。教皇アレクサンデル6世のスペイン寄りと評された姿勢は、教皇庁の政治性・家門主義への批判を呼び、のちの宗教改革期の反教皇感情の一要素とも絡みます。一方で、カトリック世界では教皇の授権が布教・司教区設置・教会法秩序の根拠となり、修道会による教育・医療・印刷・言語学の発展に資する側面もありました。評価は単純に善悪で裁けず、聖俗入り混じる「16世紀的リアリズム」の中で理解する必要があります。
最後に、倫理と歴史認識の問題です。教皇子午線は、先住社会の視点から見れば、彼らの土地・海・生活世界を外部の合意で切り分ける暴力を孕みました。奴隷制や強制労働、疫病の拡散、文化破壊といった負の連鎖は、条約線それ自体では説明できないにせよ、その背後の拡張主義を制度的に支えた一部でした。現代の歴史教育は、この線を「大航海時代の栄光」の象徴ではなく、初期近代の複雑な権力・信仰・技術・欲望の交差点として捉え直す方向にあります。
補記――用語、日付、覚えておきたいポイント
・1493年:教皇アレクサンデル6世の勅書群(Inter caetera ほか)。スペインに対し、西方の新領域に関する優先権を授与する趣旨の文言が出される。
・1494年:トルデシリャス条約。カーボヴェルデ諸島の西方370リーグの子午線を境とし、以西をスペイン、以東をポルトガルの勢力圏とする。
・1529年:サラゴサ条約。東洋(アジア)側での勢力圏境界を調整し、香料諸島周辺の帰属をめぐる紛争を一時的に収束。
・18世紀:測時技術と地図学の進歩、ならびにマドリード条約(1750)・サン・イルデフォンソ条約(1777)などにより、南米内陸の国境が実態に合わせて再画定される。
・キーワード:教皇勅書/トルデシリャス条約/サラゴサ条約/発見の権原/香料諸島/バンデイランテス/言語地図/国際法史。
総じて、教皇子午線(植民地分界線)は、地図上の一本の線以上の意味を持ちます。それは、宗教的権威、国家競争、測地学の限界、商業資本の論理、そして現地社会の抵抗と適応が織りなす、人類史の大きな転換点の「象徴」でした。線を引くことが歴史を変える――その事実をもっとも雄弁に物語る事例の一つだと言えるでしょう。

