月氏(げっし/Yuezhi, ユエジ)は、前2千年紀末〜前1千年紀にかけて甘粛・河西走廊(中国西北部)一帯に拠点を置き、のち匈奴の圧迫を受けて西走し、イリ方面からソグディアナ・バクトリアへ進出して「大月氏」を形成、さらにその一支(貴霜=クシャーン)が南下してインド北西部に大帝国を築いたことで世界史に名を刻んだ遊牧・半農牧系の人々です。漢代の史書は、彼らの移動・再編・多文化接触を克明に伝え、張騫の西域探検(前2世紀)を通じて、漢帝国がユーラシア内陸交易へ視野を広げる契機となりました。月氏は、草原の機動力とオアシス都市の商業力を結び、ヘレニズム・イラン・インド・中国の諸文化を媒介した「動く結節点」でした。月氏=トカラ人か、月氏語の系統は何か、など学説はなお揺れており、考古学・文献学・貨幣学の知見をつなぐ総合的な理解が求められます。本稿では、起源と移動、漢代史料における月氏像、バクトリア定着とクシャーンの台頭、言語・民族同定をめぐる論点、文化交流と仏教伝播への寄与を整理します。
起源と初期動向:河西走廊の遊牧集団から西走へ
月氏の初期居住域は、祁連山脈北麓から張掖・酒泉・敦煌に通じる河西走廊とされます。ここは東西交通のボトルネックで、草原・台地・オアシスが連なる戦略的要地でした。月氏は騎馬と畜群を基盤に、玉材・皮革・畜産品・金属器を媒介しつつ、周辺の農耕民・オアシス都市と交換関係を築きました。前3世紀末〜前2世紀初頭、匈奴が台頭して河西へ圧力を強めると、月氏は抗争と同盟を繰り返しましたが、最終的に本拠を失い、西へ退くことになります。漢史によれば、匈奴冒頓単于の時代に月氏は大きな打撃を受け、やがてイリ方面(塞北西方)へ転じ、さらにソグディアナ・バクトリアへと再移住しました。
この西走の過程で、月氏は他の遊牧・オアシス勢力と激しく交差しました。烏孫・塞(サカ=スキタイ系)との競合・置換が起こり、月氏の移動はサカの南下(イラン高原・インド北西部への侵入)を誘発します。つまり、月氏の位置変動は、広域の民族移動と王国の交代、交易路の再編を連鎖的に引き起こしました。ここで重要なのは、月氏が単なる被追放者ではなく、移動先で速やかに軍事と交易の結節点として再編された点です。
張騫の報告と漢代史料にみる「大月氏/小月氏」
漢武帝の命で張騫が西域へ派遣(前2世紀中葉)されると、彼は河西から西走した月氏の消息を詳報しました。張騫の見聞では、月氏はアム川(オクサス)上流を中心に定住し、往年の移動生活を減らして農耕・都邑を営むようになっていました。漢籍は、これを「大月氏」と呼び、河西の旧地にとどまり匈奴に服属した「小月氏」と区別します。大月氏は旧バクトリア(ギリシア系王国の故地)を制し、オアシス都市と川沿いの農地を収め、ソグディアナの市民社会・貨幣経済・ヘレニズム文化と接触しました。
張騫は当初、月氏に匈奴挟撃の同盟を求めましたが、大月氏の関心は南北の草原政治ではなく、バクトリア域での定住と富の再分配に向かっていました。これにより、漢は月氏との軍事同盟に失敗する一方、情報の獲得を通じて大宛(フェルガナ)・康居・安息(パルティア)・身毒(インド)に至るオアシスのネットワークを具体的に認識し、「使者往来」が常態化します。月氏は、漢と西方世界を情報的に接続した媒体でした。
バクトリア定着と五翕侯:貴霜(クシャーン)の台頭
大月氏はバクトリアに定着後、内部に複数の「翕侯(部族長・侯)」をもち、漢籍には五翕侯(貴霜・休密・双靡・肸頓密・都密など)が記録されます。1世紀前後、貴霜翕侯を担った丘就卻(クジュラ・カドフィセスと比定されることが多い人物)が諸部を糾合し、クシャーン朝(貴霜王国)を樹立しました。以後、ヴェマ・タクト、ヴェマ・カドフィセス、カニシカ1世らの治世を経て、2世紀初頭にかけてクシャーンはバクトリアからガンダーラ、パンジャーブ、マトゥラー方面へ勢力を拡大します。王号・神像・貨幣銘文は、バクトリア語(ギリシア文字系)、後にバクトリア語・カローシュティー(プラークリット)、さらに部分的にブラーフミーの使用へと推移し、宗教表象はイラン系神祇、ギリシア的神像、インド仏教・ヒンドゥー神格が同一王権の貨幣上に並列されました。
クシャーンの政治は、ヘレニズム都市社会の制度(貨幣・度量衡・都市自治)を取り込みつつ、騎馬遊牧の機動力と徴発能力を融合させるものでした。広域の課税・関所・倉庫は、インド洋と内陸交易の結節を強化し、香料・絹・宝石・象牙・ガラス・金銀の流通が活性化します。ガンダーラでは、仏教美術がギリシア彫刻の写実性と出会い、仏像の制作が本格化しました。カニシカ治世には仏教の集会(しばしば「第四結集」とされる)が伝承され、部派仏教・大乗仏教双方に大きな影響を及ぼします。月氏—クシャーンの段階的変貌は、草原の民が都市帝国の担い手へと変わる典型例でした。
言語・民族同定をめぐる論点:月氏=トハラ(トカラ)か?
月氏の言語・系統をめぐる議論は複雑です。古典語源学では、ギリシア・ラテン資料に現れる「トカロイ(Tokharoi)」がバクトリア域の月氏を指すとされ、これが中世以降「トハラ(吐火羅)」の名でタリム盆地東部に残る文献言語(現代学術でいう「トカラ語A/B」)と結び付けられました。しかし、今日では多くの研究者が、タリムのトカラ語話者(インド・ヨーロッパ語族の一枝)と、バクトリア域の月氏(ギリシア資料のTokharoi)の直接的同一視に慎重です。すなわち、同名(あるいは近似名)の混同が起こり、タリムの「トカラ語」と月氏の民族・言語は別系列である可能性が高いという立場です。
では月氏語は何か。決定的資料は乏しいものの、月氏—クシャーンの王権で用いられた言語は、少なくとも公的表記としてはバクトリア語(イラン語群)とプラークリット(ガンダーラ語)でした。固有名や部族名の音写から、月氏の上層がイラン語群と強く接触しつつ、より古い段階では別系統(インド・ヨーロッパ語的)の言語を保持していた可能性も検討されています。結論はなお保留であり、考古学的出土、貨幣銘文、地名研究の総合化が必要です。要点は、月氏を単一言語の固定民族として捉えるのではなく、移動と混成のプロセスを経た政治連合として理解することにあります。
漢帝国との接触とシルクロード:外交・交易・軍事の三層
漢は、張騫以後も西域都護を軸に大宛遠征やオアシス保護政策を推進し、やがて後漢・魏晋にも使者往来が続きました。クシャーンと漢の交流は、金銀器・ガラス・香料・薬材・織物・馬などの交易に加え、外交儀礼(冊封・朝貢)や婚姻関係の模索、そして局地的な軍事的緊張を含みます。後漢末から魏晋期には、安息・大秦(ローマ)・天竺(インド)に関する情報が『漢書』・『後漢書』・『魏略』などに編纂され、インド仏教の僧侶(例:迦葉摩騰・竺法蘭)や中インド・ガンダーラ系の訳経僧が洛陽・長安で活動しました。これらの流れには、月氏—クシャーンの中継機能が織り込まれています。
軍事面では、月氏の西走と烏孫・康居・安息との関係が、オアシス諸国の均衡を左右しました。北天山からフェルガナ、ソグディアナへ至る草原縁辺部は、騎馬集団の交易保護と略奪が交錯する地で、月氏の移動は通商路の危険度・保護コストを増減させました。漢はこれに対抗するため、屯田・関市・駅伝の整備で交易路を可視化し、結果としてシルクロードの「制度化」が進みます。
文化交流のハブとしての月氏:貨幣・美術・宗教
バクトリア定着後の月氏—クシャーンは、貨幣の鋳造・流通においてヘレニズムの遺産を継承しました。肖像と神像を配した金銀銅貨は、王権の権威・宗教的正統性・経済的約束を同時に刻印し、広域市場の統合に資しました。神祇の並置(ゾロアスター系の神、ギリシア神、仏教の諸尊)は、王権の多元的正当化と、異文化の共存を可視化する政治技術でもありました。
美術では、ガンダーラにおける仏像造形の成熟が象徴的です。写実的な衣文表現、波打つ髪、光背、アカンサス風の柱頭などは、ヘレニズムの語彙が仏教図像に翻訳された成果でした。これを輸送したのは、遊牧—オアシス—都市を結ぶキャラバンと、在地の職人集団です。月氏—クシャーンの支配は、宗教ネットワーク(僧院・巡礼・布施)と交易ネットワーク(関所・市場・倉庫)を重ね合わせ、仏典・像法・儀礼の移動を容易にしました。
宗教史の視点からは、クシャーン期の仏教が大乗・部派の多層化を深め、サンスクリット仏典の編纂・流布、ナーガールジュナ以後の思想展開、医学・天文・文法学のインド知とイラン・ギリシアの知が接続したことが重要です。これらはのちにクシャーナ隋唐期の訳経・仏学隆盛へ通じ、東アジアの知的風土を形作りました。
衰退と遺産:サーサーン・クシャーン小王国化、その後の影
3世紀、サーサーン朝ペルシアの台頭は、クシャーンの西域を圧迫し、アム川上流域はサーサーンの影響下に置かれます。クシャーンは東方に重心を移し、ガンダーラやパンジャーブの「小王国」として分立化しました。やがてクシャーンの名は政治史の前線から退きますが、貨幣制度、都市自治、宗教混淆、仏教美術、交易インフラは長く地域に残り、エフタル、突厥、サーサーン、唐、イスラーム王朝へと受け継がれます。月氏の遺産は、地名(トハリスタン:バクトリア周辺の中世呼称)、貨幣類型、仏教遺跡群、言語層の痕跡の中に読み取れます。
まとめ:移動と混成が生んだ「結節点」としての月氏
月氏は、河西の遊牧集団として現れ、匈奴の圧力を受けて西走し、バクトリアで都市—農耕—交易の複合社会に転身、さらに貴霜(クシャーン)としてインド北西部に帝国を築きました。その歩みは、ユーラシアの境界線を越えるたびに、自らを作り替える連続の歴史でした。彼らは被征服者でも征服者でもなく、移動の術と混成の技で「場」を編み直す担い手でした。月氏を理解することは、民族を固定的本質としてではなく、政治・経済・文化のプロセスとして捉える視角を与えます。騎馬の道と都市の道を結んだ結節点——それが、世界史における月氏のもっとも確かな像です。

