権利の章典 – 世界史用語集

「権利の章典(Bill of Rights, 1689)」は、名誉革命(1688–89)ののち、イングランドにおいて王権の限界と議会の優越を明文化した基本法的文書です。王が恣意的に法律の停止や課税、軍隊の常備、裁判への干渉を行うことを禁じ、議会の招集・選挙の自由、議会内言論の自由、過酷な刑罰や過大な保釈金の禁止などを定めました。これにより、王権神授の論理は後景に退き、君主は「法の下の君主」とされ、立憲的な議会主権の原理が制度として定着します。文書は当初「権利の宣言(Declaration of Rights)」として採択され、ウィリアム3世とメアリー2世が王位を受ける条件として承認されたのち、議会が成文法の形式に改めたものが「権利の章典」です。本章典は、1628年の「権利の請願」、1679年の「人身保護法」と連なり、18世紀以降のイギリス立憲主義、さらにアメリカ合衆国の権利章典など近代の自由権保障に大きな影響を与えました。以下では、成立の背景、条項の要点、制度設計と運用、影響と限界を整理します。

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成立の背景:名誉革命と「条件付きの王位」

17世紀イングランドでは、王権と議会の関係をめぐる緊張が続いていました。ジェームズ1世・チャールズ1世の時代には、王の課税や兵站負担の強制、恣意的逮捕が争点となり、議会は1628年「権利の請願」を提出して法に基づく統治を要求しました。しかし折り合いはつかず、清教徒革命と共和政、王政復古、さらにカトリック回帰への不安と揺れ動く宗教政治が続きます。1679年の「人身保護法(Habeas Corpus Act)」は違法拘禁を抑える重要な一歩でしたが、王権の停止権・免除権(議会制定法の執行を停止・免除する権能)や、議会を経ない課税・常備軍の維持など、根本問題は未解決でした。

転機はジェームズ2世(在位1685–88)の専断的政策です。彼はカトリック信徒で、宗教寛容の名の下にローマ・カトリック教徒を公職に登用し、しかも議会の承認なしに「恩赦宣言」を発して法律の執行を免除しようとしました。さらに、常備軍の拡張と裁判への干渉が不信を招き、プロテスタント諸派を含む広い反対連合が形成されます。1688年、ジェームズの男子継承者誕生で「カトリック王朝の固定化」への危機感が高まり、議会人・有力者はオランダ総督ウィレム(のちのウィリアム3世)を招請しました。ウィレムは軍を率いて上陸し、ジェームズ2世はフランスへ逃亡します。

この際、イングランド議会(臨時の慣習会議を経て国会として構成)は、王位を空位とみなし、ウィリアムとメアリーに対し「権利の宣言」を承認することを王位受諾の条件として提示しました。王は人民から独立して権能を行使するのではなく、〈法に従い議会の枠組みに服する〉ことを約束する存在である――この「条件付きの王位」という観念が、権利の章典の核心です。こうして1689年、「宣言」は成文の「章典」として議会法(statute)に格上げされ、王権と議会の新しい均衡が確立しました。

条項の要点:王権の限界と議会・臣民の自由

権利の章典は、王権の「してはならないこと」を中心に列挙し、それに対置する形で議会・臣民の自由を示す構成です。主要な要点を整理します。

第一に、王の〈法律停止権・免除権〉の否認です。国王は議会の同意なく法律の執行を停止したり、個別に免除したりできないと明記しました。これは、制定法と議会主権の優越を確定する根幹規定です。

第二に、〈課税は議会の同意による〉という原則です。王が議会の承認なしに賦課・徴税することを禁止し、財政の統制権を議会に置きました。以後、財政法(サプライ)と監督が議会政治の中心的機能となり、行政府は予算承認を通じて間接的に拘束されます。

第三に、〈常備軍の維持は議会の同意を要する〉と定め、平時の軍事力の恒常化を議会のチェック下に置きました。軍の文民統制の萌芽であり、後の「武装の権利」条項と相俟って、国家暴力の独占を議会の枠組みに組み込む役割を果たしました。

第四に、〈選挙の自由〉と〈議会内言論の自由〉です。議員選挙は干渉・威迫なく自由に行われるべきであり、議会内部の演説・討論・票決は、議会外で訴追・質問されない(不逮捕特権・免責特権)と規定しました。これにより、立法府は王権から相対的に独立した熟議の場として保護されます。

第五に、〈臣民の請願権〉の確認です。王に対して不満や救済を求める請願は正当な手段であり、請願者が処罰されないことを明文化しました。専制状況で抑圧されがちな政治的意見表明を、合法的な権利として再確認した意義は大きいです。

第六に、〈過大な保釈金・過酷で異常な刑罰の禁止〉です。これはコモン・ローの伝統を成文化したもので、後にアメリカ合衆国憲法修正第8条に継承されます。裁判の適正手続を担保し、刑罰権の恣意的行使を抑える狙いがあります。

第七に、〈プロテスタント臣民の武器保有〉です。法に従い、身分・状況に応じて武器を所持する権利がプロテスタントに認められました。宗派限定であることに留意が必要で、近代的な普遍的自衛権とは異なる限定的規定です。とはいえ、王権による武装独占に歯止めをかける意味を持ちました。

このほか、〈陪審の独立と裁判の公正〉を実務的に支える条項や、〈しばしば議会を開く〉旨の規定が置かれます。全体として、王の否定リストと議会・国民の権利宣言を組み合わせ、政治権力の源泉を議会に引き寄せる設計です。

制度設計と運用:慣習と成文の重ね書き

権利の章典は、単独で完結した「憲法典」ではありません。イングランド(のち英国)の憲法は、制定法・判例・慣習・憲政上の慣行が重層的に絡み合う体系です。章典は、その中核に位置づく「基礎条例(constitutional statute)」として、のちの王位継承法(1701年)、寛容法(1689年)、司法任用保障(1701年)などと相互に補強関係を結びました。たとえば王位継承法は、王位のプロテスタント継承を定め、王の裁判官罷免に対する制限を強化して司法の独立に資しました。

財政統制の実務化という点では、章典後に確立される〈年次予算〉と〈常備軍の年次承認〉、さらに18世紀の〈内閣責任〉の形成が重要です。王の歳出要求は議会の承認を必要とし、軍は「陸軍律(Mutiny Acts)」を毎年更新することで合法性を保ちました。これにより、議会を無視した長期の軍備維持は困難になり、政府は議会多数派の支持を維持しなければ政権運営ができないという構造が強まっていきます。

議会内言論の自由は、政府批判と情報公開の文化を育て、パンフレット・新聞・クラブなどの公共圏と連動しました。もっとも、完全な言論の自由がすぐに実現したわけではなく、名誉毀損罪や出版規制は段階的に緩和される過程をたどります。宗教についても、寛容法は非国教徒プロテスタントの礼拝を一定条件で認めたにとどまり、カトリックと無神論者には政治的制約が残りました。章典の理念は、18世紀を通じて慣習と実務の中で具体化されていきます。

選挙制度の面では、〈選挙の自由〉が宣言されても選挙権の範囲は狭く、腐敗選挙区や買収の問題が残りました。広範な選挙制度改革(1832年以降の選挙法改正)には一世紀以上を要します。したがって、章典は「議会主権の原理」を確立しながらも、その運用が貴族・ジェントリー中心の政治文化と結び付いて進んだ点に注意が必要です。

影響と限界:近代立憲主義への橋渡し

権利の章典の最大の歴史的意義は、〈王は法に従う〉という原理を国家の中心に据え、議会主権と法の支配を制度として結晶させたことです。立憲君主制は、王の存在を否定するのではなく、王を法の枠組みに囲い込み、政府の正統性を議会の承認に連結させる技法でした。この枠組みは、18世紀のイングランドにおける政治的安定と経済発展、対外戦争の持久運営(財政=軍事国家の形成)を支え、他国の政治思想に強い示唆を与えます。

思想的には、ロック『統治二論』(1690)などの社会契約論・抵抗権論と共鳴し、〈被治者の同意〉〈権力分立〉〈革命権〉といった近代政治思想のキーワードを現実政治に橋渡ししました。アメリカ植民地では、議会主権・課税同意・陪審の公正・言論の自由といった理念が受け継がれ、独立後の連邦憲法と権利章典(修正1–10条)に具体化されます。特に、〈議会内言論の自由〉〈過酷な刑罰の禁止〉〈武器保有〉の文言は、解釈の相違を孕みつつも継承の明確な系譜を示します。

一方で、章典には明確な限界もありました。第一に、宗教的・身分的に普遍ではありません。武器保有はプロテスタント限定であり、カトリックは公職就任や王位継承で差別されました。宗教寛容も限定的で、完全な信教の自由・政教分離はのちの世紀の課題です。第二に、選挙権・被選挙権の拡大は章典の外で進み、女性や無産階層の政治的平等は実現していませんでした。第三に、〈議会主権〉の原理は、ときに司法的権利保障を圧迫する可能性を包含します。イングランド法は成文憲法典を持たないため、議会が過半で制定しうる法律が最終規範となり、個人の権利との緊張関係は常に政治・司法の運用に委ねられます。

それでも、専制の恣意を抑える〈否定のカタログ〉と、議会の自由・臣民の基本的自由を守る〈肯定のカタログ〉を一体化した章典は、近代立憲主義の標準形を早期に提示しました。王権の「範囲」を定め、違反が政治責任・法的責任に結び付くという期待を制度化したことで、憲政の慣習と責任政治(アカウンタビリティ)の文化が育ちます。

比較の視点からいえば、フランスの「人権宣言(1789)」が普遍的権利の理念を高らかにうたったのに対し、イングランドの章典は具体的な統治の歯止めと手続に焦点を当てた実務的文書でした。理念の普遍性では後者は控えめですが、慣習・判例の上に積み重ねる〈漸進的立憲〉の力学を象徴しています。これが、英米系の憲政文化における「法的技術」と「政治的慣行」の結合の源流だといえるでしょう。

総括すると、権利の章典は、名誉革命の成果を法形式で固定化し、王権の限界・議会の優越・臣民の自由という三点セットを近代国家の基礎に据えた文書でした。普遍的権利の宣言としては不十分であり、宗派や資格による制約も色濃く残りましたが、〈政府は法で縛られる〉という当たり前を現実政治に anchoring した実務的な創意こそが、その歴史的価値の核心にあります。以後の改正や判例、制度改革は、この礎石の上に積み上がっていきました。