国際軍事裁判(こくさいぐんじさいばん)とは、国家間の戦争や占領の過程で行われた重大な国際犯罪について、戦勝国など国際社会が設けた特別法廷で個人の刑事責任を問う裁判を指します。典型は第二次世界大戦後に設置されたニュルンベルク国際軍事裁判所(IMT)と極東国際軍事裁判(IMTFE・いわゆる東京裁判)で、侵略戦争(平和に対する罪)・戦争犯罪・人道に対する罪を法源として、国家の名の下に行為した指導者個人を処罰の対象にしました。前例の乏しい挑戦であったため、「事後法」や「勝者の裁き」への批判を招きつつも、個人責任の確立、国家元首免責の否定、集団的残虐の記録化、人道法・国際刑事法の進展に大きな足跡を残しました。国際軍事裁判は、その後の旧ユーゴ・ルワンダの ad hoc 法廷や国際刑事裁判所(ICC)へとつながる起点として理解されます。
設置の背景と法的基礎――戦争責任を「個人」に帰する試み
第二次世界大戦の終結に際し、連合国はナチス・ドイツと日本の指導層が組織的に行った侵略・虐殺・強制労働・非人道行為を、単なる国家責任ではなく個人の刑事責任として追及する方針を固めました。これは第一次世界大戦後のライプツィヒ裁判の不徹底や、国家責任論のみでは被害回復も再発防止も十分でないという反省に基づきます。1945年8月、英米仏ソの四か国はロンドン協定とその付属憲章(IMT憲章)を採択し、①平和に対する罪(侵略戦争の計画・準備・開始・遂行)、②戦争犯罪(ハーグ・ジュネーヴ法の重大違反)、③人道に対する罪(迫害・大量殺害など民間人への広範かつ体系的犯罪)を裁く権限を定めました。東京では極東委員会・連合国軍総司令部(GHQ)の下、IMTFE 憲章が公布され、総体として同種の犯罪を対象としつつ、日本特有の占領・対中戦争の経緯を踏まえた訴因構造が設計されました。
この法的構想の核心は三つあります。第一に、個人刑事責任の導入です。国家の行為でも個人が刑事責任を負うと明言し、命令遵守や地位を免責の根拠としない立場を採りました。第二に、国家指導部の共謀責任です。侵略計画の共謀(Conspiracy)や共同の計画・目的への参加を処罰の射程に入れ、政策犯罪の構造的責任追及を可能にしました。第三に、国家元首免責の否定です。元首や政府高官の地位は免責とならないという近代国際刑事法の原理がここで明文化されました。
ニュルンベルク国際軍事裁判所(IMT)――組織・訴因・判決の骨格
IMT は1945年11月から46年10月までバイエルン州宮殿で公開審理を行い、四か国(米英仏ソ)の判事各1名と補判事各1名が合議体を構成しました。被告はゲーリング、リッベントロップ、カイテル、ローゼンベルク、ヘス、カルトゥ・ダラら政軍・党の上層部22名(うち欠席1)で、検察は大量の文書・電報・命令書・統計・映画記録を証拠化し、「文書の法廷」と呼ばれるほど記録中心の審理を貫きました。
訴因は①侵略戦争(平和に対する罪)、②戦争犯罪、③人道に対する罪、④共謀(主として①に関連)でした。判決は、国家の侵略責任を個人に帰し、ユダヤ人迫害・強制移送・強制収容所・占領地下での大量殺害などを人道に対する罪として確定し、党組織(親衛隊SS・ゲシュタポ等)を犯罪的組織と認定しました。一方で、単に党員であることは自動的な刑事責任とはならないと線引きも行われました。最終的に12名が死刑、7名が懲役、3名が無罪とされ、同時にドイツの国内法廷や米軍のミッテルバウ=ドーラ、医師裁判、法曹裁判など後続ニュルンベルク裁判(連合各国による軍事法廷)と連動して処罰が進みました。
IMT の法理は、侵略戦争の違法性を国際法の一般原則として再確認しつつ、個人責任の枠組みを提示しました。ナチズムの犯罪を事実として確定し、文書主義によって否認論に対抗しうる記録を遺した点も大きな意義です。他方、公判の手続保障や弁護権は確保されたものの、証拠採用の柔軟さや共謀訴因の射程、戦勝国側行為の不処罰などをめぐって現在まで議論が続いています。
極東国際軍事裁判(東京裁判・IMTFE)――訴因の三分類と審理の特徴
東京裁判は1946年5月から48年11月まで、連合11か国(米英仏ソ、中華民国、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィリピン)の判事で構成され、東条英機、広田弘毅、松井石根、木村兵太郎、板垣征四郎ら28名が起訴されました。訴因は日本独自の三分類が用いられ、A級(平和に対する罪=侵略戦争の計画・開始・遂行)、B級(通常の戦争犯罪)、C級(人道に対する罪)に整理されました。実際の審理は主としてA級に重心が置かれ、中国・東南アジアでの侵略と占領政策の連続性、日独伊三国同盟の政治的意味、満洲事変以降の軍部主導の体制形成などが焦点です。
証拠面では、政府・陸海軍の公文書、戦時日記、外交電報、被害地からの証言、捕虜・抑留者の供述、人口統計・衛生記録などが幅広く用いられ、南京事件、バターン死の行進、捕虜虐待、無差別爆撃・焼打ち、細菌戦の疑惑などが争点化しました。判決は7名に死刑、16名に無期・有期刑、2名が病死・公判停止などとなりました。広田弘毅に象徴されるように、直接の指揮命令が証拠で裏づけられない場合でも、最高指導層としての政策・人事の放置と結果に対する責任を問う判断が示され、これがのちの指揮官責任論(いわゆる山下判決系の構成)に接続されます。
IMTFE は、多数国判事の意見分裂、ラダ・ビノード・パール判事の包括的無罪意見、占領軍と検察・事務局の関係など、政治と司法の緊張が露わになった法廷でもありました。パール判事は侵略犯罪の事後法性、戦勝国の戦争行為(空爆・原爆・ソ連の対日参戦手法等)への不問、連合国内の植民地主義の不整合を批判し、国際刑事法の普遍性・公平性を厳格に求めました。この異論は、裁判の歴史的評価を一層多面的にし、アジアの戦争責任論・歴史認識論に長い影響を与えています。
法的争点と批判――事後法・勝者の裁き・選択的正義
国際軍事裁判をめぐる主要な批判は三点に集約できます。第一は事後法批判です。とくに「平和に対する罪」は、明確な条文化が十分でないまま刑事化されたとの指摘がありました。これに対し、裁判所側はケロッグ=ブリアン不戦条約や戦前の慣習法、ハーグ法・ロンドン海軍条約等の累積的拘束を根拠に、侵略戦争の違法性は予見可能であったと反論しました。
第二は勝者の裁きです。連合軍の戦略爆撃やシベリア抑留、民間人への被害などが被告化されなかった点、ソ連の対ポーランド戦やドイツ占領地での行為との整合などが問題視されました。これは政治的現実と法の普遍性の緊張を端的に示します。第三は手続の公平で、検察・弁護の証拠アクセス、反対尋問の限界、長期審理における被告の防御権などが議論となりました。
他方で、国際軍事裁判は膨大な証拠の公開と記録化、被害と加害の事実を国際的に確定する機能を果たし、否認論・相対化への歯止めをかけました。さらに、個人責任の理念は、国家犯罪に対する「誰も法の上にいない」という規範を世界規模で打ち立てる契機となりました。批判と意義はコインの両面で理解する必要があります。
影響と継承――国際刑事法の制度化へ
ニュルンベルク・東京の遺産は、その後の国際刑事法の枠組みに具体化しました。戦争犯罪と人道に対する罪は、1949年ジュネーヴ諸条約と追加議定書、1968年の戦争犯罪・人道に対する罪の時効不適用条約などで制度化され、国家元首の免責否定はピノチェト事件など国内外の判例に引き継がれます。冷戦後には旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)とルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)が国連安保理の決議で設置され、民族浄化・ジェノサイド・系統的性暴力といった犯罪類型の詳細化、共同犯罪事業(JCE)や上級者責任の洗練、被害者参加制度の工夫などが進みました。
1998年のローマ規程に基づく国際刑事裁判所(ICC)は、恒久的な条約法廷として、ジェノサイド・人道に対する罪・戦争犯罪・侵略犯罪(規程改正で定義)を扱います。ICC は国際軍事裁判を直接の前史としつつ、より強い手続保障、補完性原則(まず国内で裁く)、被害者参加と補償といった制度的進化を遂げました。国際軍事裁判の経験は、証拠の収集・分析、指揮命令系統の特定、大規模事件の訴追戦略、広報と記録の公開など、国際刑事実務の「作法」を形づくっています。
日本とドイツの戦後社会――裁判の受容、記憶、法制度の更新
ドイツでは、IMT と後続裁判を出発点に、各州での戦犯捜査、アイヒマン裁判(イスラエル)、フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判などを通じて、加害の事実と責任が世代をまたいで可視化されました。歴史教育・記念館・補償制度が法と社会の両面で整えられ、否認・美化の言説に対して法的・社会的に対応する仕組みが形成されます。
日本では、東京裁判の評価は長く分裂的でした。裁判の法理への批判、連合国の不処罰への不信、占領政策との絡みなどが複雑に重なり、歴史認識の対立を生みました。同時に、戦後憲法、人権保障、平和主義、日独の賠償・補償、国内刑事手続の近代化など、制度面の更新は国際軍事裁判後の国際規範の浸透と連動します。戦争犯罪の被害地域(アジア太平洋)における記憶・補償・謝罪の課題も、裁判の記録と評価を参照軸にして継続的に検討されています。
用語整理――A・B・C級、指揮官責任、共謀、犯罪的組織
学習上混同しやすい用語を整理します。まず、A・B・C級は東京裁判での分類であり、A=平和に対する罪(侵略)、B=通常の戦争犯罪、C=人道に対する罪を指します。犯罪の軽重の序列ではない点に注意が必要です。指揮官責任は、指揮官が部下の犯罪を知りながら防止・処罰を怠ったときに負う責任で、直接命令がなくても成立し得ます。共謀は政策犯罪の構造的遂行を捉えるための連結概念で、参加の範囲と証明水準が常に争点です。犯罪的組織の認定は、組織メンバーの個別訴追を容易にする機能を持ちましたが、濫用回避のための限定が付されました。
総括――限界と意義をあわせ見る視点
国際軍事裁判は、政治と法がせめぎ合う接点に作られた前例の少ない法廷でした。事後法性や選択性の批判は重く、完全な普遍正義を体現したわけではありません。しかし、それでもなお、国家の名の下に行われた巨大な暴力に対して、記録・審理・判決という形で世界公共圏に可視化し、個人責任の理念を実務に落とし込んだ意義は決定的でした。以後の国際刑事法は、この出発点を批判的に継承し、手続保障と法の明確性を高めながら普遍性の射程を広げてきました。国際軍事裁判を学ぶことは、国際秩序がいかにして暴力を法に置き換えようとしてきたか、その困難と工夫を理解することに直結します。

