サパタ(エミリアーノ・サパタ) – 世界史用語集

エミリアーノ・サパタ(Emiliano Zapata, 1879–1919)は、メキシコ革命期に南部モレロス州を拠点として蜂起し、農村共同体の土地回復と自律をめざした指導者です。彼のスローガン「ティエラ・イ・リベルタ(土地と自由)」は、単なる合言葉ではなく、ハシエンダ(大農園)によって奪われた共有地を村へ戻し、小作と負債奴隷的な労働関係を断ち切るという、具体的で切実な要求でした。サパタはカリスマ的な軍人というより、村の名主に近い人物で、文書に残る「アヤラ綱領」を拠り所に、中央の政権が誰であろうと土地の返還を迫り続けました。マデロ政権の躊躇、ウエルタ独裁の反動、カランサ政権の中央集権化に対して、彼は一貫して〈村の権利〉を中心に据え、そのために武装と自治の両方を組み合わせます。1919年、彼はチナメカの農園で裏切りに遭い暗殺されますが、サパタの名は農民運動の象徴としてメキシコ社会に生き続け、20世紀末以降の先住民運動にも息づいています。

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出自と蜂起の背景:モレロスのサトウキビ地帯、村の共同地とハシエンダ

サパタはメキシコ中南部モレロス州のアネネクイルコ村に生まれました。父は小規模農牧の地元名望家で、若いサパタは馬の扱いに長け、村の代表として土地境界や水利をめぐる交渉にも関わりました。19世紀末のディアス独裁(ポルフィリアート)下では、近代化と鉄道建設の名のもと、投資家や政治家が支持するハシエンダが拡大し、村々のエヒード(共有地)が測量・法改正・武力を通じて編入されました。モレロスではとくにサトウキビ農園が進出し、共同体は水源と運河、放牧地を失い、小作や日雇いとしてハシエンダに従属する構造が強まります。

1909年、アネネクイルコ村で土地の返還運動が高まり、サパタは村の防衛委員に選ばれます。彼は法的手段での回復に望みをつなぎつつ、農園側の暴力と行政の偏向に直面し、〈自衛〉の必要を痛感しました。この局地的な葛藤は、やがてメキシコ全土の政治危機—ディアス長期政権への挑戦—と結びつき、サパタはマデロが掲げる反ディアス運動と接点を持つようになります。

革命の渦中へ:マデロ支援から「アヤラ綱領」へ

1910年、フランシスコ・I・マデロがディアスに反旗を翻し、選挙の公正さと民主化を掲げて挙兵すると、サパタはモレロスで農民部隊を組織して協力しました。1911年、ディアスが失脚すると、マデロは大統領に就任します。しかし、農村の核心要求—土地の即時回復—は新政権の最優先とはなりませんでした。マデロは漸進改革と法手続を重視し、ハシエンダの既得権と治安を配慮してサパタ軍の武装解除を求めます。モレロスの農民にとって、これは期待との落差でした。

1911年11月、サパタは信頼厚い知識人オティリオ・モンターニョらとともに「アヤラ綱領(Plan de Ayala)」を公表します。綱領は、マデロを「裏切り者」と断じ、土地と水の回復、ハシエンダの三分の一の没収と革命参加農民への分配、抵抗する大地主の全資産没収、「村の委員会」による執行など、実務的で急進的な内容を打ち出しました。ここでサパタは、政権交代よりも〈土地〉を革命の中心に据え直し、政治的同盟が変わっても原則を変えないことを宣言します。この綱領は以後、サパタ派(サパティスタ)にとっての憲章となりました。

内戦と対抗:ウエルタ独裁、北部勢力、アグアスカリエンテス

1913年、軍人ビクトリアーノ・ウエルタがクーデタでマデロを打倒・殺害し、独裁政権を樹立します。サパタはウエルタを断固として敵視し、ゲリラ戦法でハシエンダを包囲・接収しつつ、村に土地を返還していきました。彼の軍は規律と略奪禁止を徹底し、接収した砂糖工場を共同管理に付すなど、〈戦いながら造る〉実践を進めます。

北部では、ベヌスティアーノ・カランサが「合衆国憲法保持」を掲げて立ち、パンチョ・ビリャ率いる騎兵部隊が勢力を拡大していました。サパタは北部勢力と連携し、1914年にはウエルタが失脚。続く権力再編で、カランサとビリャ・サパタの連合は対立に向かいます。1914年末のアグアスカリエンテス会議は統一政府の樹立を目指しましたが、方針はまとまらず、サパタとビリャはメキシコシティを一時占領しながらも、恒久的な中央統治を志向せず、それぞれの地盤で自治を深めました。

カランサは憲法改正(1917年憲法)で労働権や教育を進歩的に定めつつ、土地問題では中央の管理を重視し、反対派掃討に軍を投入します。南部戦線ではアルバロ・オブレゴンらの将軍が攻勢を強め、サパタ派は山地で抵抗を続けましたが、包囲は徐々に狭まっていきました。

モレロスの社会実験:村の委員会、共同体の自律、工場の掌握

サパタの革新性は、単に戦ったことではなく、戦いのさなかに村の自治と土地改革を実地で進めた点にあります。サパタ派は占領地域で「村の土地委員会」を組織し、測量と境界回復、耕地・放牧・水路の配分、治安と司法の簡易な運用を担わせました。ハシエンダの砂糖工場(セントラル)の一部は、村の代表と技術者が運営し、原料サトウキビの調達と賃金の支払いを管理しました。サパタ本人は豪奢を嫌い、将兵の規律違反を厳しく処罰し、略奪や女性・子どもへの暴力を禁じました。

思想面では、アナキストやアグラリアニズム(農本主義)の影響を受けた知識人たちが綱領を補助し、共同体中心の自律社会像が形を取りました。サパタの有名な言葉「耕す者こそ土地の主人」は、所有権の抽象論ではなく、耕作という行為を通じて権利を確証するという、実務的倫理を示しています。彼の運動は、都市労働運動や中産階級の自由主義としばしば緊張関係に立ちましたが、土と水を基礎にした生活世界を守るという点で、広範な共感を呼びました。

暗殺と遺産:チナメカの罠、その後の革命国家と「サパタの名」

1919年4月10日、サパタはモレロス州チナメカのハシエンダで、政府軍将校ヘスス・グアハルドの偽装投降を信じて少数の供の者と会見に赴き、門内で銃撃を受けて倒れました。いわゆる「チナメカの罠」です。死は運動を大きく揺さぶりましたが、モレロスの村々は抵抗を続け、サパタの名は殉教者として神話化されます。のちに革命を制度化した諸政権(カランサの後継であるオブレゴン、カリェス、制度的革命党 PRI の系譜)は、土地分配やエヒード制度の整備を進めつつ、国家の主導で農村を統合しました。この過程で、サパタの〈村からの改革〉は一部吸収され、一部は周縁化されました。

それでも「サパタ」は、メキシコの政治文化の底流で生き続けます。農民団体や教員運動、地域自治の主張は、たびたびサパタの語彙と肖像を掲げました。20世紀末、チアパス州で先住民と農民が立ち上げた組織が自らをサパティスタ民族解放軍(EZLN)と名乗ったのは、土地・自治・尊厳という課題が世紀を越えて連続していることの宣言でもありました。もちろん、歴史的サパタとEZLNは時代も文脈も異なりますが、「下からの政治」「共同体の意思」「国家と距離を取りながら権利を主張する」という線は太くつながっています。

人物像と評価:寡黙な現場主義、原理と柔軟の同居

同時代の将軍パンチョ・ビリャが陽性で劇的な行動で知られるのに対し、サパタは寡黙で慎重、戦術は堅実、私生活は質素だったと伝えられます。馬術と地の利を生かした奇襲・撤退、補給線の重視、村の防衛と再建に時間を割く姿勢は、短期の栄光より持続性を優先するものです。彼は中央政権に就こうとせず、首都を占領しても長居せずに山へ戻りました。これは権力を嫌ったからだけでなく、彼の政治目標が「国家を握ること」でなく、「村の土地を返すこと」だったからです。

評価は二極に振れがちです。英雄視は、農民の希望と尊厳を体現した点を讃えます。批判的な見方は、分権と自治を重視する姿勢が国家建設を妨げた、あるいは工業化・都市労働の視点に乏しいと指摘します。より妥当なのは、サパタを〈国家の枠外から国家に対抗交渉した指導者〉として捉えることです。彼は一貫して〈土地〉を基準にし、その基準で中央政府を評価しました。だからこそ、政権が誰に代わっても原理を曲げず、同盟や戦術は状況に応じて柔軟に変える—この硬さと柔らかさの同居が、彼の運動の強さでした。

用語・年表・地理の手がかり

用語では、アヤラ綱領、エヒード(共有地)、ハシエンダ(大農園)、サパティスタ(サパタ派の戦士・支持者)、チナメカの罠、ティエラ・イ・リベルタが頻出します。年表は、1879誕生→1909村の防衛委員→1910マデロ蜂起に協力→1911アヤラ綱領→1913ウエルタ独裁→1914ウエルタ失脚・アグアスカリエンテス→1917新憲法→1919暗殺、がおさえどころです。地理では、モレロス州(アネネクイルコ、クエルナバカ周辺)、チナメカ、隣接のプエブラ・ゲレロの山地と平野の対比、サトウキビ帯と用水路網の位置が、土地問題の〈現場〉を理解する鍵になります。

総じて、エミリアーノ・サパタは、国家の大政治からは一歩距離を置き、村の現場から革命を定義し直した人物でした。彼の名が百年を経ても色褪せないのは、土地・水・労働・自治という、社会の根っこにある問いを言葉と行動で示し続けたからです。サパタを学ぶことは、華やかな権力闘争の陰で積み上げられた、小さく具体的な改革の手触りを取り戻すことでもあります。畦に立つ村人の視線から見た革命—その視線の高さこそが、彼の遺した最大の遺産なのです。