サモリ帝国 – 世界史用語集

「サモリ帝国」とは、19世紀後半の西アフリカ内陸部でサモリ・トゥーレ(Samori Touré)が築き、フランスの植民地化に最後まで抗して広域を支配した国家を指す通称です。現代の研究では「ワスル帝国(Wassoulou Empire)」とも呼ばれ、現在のギニア東部・マリ南部・コートジボワール北部・ブルキナファソ西部にまたがる地域を中心に、1870年代から1890年代末まで存続しました。商人として出発した指導者が、交易・軍事・宗教を結びつけて行政国家を作り上げ、当時の銃器や通信、補給のネットワークを駆使して拡大した点が特徴です。サモリ帝国は、周辺の伝統王国やイスラーム改革運動、ヨーロッパ列強との三重の競合の中で生まれ、フランス第三共和政のサヘル・ギニア征服と正面衝突しました。最終的に1898年にサモリ本人が捕縛されて国家は崩壊しますが、その過程で見せた組織力と対応の柔軟さは、近代世界における西アフリカの政治・経済の動態を理解する鍵となります。

大づかみに言えば、サモリ帝国は「交易で力を蓄え、銃で領域をまとめ、信仰で統治を支え、外交で時間を稼ぎ、最後は焦土戦術と移動で生き延びようとした国家」でした。武力による征服だけでなく、徴税・兵役・工匠の配置、宗教司法の導入、交通路の保全といった内政の整備を伴っていたため、単なる軍事同盟や一時的な連合ではなく、制度を備えた国家として把握されます。以下では、成立の背景、政治・軍事・経済の仕組み、列強・周辺諸勢力との関係、崩壊と研究上の論点の順に説明します。

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成立の背景と拡大の過程

サモリ・トゥーレはマンディンカ系ディウラ(交易民)の出で、少年期から商業ネットワークに接して成長したとされます。19世紀中葉の西アフリカは、カヘル金・コーラの実・塩・奴隷・布地などの交易が活発で、内陸と大西洋岸(シエラレオネ、リベリア、セネガル)を結ぶ複数の物流ルートが競合していました。サモリは地域の軍事的空白と交易の結節点に目を付け、親族と信頼できる配下を核に武装集団を組織し、徐々に周辺の首長層を従えました。イスラームに帰依し、礼拝や学僧の保護を通じて正統性を演出したことも、異なる共同体を束ねる上で有利に働きました。

1870年代、彼はニジェル上流から森林帯の縁辺にかけての城郭都市と市場を掌握し、首都の一つビサンドゥグを拠点に領域を広げました。拡大の推進力は、交易収益による火器と火薬の調達、そして被征服地の戦士や職人の組み込みでした。沿岸からの銃器流入は英領シエラレオネやリベリアの商人網に依存しつつ、サハラ交易の銃・馬とも結びついていました。サモリはこれを自前の供給体制に変換し、鍛冶・銃工・火薬師を集住させて補給の平時化を図りました。

拡大の過程では、周辺の強国との緊張と協調が繰り返されました。北東のトゥクロール帝国(ウマル・タールの後継勢力)や、南東のケネドゥグ王国(ティエバ・トラオレ)とは、交易路の支配や境界都市をめぐって対峙し、ときに同盟を結びました。アシャンティ王国や内陸のモシ王国など、森林帯とサバンナを跨ぐ勢力とも、求心と遠心が揺れ動きました。サモリの統治は、一枚岩の中央集権というより、家族・信頼できる将軍・宗教指導者に委ねた半分権限委譲型の支配で、遠隔地では徴税権・徴兵権を担う知事(ケルファ)を置いて間接統治を行いました。

政治・軍事・経済の仕組み

サモリ帝国の統治は、軍事・行政・宗教司法の三つの柱から成り立ちました。軍事面では、歩兵(ソファ)と騎兵が主力で、近接戦では槍や大刀、遠戦では滑腔銃から後装式小銃への段階的更新が進みました。軍は常備兵と徴発兵が組み合わされ、地域ごとに評価された戸口・耕地面積・市場利益に応じて兵員と物資を割り当てる制度が敷かれました。訓練は号砲・太鼓・角笛による号令と隊列運動が重視され、信頼する親衛隊は新式銃で武装しました。

補給は国家の要でした。火薬の原料(硝石・硫黄・木炭)の確保、鉛・鉄の確保、銃器の修理と改造、馬匹の飼育と鞍具の生産が制度化され、職人は特権的居住地に集められました。道路・渡河点・市場の管理は、徴税と軍の移動を支えるインフラ政策でした。城塞(タタ)や土塁・木柵を備えた防衛拠点が各地に築かれ、有事の避難・貯蔵庫としても機能しました。

行政面では、領域を州(ケルファ管区)に分け、知事が徴税・徴兵・治安・市場統制を担いました。地方に置かれた徴税官とイスラーム法学者(ウラマー)は、地代や交易税、通行税の徴収を監査し、違反に対する刑罰の執行を支えました。貨幣経済の浸透は限定的でしたが、金粉や布地、家畜、奴隷が交換媒体として機能し、国家は市場の手数料や量目の標準化を通じて収入を得ました。交易は国家の生命線で、コーラの実、金、象牙、布、塩、そして武器・火薬が主要品目です。とくに沿岸への通路を確保するため、森林帯の諸勢力との関係調整が重視されました。

宗教司法は、秩序と正統性の源泉でした。イスラーム法(シャリーア)に基づく裁判が都市で行われ、婚姻・相続・商取引の紛争解決に当たりました。イスラームの実践は均質ではなく、地方共同体の慣行と折り合いながら進みましたが、金曜礼拝の整備や学僧の保護、コーラン教育の普及は、帝国の結束を高める効果を持ちました。サモリは自らの称号と儀礼を通じて、宗教的権威と軍事的指導力の両面から支配を正当化しました。

社会政策としては、被征服民の編入と再配置が重要でした。戦士や職人は中核都市へ移され、税・兵役・労役の割当が再編されました。これは反乱の抑止と能力の活用を両立させるための手段でしたが、過度の移住や重税は離反を招き、後期には反乱鎮圧が頻発しました。奴隷化は当時の戦争の一般的慣行の一部であり、国家財政と労働力需要を支える一方、道徳的・社会的緊張の火種でもありました。

列強・周辺勢力との関係とフランスとの戦争

サモリ帝国の対外関係は、武力・交易・外交の三本柱で運用されました。フランスがセネガル河口から内陸へ進出し、鉄道や軍道を整備するなかで、ニジェール上流・ギニア高地は戦略要地と化しました。サモリは当初、フランスと不可侵や境界画定の合意を結ぶ一方、英領シエラレオネ・リベリア経由で銃器を調達して拡張を続けました。フランスが武器禁輸を強めると、サモリはルートを分散し、価格上昇に対応して国内で修理・改造の比重を高めました。

1880年代後半から1890年代、フランス軍は最新式の後装銃、機関銃、山砲、工兵を備え、段階的に包囲網を狭めました。サモリは焦土戦術に転じ、前線地域の住民と穀倉を組織的に内地へ移動させ、敵に兵站基盤を残さない戦法を採りました。橋梁・倉庫・市場を焼き払い、移動要塞のように群落を移す方法は、短期的には有効でしたが、長期的には民生の疲弊と離反を招きました。フランス軍は現地勢力との同盟、道路開削、補給線の構築でこれに対抗し、段階的に都市を孤立させていきました。

サモリは東進で時間を稼ごうとし、1890年代に首都機能を内陸さらに奥へ移しながら、ボンジェやコートジボワール北部へ勢力の軸を移動しました。だが、内外の敵が増え、武器・弾薬の確保は次第に困難になりました。1898年、フランス軍の追撃の末にサモリ本人が捕縛され、ギニア湾岸のリベリア国境付近で抵抗を続けていた残余勢力も次第に解体しました。サモリはその後ガボンに流刑となり、1900年に没しました。帝国は行政基盤を持っていたがゆえに、首が落ちればすべてが消える「個人の軍隊」ではありませんでしたが、広域の統合を維持するための交易・武器・人材の回路が断たれると急速に瓦解しました。

周辺勢力との関係では、トゥクロールやケネドゥグ、モシ、アシャンティなどとの戦争と外交が継続し、しばしばフランスの介入を招く口実ともなりました。沿岸の英領当局は自領の秩序維持を優先しつつも、商人による武器取引を完全には遮断できず、サモリはその隙間を突く形で軍備を維持しました。こうした「列強間の隙間を渡る」戦略は、ヨーロッパ側の協調強化とともに持続が難しくなりました。

崩壊後の評価・研究上の論点

サモリ帝国は、アフリカ史研究において多面的に評価されています。一つは、在地の交易ネットワークと技術・宗教・軍事の統合に成功した「内発的国家形成」の事例としての側面です。税と動員、工匠と兵站、宗教司法と都市運営を組み合わせ、後発の火器導入にもかかわらず体系的な軍政を整えた点は注目されます。他方、征服・移住・奴隷化・重税といった負の側面も明白で、被支配共同体から見れば圧政の記憶も強く残りました。焦土戦術はフランスへの対抗策であると同時に、住民に甚大な犠牲を強いた政策でした。

技術史の観点では、銃器の調達と内製化、修理・改造の技術体系、火薬の原料確保、馬具・革・鉄器の供給網が注目されます。サモリ帝国は、銃器を単なる輸入品として消費するのではなく、工匠の育成と資源の再配分で戦術・兵站を支えました。これは、当時の西アフリカにおける「モノと技」の流通のあり方を考える上で重要な手がかりになります。

宗教と政治の関係も重要です。イスラームは、越えがたい言語・族籍の境界を橋渡しする共通参照枠として機能し、裁判・教育・祭礼を通じて帝国の統治文化を支えました。ただし、実践は均質ではなく、スーフィー教団のネットワーク、在来信仰の慣行、祭司層の力学が絡み合いました。サモリ個人の敬虔と実用の間合い、宗教的権威の政治利用というテーマは、研究史で繰り返し論じられています。

帝国の地理性については、サバンナと森林帯の境界地帯という立地が、農牧・狩猟・交易の多様な生業を可能にする一方、交通と補給の難しさ、マラリアなどの疾病環境、雨季・乾季の季節性といった制約を生みました。乾季の戦役と雨季の停戦、川の増水と渡渉点の変化、道路のぬかるみは、軍事行動と市場の需給に直接的な影響を与えました。こうした環境要因の分析は、近年の歴史地理学・環境史の重要なテーマとなっています。

資料の問題も指摘されます。フランス軍の報告や宣伝、宣教師・商人の記録、イギリス植民地当局の文書は豊富ですが、在地側の口承やイスラーム文書は断片的にしか残らないことが多いです。記録の偏りを補うために、考古学・地名学・口承史の手法が組み合わされ、都市遺跡の調査や城塞の同定、交易路の再構成が進んでいます。サモリ帝国像は、今もなお資料の拡充と分析の深化によって更新され続けています。

最後に、サモリ帝国は「強大な個人のカリスマが築いた軍事国家」と単純化されがちですが、実際には市場・宗教・官僚・工匠からなる基盤がありました。首都の移動や東進は、単なる逃避ではなく、交易路の再接続と資源再配置の戦略でもありました。敗北と崩壊は、圧倒的火力差だけでなく、包囲網・禁輸・同盟政治・内乱など複合的な要因の帰結でした。こうした多角的な視点から見ると、サモリ帝国は、西アフリカの近代転換期を象徴する動態的な政治体といえるのです。