周(しゅう、Zhou)は、中国古代の大王朝で、前11世紀ごろに殷(商)を倒して成立し、前770年に東周へ都を移したのち前256年ごろまで存続した長期政権を指します。前半を西周、後半を東周(春秋・戦国時代)と呼びます。周は「天命(天命思想)」を掲げ、王権の正当性を道徳と秩序の維持に求めた点に大きな特色があり、諸侯に土地と権限を分与する「封建(ほうけん)」と、血縁秩序を骨格にした「宗法(そうほう)」で広域統治を実現しました。後期には鉄器・貨幣・常備軍・法令の整備が進み、諸子百家と呼ばれる多彩な思想が生まれます。中国国家の政治文化(礼・法・文字・度量衡)や東アジアの歴史に、周が残した基礎はきわめて大きいです。
ここでは、西周の成立と基本像、制度と社会のしくみ、東周の変容(春秋・戦国のダイナミクスと思想)、そして終焉と後代への継承という流れで、初学者にも通じるよう平明に解説します。固有名詞は必要最小限にしつつ、全体像が自然につかめるように配慮します。
成立と基本像――西周の登場から東周への遷都まで
周の出発点は、渭水流域(現在の陝西省一帯)に拠点をもった「周人」の共同体でした。伝承では文王(ぶんおう)が力を蓄え、武王(ぶおう)が殷の紂王を倒して王朝を開いたとされます。首都は鎬京(こうけい/鎬・鎬京、のちの鎬京・宗周)に置かれ、渭水盆地の豊かな農地と青銅器文明が王権の基盤でした。
王朝の正当性は「天命」によって説明されました。天命とは、天が徳のある王に天下を委ね、徳が失われれば天命は革(あらた)まる、という考え方です。周は殷を倒した理由を「殷が徳を失い、天命が周に移った」と語ることで、征服の正当化と新秩序の理念付けに成功しました。これは後代の王朝交替の理論(易姓革命)の原型になります。
しかし西周後期、王権は次第に動揺します。諸侯の軍事力が強まり、辺境の勢力(犬戎など)の圧力も増す中で、前771年に幽王が殺害されて鎬京が崩壊、王朝は東の洛邑(らくゆう、洛陽)へ遷都しました。これが東周の始まりであり、政治の重心は「王都の権威」から「諸侯間の実力均衡」へ移っていきます。
制度と社会――封建・宗法・礼楽が織りなす秩序
周の統治理念を理解する鍵語は、封建・宗法・礼(と楽)です。まず封建は、王が親族や功臣を諸侯として各地に封じ、土地と人民の支配権を与える制度で、諸侯は年貢・兵役・朝覲(ちょうきん)などを義務として負いました。諸侯の下には卿・大夫・士という重層的な家臣階層があり、地方支配を担いました。これにより、広大な領域を比較的ゆるやかな連邦的ネットワークとして保ちます。
宗法は、宗族(大家族)を中心とする血縁秩序の原理で、嫡長子相続を軸に本家・分家の上下関係を明確化しました。政治的には、王と諸侯、諸侯と家臣の関係が「家の序列」と連動し、儀礼・称号・祭祀の資格が順序づけられます。この仕組みは、権力と財産を分散させつつ血縁で結び、反乱や分裂を抑制する効果を持ちました。
礼と楽は、行動規範と音楽・儀礼の体系です。礼は冠婚葬祭から朝廷儀礼、軍礼に至るまで、誰がどの位置に立ち、どう振る舞うべきかを定めました。楽は単なる娯楽ではなく、音律・舞・歌で秩序と調和を体現する装置です。周人は、礼楽の整いこそが天命を保つ条件だと考え、祭祀・朝議・軍令のあらゆる場で礼楽を重んじました。青銅器の銘文には、祭祀や恩賜、功績の記録が刻まれ、秩序の再確認に用いられます。
経済・社会では、農耕(粟・麦など)と畜産が基本で、青銅器・玉器・漆器の工芸が発達しました。史料に見える「井田(せいでん)」は、農地を井字状に区画して共同耕作と公地負担を分ける理想図として後世に語られますが、実態がどこまで普遍的に運用されたかは学術的に議論があります。いずれにせよ、西周の農村は宗族と村落共同体の枠の中で、貢納と労役を通じて王権・諸侯権とつながっていました。
東周の変容――春秋・戦国、改革、戦争と思想の噴出
東周前半の春秋時代(前770〜前5世紀なかば)は、周王の権威が名目的となり、斉・晋・楚・秦などの有力諸侯が「覇者」として秩序を取り仕切りました。会盟や救援による秩序維持を試みる一方、国内では家臣団(卿大夫)による専横や内紛が頻発します。青銅器の技術はさらに洗練しつつ、鉄器の利用が徐々に広まり、生産と軍事の基盤が変化を始めました。
戦国時代(前5世紀なかば〜前221)に入ると、七雄(秦・楚・斉・燕・韓・魏・趙)を中心に領域国家化が進み、封建・宗法の緩やかな枠は、法令・官僚・軍制で管理する集権的な体制へと置き換わっていきます。各国は富国強兵を目標に、税制・戸籍・県制・軍役・土地制度を改革し、常備軍と攻城兵器を備えた激しい戦争を繰り返しました。鉄製農具・牛耕の普及、灌漑や運河の整備、貨幣(布・刀・円銭)の流通が、都市と市場の発達を促します。
この変容の中で、諸子百家と呼ばれる思想家群が現れました。儒家(孔子・孟子)は礼と徳に基づく政治を説き、法家(商鞅・韓非)は厳格な法と術数で国家を立て直す方法を主張しました。道家(老子・荘子)は自然に従う無為の哲学を、墨家は兼愛と非攻、名家は論理、兵家は戦略、陰陽家は暦と宇宙観を探究しました。彼らは周以来の礼楽と宗法に批判・継承・刷新を重ね、社会が抱える矛盾に理論で応えようとしました。思想の競合は、各国が人材を争って招聘する「稷下の学」や遊説活動を通じて実務にも結びつきます。
西辺の秦は、とくに法家の政策を大胆に採り入れ、度量衡・筆法(小篆)・車軌の統一を準備しながら、戦国後期に諸国を次々と圧倒していきました。周王室はこの頃には名目だけの存在となり、前256年ごろに王統が途絶えます。周が消えたのちも、制度と理念の多くは秦・漢に引き継がれ、形を変えて生き続けます。
終焉とその後――秦・漢への連続と周文化の長い影
周王朝の政治的終焉は、封建的ネットワークが領域国家の軍事・財政・官僚制の前に後退したことを意味します。ただし、それは断絶ではなく、連続を伴う変化でした。たとえば礼は、秦漢の法と行政のもとでも冠婚葬祭・官礼・学校制度に組み込まれ、宗法的な家族秩序は相続・喪葬・祭祀の規範として長く作用しました。青銅器の伝統は貨幣や礼器の意匠に受け継がれ、文字文化は金文から篆書・隷書へと展開していきます。
行政面でも、周の諸侯・卿大夫の層が担った在地統治の経験は、秦漢の郡県制や吏僚登用に別の形で継承されました。学術・教育では、『詩経』『書経』『易』『礼』系の典籍が整理・注釈され、漢代に経学として制度化されます。これらは周の記憶を国家理念として再構成し、科挙前夜の学術世界に至る長い基盤を形づくりました。
また、周の天命思想は、東アジアの政治文化において、君主の徳と正統性を評価する尺度として応答され続けます。王朝交替のときに「徳の有無」を問う語りは、歴代正史や民間伝承に繰り返し現れました。封建と郡県、礼と法、徳と術――これらの二項は、実は周以来の遺産として、後の政治思想の対話を導くキーワードでもあります。
周という語は、同時に「周辺に行き届く」という意味を連想させます。王朝としての周は、まさに礼と封建の網を周到に張り巡らせて秩序を保とうとした政体でした。西周のゆるやかな連邦性、東周の競争と革新、その全体を合わせた千年近い時間が、のちの秦漢帝国と東アジアの国家文化を準備したと言えるでしょう。周を理解することは、古代東アジアの政治・社会・思想がどのように生まれ、変わり、受け継がれたかを一望する最良の入口なのです。

