アメリカ合衆国の参戦 – 世界史用語集

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概要

本項の「アメリカ合衆国の参戦」とは、世界史上とくに影響の大きい二度の世界大戦における合衆国の戦争参加を中心に、参戦に至る政治・外交・社会的背景と、参戦後の体制・戦後秩序への影響を解説するものです。アメリカは独立以後も複数の戦争に関与しましたが、「参戦」という語が最もしばしば指すのは、第一次世界大戦(1917年)と第二次世界大戦(1941年)への参入です。前者は海上権益と中立権の防衛、後者は対日戦争(真珠湾攻撃後)を起点とした枢軸国との全面戦争という性格を持ち、いずれも国内体制・外交理念・世界秩序を大きく変える転機となりました。

以下では、①第一次世界大戦への参戦、②第二次世界大戦への参戦、③法制度・政治過程と自由の問題、④学習の要点と用語上の注意、の順に整理します。用語としての「参戦」は、日本語ではしばしば「宣戦」と混同されますが、宣戦布告(法的行為)と実際の戦争参加(政治・軍事過程)は区別されることに注意が必要です。

第一次世界大戦への参戦—中立から「世界を民主主義にとって安全に」へ

1914年の欧州開戦後、ウッドロウ・ウィルソン大統領は「厳正中立」を掲げました。しかし、英独の海上封鎖と潜水艦戦の激化は中立国である合衆国の通商と国民の安全を脅かしました。1915年、独Uボートによる客船ルシタニア号撃沈で米国民が犠牲となり、独は「ザスス(サセックス)誓約」で無制限潜水艦戦の自制を示したものの、1917年1月にこれを撤回し無制限潜水艦作戦を再開します。同時期にメキシコへ対米参戦を唆すジンメルマン電報の存在が暴露され、対独不信が決定的になりました。

ウィルソンは1917年4月2日、議会に対独宣戦を要請し、上下両院は4月6日に対独宣戦を可決しました(同年12月には対オーストリア=ハンガリーにも宣戦)。同年5月「徴兵法(Selective Service Act)」が成立して兵力動員が開始され、戦時産業委員会(WIB)、価格管理、鉄道の政府管理、燃料・食糧管理など、行政による統制が広がります。言論・治安面では、1917年のスパイ行為法、翌年の治安維持法(Sedition Act)が制定され、反戦言説や労働運動への弾圧も強まりました。世論の動員には「広報委員会(いわゆるクリール委員会)」がポスター・映画・演説など多媒体で関与し、移民国家としての異文化の統合が試みられます。

軍事的には、ジョン・J・パーシング将軍率いるアメリカ遠征軍(AEF)が1917年夏以降欧州へ渡り、1918年のカンティニー、ベルロー・ウッド、サン・ミッシェル、ムーズ=アルゴンヌなどで戦果を挙げ、連合軍の攻勢を支えました。1918年11月11日の休戦成立後、ウィルソンは「十四か条」を提唱し、国際連盟創設を含む新秩序を構想しましたが、上院がヴェルサイユ条約と国際連盟規約の批准を拒否したため、合衆国は戦後の集団安全保障から距離を置く結果となりました。参戦は国家の動員能力・言論統制・市民的自由の緊張を露呈させると同時に、国際主義と孤立主義の葛藤を深めたのです。

第二次世界大戦への参戦—真珠湾から「民主の兵器庫」、そして戦後秩序へ

1930年代、合衆国は第一次大戦の反省から中立法(1935・36・37年)で戦争関与の自制を制度化しましたが、1939年の欧州開戦後は「現金持参・自国輸送」方式の緩和、1941年3月の武器貸与法で英中ソなどを支援し、実質的な「民主の兵器庫」と化します。同年8月の大西洋憲章で英米は戦後原則を共有し、秋には大西洋上での護送護衛(グリーア号事件、ルーベン・ジェームズ号撃沈など)を通じ、名目的中立と実質的交戦状態の境界が曖昧になっていました。

転機は1941年12月7日(ハワイ時間)/8日(ワシントン時間)の日本海軍による真珠湾攻撃です。12月8日、議会は圧倒的多数で対日宣戦を可決し、12月11日にはドイツ・イタリアが対米宣戦、米国も同日に対独・対伊宣戦しました。以後、合衆国は欧州とアジア太平洋の二正面戦争に加わり、英ソ中などと連合国を形成します。戦略の基本は「ドイツ優先」で、連合軍統合作戦の枠組み(連合参謀本部)を整え、北アフリカ→イタリア→ノルマンディー上陸(1944年6月)へと進みました。太平洋では「跳躍作戦」によりガダルカナル、タラワ、マリアナ、硫黄島、沖縄へと前進し、1945年8月の原子爆弾投下とソ連参戦を経て、日本は降伏しました(9月2日調印)。

国内体制は、1940年の平時徴兵法(Selective Training and Service Act)で既に整えられており、参戦後は戦時動員体制が一気に拡大します。戦時生産委員会、価格統制局、配給制度、女性とマイノリティの労働市場進出、科学技術の総動員(マンハッタン計画、レーダー、量産技術)などが総力戦の骨格でした。他方で、1942年の大統領令9066号に基づく日系人の強制移住・収容は、自由と安全のバランスをめぐる深刻な問題を残しました。戦後、合衆国は国連創設、ブレトンウッズ体制、GATT、NATOなど制度と同盟のネットワークを主導し、冷戦期の西側秩序を形成します。第二次大戦への参戦は、国内では産業・科学の飛躍と市民の役割変容を、対外的には国際主義と同盟中心の安全保障体制を定着させました。

法制度・政治過程の比較—宣戦権、動員、自由と安全

合衆国憲法は宣戦権を議会に付与し(第1条8節)、大統領は軍の最高司令官として作戦を指揮します。第一次・第二次大戦では、いずれも大統領が議会に宣戦を要請し、議会が可決するという手続が踏まれました。参戦に至るまでの政治過程は、情報・世論・経済利害・国際環境の相互作用で動きます。第一次大戦では中立権侵害と電報暴露が、第二次大戦では段階的支援と事実上の交戦状態の拡大、そして真珠湾攻撃という劇的事件が、議会と世論の決断を後押ししました。

動員の技術は、徴兵制度・産業統制・財政・プロパガンダの総合設計です。徴兵法(1917、1940)は兵力を安定確保し、産業統制は資源配分と価格・賃金の秩序を維持しました。プロパガンダは、第一次大戦のクリール委員会、第二次大戦の戦時情報局(OWI)などが担い、戦争目的の説明と国民統合を図りました。ただし、表現の自由と治安の緊張、移民・少数者への偏見の増幅、市民的自由の制約は、両大戦に共通する陰影です。とくに日系人強制収容は、戦時司法の判断も含めて後世の是正(1988年の公式謝罪と補償)に至るまで長い時間を要しました。

戦後秩序の設計という点でも、両大戦は対照的です。第一次大戦後、合衆国は国際連盟への参加を見送り、国内回帰の傾向を強めました。第二次大戦後は、むしろ国際機構・同盟の中心に立ち、復興と安全保障に継続関与しました。この差異は、国内の政治連合、経済の国際化の度合い、イデオロギー対立(冷戦)の有無、そして参戦前からの経済・軍事支援の深さなど、複数要因の帰結です。

学習の要点と用語上の注意—年次・人物・法と出来事の対応関係

学習の際は、次の対応関係を軸に整理すると記憶効率が高まります。
①第一次大戦:1915ルシタニア、1917ジンメルマン電報・無制限潜水艦戦→4/6対独宣戦→徴兵法→AEF派遣→1918十四か条・ムーズ=アルゴンヌ→1919講和・国際連盟不参加。人物はウィルソン、パーシング。法律は徴兵法、スパイ行為法・治安維持法。
②第二次大戦:1935–37中立法→1939現金持参→1941武器貸与・大西洋憲章→12/7–8真珠湾→12/11対独伊宣戦→総動員(価格統制・配給・OWI)→1944ノルマンディー、太平洋島嶼戦→1945原爆・降伏→戦後国際秩序。人物はF・ローズヴェルト、トルーマン、マーシャル。法律・制度は平時徴兵法、大統領令9066、武器貸与法など。

用語上の注意として、①「参戦」(戦争に参加する)と「宣戦」(戦争状態を法的に宣言する)は区別します。米国史では宣戦決議と事実上の交戦(護送護衛・武器援助)がずれる例があり、経過の具体性が重要です。②「アメリカ合衆国(米国)」と「アメリカ大陸(the Americas)」を混同しないこと。③参戦の国内的影響(徴兵・財政・市民的自由)と国際的影響(同盟・国際機構・戦後秩序)を両輪で捉えること。④出来事を法・制度と結びつけ、ポスター・演説・映画など文化史の一次資料で補うと理解が立体化します。

総括すると、アメリカ合衆国の「参戦」は、単なる外的事件への反応ではなく、国内の制度と世論、経済と技術、理念と安全保障の交差点で意思決定がなされ、国家の総合能力が再編されるプロセスでした。第一次・第二次世界大戦という二つの参戦を比較することで、20世紀の合衆国がいかにして世界秩序の設計者へと変貌したのか、またその過程でどのような代償と教訓を残したのかが見えてきます。年表と地図、法制度と人物を対応づけて学ぶことが、この用語を深く理解する近道です。