「植民地帝国(19世紀)」とは、19世紀、とくにその後半にかけて、ヨーロッパの列強を中心とした国家が世界各地に築き上げた広大な植民地支配のネットワークを指す言葉です。イギリス帝国・フランス帝国・ロシア帝国・オランダ・ベルギー・ドイツ・イタリアなどが、アジア・アフリカ・オセアニア・太平洋地域にまで支配を広げ、世界地図のほとんどが何らかの列強の勢力圏に塗り分けられるようになりました。このような状態を、「帝国主義の時代」「19世紀の植民地帝国の時代」と呼びます。
19世紀の植民地帝国の特徴は、単に領土が広いだけではありません。産業革命を経た列強諸国が、工業製品の販路や原料供給地、投資先として植民地を求め、軍事力・外交力・金融力を総動員して世界に影響力を及ぼした点に大きな特徴があります。また、「文明化の使命」や社会ダーウィニズムなどの思想が、植民地支配を正当化する言説として用いられました。他方、植民地側の社会は、土地や労働の収奪、伝統的な政治秩序の変容、民族関係の再編など、深い影響を受けることになります。
19世紀前半には、まだ独立の余地を残していた地域も少なくありませんでしたが、世紀の後半になると、いわゆる「帝国主義の時代」に入り、アフリカ分割や東南アジアの植民地化、中国への半植民地的浸透などが一気に進みます。世界史で「植民地帝国(19世紀)」という用語に出会うときには、このような世界規模での支配構造を念頭に置くと理解しやすくなります。
以下では、まず19世紀植民地帝国の全体像と時代背景を整理し、ついで主要列強(イギリス・フランス・その他)の植民地帝国の姿を概観します。そのうえで、「帝国主義」とアフリカ分割・アジア進出の具体的な展開を見たあと、19世紀の植民地帝国がどのような特徴を持ち、20世紀の世界にどんな影響を残したのかを整理していきます。
19世紀の植民地帝国の全体像と時代背景
19世紀の植民地帝国を理解するには、まずその前提となる歴史の流れを押さえておく必要があります。15〜18世紀にかけての大航海時代と近世ヨーロッパでは、すでにスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランスなどがアメリカやアジアに植民地や交易拠点を築いていました。しかし、この段階での植民地は、主に海岸沿いの港湾都市や限られた地域にとどまり、内陸部の広大な地域はなお、現地の王国や帝国の支配を受けていました。
19世紀に入ると、ヨーロッパでは産業革命が進展し、イギリスを皮切りに、フランス・ベルギー・ドイツ・イタリアなども工業化の道を歩み始めます。蒸気機関を使った船舶や鉄道、電信・電話といった通信技術が発達し、列強は遠隔地への軍隊派遣や統治・貿易を以前よりはるかに効率的に行えるようになりました。また、キニーネの普及によってマラリアへの対策が進み、これまでヨーロッパ人にとって「白人の墓場」と呼ばれていた熱帯地域への進出も容易になっていきます。
経済的には、工業化した列強は安価な原料と広い市場を必要としていました。綿花・羊毛・ゴム・銅・錫などの原料を安定的に供給してくれる地域を押さえ、自国の工業製品を販売できる市場を確保することは、国際競争に勝ち残るうえで重要な課題でした。加えて、鉄道建設や鉱山開発などに投資した資本を回収するためにも、政治的に安定した支配圏を求めるようになります。
政治・軍事の面では、ナポレオン戦争後の「ウィーン体制」を経て、ヨーロッパ列強は互いに戦争を避けながら勢力均衡を保ちつつ、外に向かって競争するようになりました。「一国がどれだけ多くの植民地と海軍力を持つか」が、国力と国際的威信の指標とみなされるようになり、植民地帝国の拡大は国家の威信をかけた事業となっていきます。
思想的には、「文明化の使命(civilizing mission)」を掲げる言説や、社会ダーウィニズム(人種や国家間の競争を自然淘汰になぞらえる考え方)が広まりました。白人・キリスト教文明が「未開」や「劣った」とされる地域を支配し、教育や宗教、技術を与えることは「進歩だ」とする論理が、植民地帝国の拡大を正当化するのに利用されました。もちろん、これは支配と搾取を隠すイデオロギー的側面が強く、現実には暴力や差別が伴うことが多かったのですが、当時の支配層の意識を理解するうえでは重要な要素です。
こうした技術・経済・政治・思想の条件が重なり合うなかで、19世紀の植民地帝国は、それまでとは比較にならないほどのスピードと規模で拡大していきました。特に19世紀後半(1870年代以降)は、「帝国主義の時代」と呼ばれ、列強がアフリカやアジアの「残された」地域をめぐって激しく競争します。
主要列強の植民地帝国:イギリス・フランス・その他
19世紀の植民地帝国の中心的存在は、イギリスでした。イギリスは産業革命の先頭を走り、「世界の工場」として工業製品を世界中に輸出しました。インドは「帝国の宝石」と呼ばれ、綿花やインド綿布、茶などの供給地であると同時に巨大な市場でもありました。インド洋と地中海の要衝であるケープ植民地やスエズ運河(エジプト)を押さえたことで、インドとの連絡線を確保し、アフリカ・中東にも勢力を広げていきます。
19世紀後半には、カナダ・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカなどの白人入植地が「自治領」として高度な自治を認められる一方、インドやアフリカ・アジアの多くの地域では、総督や官僚による直接統治や保護国化が進みました。イギリス海軍は世界最強の艦隊として海上交通路を支配し、ロンドンは金融と貿易の中心として機能しました。この状態は、「パクス・ブリタニカ(イギリスの平和)」とも呼ばれますが、その「平和」が列強間の戦争を抑えていた半面、植民地社会にはしばしば暴力と抑圧を伴っていたことを忘れてはなりません。
フランスもまた、大規模な植民地帝国を築きました。19世紀前半には、北アフリカのアルジェリアを征服し、フランス本国の一部とみなすほどの植民地化を進めます。19世紀後半には、チュニジア・モロッコなど北アフリカの他地域を保護国化するとともに、西アフリカ内陸部へも進出し、セネガルやマリ、ニジェールなどを含む広大な植民地を獲得しました。アジアでは、インドシナ半島(ベトナム・カンボジア・ラオス)にフランス領インドシナを成立させ、植民地帝国の東の柱としました。
その他の列強も、19世紀後半の植民地帝国形成に参加しました。オランダは、17世紀からの伝統を引き継ぎ、インドネシア(オランダ領東インド)を中核とする植民地帝国を維持・拡大しました。ベルギーは、ベルギー王レオポルド2世の私有地としてコンゴ自由国を獲得し、天然ゴムや象牙をめぐる過酷な搾取で知られるようになります。ドイツ帝国は統一(1871年)後にアフリカや太平洋に植民地を求め、ドイツ領東アフリカ・ドイツ領西南アフリカ・南洋諸島などの支配権を手にしました。イタリアもエリトリア・リビア・ソマリランドなどで植民地獲得を試みますが、エチオピア遠征では敗北し、帝国主義競争のなかで後発の立場にとどまりました。
19世紀末には、アメリカ合衆国や日本も列強の一員として植民地獲得に参加するようになります。アメリカは米西戦争を通じてフィリピンやグアム、プエルトリコなどを獲得し、太平洋とカリブ海に勢力を広げました。日本は、明治維新後の近代化を経て、日清戦争・日露戦争を通じて台湾・朝鮮半島・南樺太などを支配下に組み込み、アジアにおける新たな植民地帝国として台頭します。
このように、19世紀の植民地帝国は、イギリス・フランスを中心としつつも、多数の列強が参入する「多極的な帝国構造」を持っていました。各国は互いに競争しながらも、ときには協定や会議を通じて勢力圏を調整し、世界を分割していきます。
帝国主義とアフリカ分割・アジア進出
19世紀後半の植民地帝国を象徴する出来事の一つが、「アフリカ分割」です。19世紀半ばまで、ヨーロッパ列強は主にアフリカ沿岸の一部を拠点としていましたが、内陸の多くは依然として現地の王国や部族が支配していました。しかし、蒸気船や鉄道、キニーネの普及により内陸への進出が可能になると、列強は一斉にアフリカの領有を主張し始めます。
1884〜1885年に開かれたベルリン会議では、アフリカ分割のルールが列強間で話し合われました。ここでは、「実効支配の原則」として、単なる宣言ではなく、実際に軍隊や行政を送り込んだ国がその地域の領有権を主張できることが確認されました。会議にはアフリカの現地勢力はほとんど参加しておらず、ヨーロッパ諸国が地図上に線を引いて大陸を分割する形となりました。その結果、アフリカのほぼ全域が、イギリス・フランス・ベルギー・ドイツ・イタリア・ポルトガル・スペインなどの植民地となり、従来の政治的・民族的境界は大きく書き換えられました。
アフリカ分割における植民地支配は、しばしば強制労働や高率の税、土地の没収などを伴いました。ベルギー王のコンゴ自由国では、天然ゴム採取のために残虐な方法で現地住民を酷使したことが国際的な批判を浴びました。イギリスやフランスの植民地でも、鉄道・港湾などインフラ整備が進む一方で、それが主に宗主国の経済利益を優先して行われたため、多くの地域で自給的な農業や伝統的産業が打撃を受けました。
アジアにおいても、19世紀は植民地帝国の拡大が進んだ時期でした。インドはすでに18世紀からイギリスの支配下に入り、1858年以降はインド帝国としてイギリス本国の直轄植民地となっていました。東南アジアでは、オランダがインドネシア支配を強化し、イギリスがビルマやマレー半島・シンガポールを押さえ、フランスがインドシナ半島に進出します。タイだけは列強の緩衝地帯として独立を保ちましたが、その外交は列強の勢力均衡をにらんだ非常に繊細なものでした。
中国では、アヘン戦争(1840年代)とアロー戦争、さらに日清戦争などを通じて、不平等条約が課され、開港と治外法権、関税自主権の喪失、租界の設置などが進みました。形式上は独立国のままでしたが、実質的には列強の勢力圏に分割され、「半植民地」ともいえる状態に置かれます。ここでも、鉄道敷設権や鉱山利権などをめぐって列強が競い合い、清朝の主権は大きく傷つけられました。
このように、「帝国主義の時代」の植民地帝国は、軍事力・外交・経済力を組み合わせて、アフリカ・アジアのほとんどを列強の支配網に組み込みました。そこでは、植民地支配に対する抵抗運動や反乱も各地で起こりますが、多くは武力で鎮圧され、民族運動や独立運動として本格化するのは、20世紀に入ってからのことです。
19世紀植民地帝国の特徴と20世紀へのつながり
19世紀の植民地帝国には、いくつかの特徴的なポイントがあります。第一に、「世界分業」の仕組みが強化されたことです。工業化を果たした宗主国は、工業製品を輸出し、植民地からは綿花・穀物・鉱物・ゴムなどの原料や商品作物を輸入するという関係が定着しました。植民地の経済は、しばしば単一の作物や資源に依存する体質を持たされ、自立的な工業化は抑え込まれる傾向にありました。
第二に、植民地支配がインフラや制度の導入を通じて進められたことです。鉄道・港湾・電信網・学校・裁判所などが整備され、行政組織や教育制度が導入されました。これらは宗主国の利益に合わせて設計されたものでしたが、同時に、植民地社会の人びとに近代的な知識や技術、法制度を経験させる側面も持っていました。後の独立運動の指導者たちの多くは、植民地時代の学校や行政機関で教育を受けた人びとでした。
第三に、民族意識やナショナリズムの芽生えを促したことです。植民地支配によって、従来ばらばらだった地域や民族が一つの行政単位としてまとめられたり、「植民地住民」という共通の経験を持たされたりするなかで、「われわれ」という自覚が芽生えました。インド国民会議やアフリカ各地の民族運動は、その代表例です。彼らはしばしば、宗主国の掲げる「自由」「平等」といった近代の価値を逆手に取り、「その原則を植民地にも適用すべきだ」と主張しました。
第四に、19世紀の植民地帝国が、20世紀の二つの世界大戦とその後の脱植民地化に大きな影響を与えたことです。世界大戦では、植民地から膨大な兵士と労働者が動員され、戦場や軍需産業を支えました。戦後、彼らが自分たちの犠牲と引き換えに何を得たのかを問い直す中で、植民地支配への不満と独立要求が一気に高まります。また、植民地時代に引かれた国境線や行政区画が、そのまま独立国家の枠組みとなったため、民族や宗教の違いを内包する国家が多く生まれ、後の内戦や対立の要因ともなりました。
このように、「植民地帝国(19世紀)」という用語の背後には、産業革命・帝国主義・世界分業・ナショナリズムといった大きな歴史テーマが密接に絡み合っています。世界史の学習の中でこの言葉に出会ったときには、「ヨーロッパ列強が世界をどのように地図の上で分け合い、そのことが現地社会の経済・政治・文化にどんな変化をもたらしたのか」という視点を合わせて持つと、19世紀の植民地帝国の姿がより立体的に見えてきます。そして、その長い影が20世紀以降の独立運動や国際政治にまで伸びていることを意識すると、この時代の重みを実感しやすくなるでしょう。

