「女性・子どもの労働」とは、歴史上とくに近代以降の産業社会において、成人男性に比べて弱い立場に置かれやすかった女性や子どもが、低賃金・長時間・危険な条件のもとで働かされてきたあり方を指して用いられる言葉です。世界史の教科書では、主に産業革命期の工場や鉱山での過酷な労働を説明する場面で登場し、「資本主義の発展」の裏側で、どのような人びとがどのような犠牲を強いられていたのかを示すキーワードとして扱われます。
しかし、女性や子どもの労働は決して特別な例外ではなく、前近代の農村社会や手工業の世界、さらには家事・家内労働の領域においても、ごく当たり前のものとして存在してきました。近代に入って特徴的なのは、工場や鉱山・都市のサービス業など「賃金労働」の場に、女性や子どもが大量に組み込まれ、その条件の苛酷さが社会問題として意識されるようになった点です。そこには、家族の生計を補うために働かざるをえない現実と、雇い主=資本家にとって「安くて言うことを聞きやすい労働力」として利用される構造が重なっていました。
やがて19世紀の半ば以降、労働運動や人道主義的な批判、国家による社会政策の台頭とともに、子どもの労働時間制限や最低就業年齢の引き上げ、女性の夜業・坑内労働の禁止など、さまざまな保護立法が整備されていきます。それでもなお、世界規模で見れば、20世紀・21世紀に入っても、女性や子どもが低賃金・不安定労働に偏って従事している現実が残り続けており、「女性・子どもの労働」は歴史上の出来事であると同時に、現在進行形の課題を示す用語でもあります。
以下では、まず産業革命以前と以後で、女性・子どもの労働がどのように位置づけられていたのかを整理し、つづいて工場・鉱山を中心とした具体的な労働実態を見ていきます。そのうえで、労働保護立法や労働運動のなかで女性と子どもがどのように扱われたのか、さらに植民地と家事労働・現代世界へとつながる広がりをたどりながら、この用語が指している歴史的現実を立体的に把握していきます。
産業革命以前の女性・子どもの労働と家族経済
産業革命以前の農村社会や手工業の世界では、「家」という単位が生産と生活の基本になっていました。家族は農地や家内工業の作業場を中心に暮らし、成人男性だけでなく、女性や子どももそれぞれの能力に応じて仕事を手伝うのが一般的でした。農作業、家畜の世話、糸つむぎや織物、行商や屋台など、生活に必要な仕事は家族総出で分担されており、「働くこと」が大人・子どもを問わず当たり前のことであったと言えます。
この時期の女性労働は、家事と生産がほとんど同じ空間で行われていたため、「家の仕事」として意識されることが多く、外からは見えにくいものでした。しかし、布や糸・衣服の生産、食品加工、細かな手作業など、家計維持にとって不可欠な作業を担っていたのは多くの場合女性でした。子どもたちも、小さいうちから水汲みや薪拾い、家畜の世話などを通じて労働に加わり、成長するにつれて徐々に大人と同じ仕事を担当するようになっていきました。
商工業都市においても、職人の工房や商家では、親方=父親のもとで妻や子どもが働く形態が一般的でした。このような家族経営の中での女性・子どもの労働は、現代的な意味での「賃金労働」というより、「家族共同経営」の一部として組み込まれていました。そのため、働いていても「労働者」として意識されにくく、賃金や労働時間という概念も曖昧でした。
こうした前近代の状況から、産業革命以後の工場制賃金労働へと移行するとき、「仕事の場が家から工場へ移る」「働き手が雇い主に賃金をもらう」という構造変化が起こります。この変化のなかで、女性や子どもの労働は、家族内の貢献としてだけでなく、「外部の資本によって組織・管理される労働力」として新たな意味を持つようになりました。
産業革命と工場・鉱山における女性・子どもの労働
18世紀後半から19世紀にかけて、イギリスをはじめとする西ヨーロッパで産業革命が進むと、紡績・織布・製鉄・石炭採掘などの分野で大規模な機械工場や鉱山が次々と生まれました。初期の工場や炭鉱では、必要な労働力を確保するために、成人男性だけでなく、多数の女性や子どもが雇われました。資本家にとって、女性と子どもは賃金を低く抑えやすく、労働条件に対する要求も通りにくい「扱いやすい」存在とみなされることが多かったからです。
工場では、子どもたちが紡績機械の下にもぐり込んで糸を結び直したり、狭いところに手を入れて掃除したりする作業を担当しました。小柄で身軽であることが「利点」とされたのです。しかし、こうした仕事は機械に巻き込まれる危険と隣り合わせであり、指や手足を失う事故も少なくありませんでした。労働時間は1日12〜14時間に及ぶことも珍しくなく、わずかな休憩を挟んで朝から晩まで働かされる子どももいました。
女性は、紡績・織布工場などで大量に雇用されました。彼女たちは、機械の操作や糸の管理、出来栄えのチェックなどを担い、工場の生産を支えましたが、その賃金は一般に男性労働者より低く抑えられていました。多くの女性にとって、工場で得られる現金収入は家計の重要な柱となりましたが、長時間労働と低賃金、工場内の騒音や粉塵、衛生状態の悪さによって健康を損なう人も多くいました。
鉱山での労働条件もまた過酷でした。石炭鉱山では、子どもたちがトンネル内で石炭を積んだトロッコを押したり引いたりし、女性が坑道内で石炭を仕分けたり運搬したりする作業に従事しました。狭く暗い坑内での重労働は、身体への負担が大きく、崩落事故やガス爆発などの危険も常に存在しました。19世紀前半のイギリスでは、坑内で働く女性や子どもの姿が調査報告書や挿絵として記録され、社会に強い衝撃を与えています。
都市化の進行にともない、家庭内工業から工場へと仕事が移っても、家事や育児の負担が女性からなくなったわけではありません。多くの女性労働者は、工場での長時間労働を終えたあとも、家に戻ってから食事の準備や洗濯・子どもの世話を担わざるをえず、「二重の労働」を強いられていました。子どもたちもまた、家族の生計を支える「稼ぎ手」として期待される一方、学校に通う時間を十分に確保できない状況に置かれていました。
このような工場・鉱山での女性・子どもの労働は、資本主義の発展と対になった現象として、当時の社会改革者や宗教家、思想家たちから批判を受けるようになりました。労働条件の改善や子どもの就労制限を求める声は、労働運動や議会での議論を通じて、徐々に具体的な立法へと結びついていきます。
労働保護立法と労働運動における女性・子ども
19世紀のヨーロッパでは、労働問題の深刻化にともない、国家が工場と労働者の関係に介入するようになります。イギリスでは1820〜40年代にかけて、工場法(Factory Acts)と呼ばれる一連の法律が制定され、まず子どもの最低就労年齢や一日の労働時間が制限されました。続いて、女性の夜間労働や鉱山坑内での女性・子どもの就労禁止など、特定の危険な労働から保護する規定が設けられます。
これらの保護立法は、一面では女性と子どもを過酷な労働から守る役割を果たしましたが、同時に「女性は身体的に弱く、保護されるべき存在である」「子どもは働くより教育を受けるべきだ」といった価値観を前提としていました。そのため、成人女性が「一人の労働者」としてではなく、「保護されるべき妻・母」として扱われがちになる側面もありました。保護と差別(保護的差別)の微妙な関係は、その後も女性労働をめぐる議論の中で繰り返し問題となります。
同じ頃、労働者自身も組合や団体を作り、賃上げや労働時間短縮を求めてストライキなどの運動を展開しました。女性労働者や少年工も、ときに自ら組合を結成し、工場主と交渉する場面があります。被雇用者としての立場は弱くても、「賃金をもらう労働者」としての共通の利害を持つことから、男性労働者と連帯するケースもあれば、逆に賃金水準や雇用競争をめぐって男性から排除されるケースもありました。
子どもの労働については、「子どもは労働力である前に、未来の市民であり、教育を受ける権利がある」という考え方がしだいに広まりました。義務教育制度の整備とともに、一定年齢以下の子どもの就労が禁止・制限され、学校に通うことが求められるようになります。これにより、工場や鉱山で働く子どもの数は徐々に減少していきましたが、家内労働や農村家族内の仕事は統計に現れにくく、実態としては子どもの労働が完全になくなったわけではありませんでした。
女性労働に関しては、20世紀に入って女性参政権運動や女性解放運動が高まり、賃金や昇進、職種の制限などをめぐる平等要求が強く打ち出されるようになります。戦争期には、男性に代わって工場や軍需産業で働く女性が大量に動員され、その経験は戦後の女性の社会進出にもつながりました。こうした過程の中で、「女性・子どもの労働」は、単なる労働問題にとどまらず、ジェンダーや世代と結びついた社会問題として認識されるようになっていきます。
植民地・家事労働・現代世界における女性・子どもの労働
女性・子どもの労働は、ヨーロッパの工場や鉱山に限らず、植民地や非ヨーロッパ地域でも重要な問題でした。植民地では、プランテーション農業や鉱山、インフラ建設などに大量の労働力が必要とされ、男性だけでなく女性・子どもも劣悪な条件で働かされることがありました。たとえば砂糖・ゴム・綿花・茶などの栽培では、女性や子どもが長時間の農作業や選別作業に従事し、その見返りとしてわずかな賃金や現物支給しか得られないことも多くありました。
また、多くの社会で、女性の仕事は家事や家族のケアとして位置づけられ、現金収入に結びつかない「無償労働」とみなされてきました。料理・掃除・洗濯・育児・高齢者や病人の世話といった仕事は、経済統計には表れにくいものの、社会の維持にとって不可欠な労働です。家政婦や住み込みメイド、子守などとして他人の家事労働に従事する女性も多くいましたが、その賃金や労働条件はしばしば不安定で、法律の保護も十分ではありませんでした。
子どもの労働についても、工場や鉱山での就労が制限される一方、家内工業や農業、露天商や物売りなど、インフォーマルな経済のなかで働く子どもたちは、20世紀を通じて各地で存在し続けました。世界的な貧困や教育制度の不備、戦争・紛争などが重なる地域では、子どもが家計を支えるために長時間働かざるをえない状況が今も続いています。
20世紀後半以降、国際連合や国際労働機関(ILO)などは、児童労働の禁止や女性の労働権保護を重要な課題として掲げ、各国に法整備と施策の強化を求めてきました。その結果、多くの国で形式的には子どもの就労が厳しく制限され、女性差別を禁止する法律も整えられるようになりました。しかし、現実には、低賃金の縫製工場や農園、都市のインフォーマル経済、家事使用人としての雇用など、法律の網が届きにくい領域で女性や子どもが厳しい条件で働いている例が少なくありません。
グローバル化のもとで、多国籍企業が賃金水準の低い国や地域に生産拠点を置くケースが増えると、そこで働く労働者の多くが若い女性や少女であることも問題視されるようになりました。長時間労働・低賃金・劣悪な安全衛生環境のもとで作られた製品が、世界市場に輸出されているという構図は、消費者と生産者のあいだの距離を意識させます。その裏側には、かつての産業革命期と同じように、「安価で柔軟な労働力」として女性・子どもの労働が利用される構造が見え隠れしています。
このように、「女性・子どもの労働」という用語の背後には、家族経済のあり方、資本主義の展開、植民地支配や貧困、ジェンダーと世代の不平等といった多くの要素が重なり合っています。産業革命期の工場や炭鉱での出来事だけでなく、農村・家事・植民地・現代のグローバル経済まで視野に入れて考えることで、この言葉が指している歴史的現実の広がりを、より具体的にイメージすることができるようになります。

