壬午軍乱(じんごぐんらん)とは、1882年(朝鮮王朝でいう壬午年)に朝鮮の首都漢城(現在のソウル)で起こった兵士たちの反乱事件です。日本式の近代軍隊を育てようとする改革と、旧来の軍隊の不満、日本への反感、宮廷内部の政治対立などが重なり合って爆発しました。反乱軍は日本公使館や日本人を襲撃し、王宮をおびやかしたため、日本と清(中国)が軍隊を送り込む事態となりました。日本史では「壬午事変」とも呼ばれ、日本と朝鮮、さらに清との関係が大きく動き出すきっかけとなった出来事として扱われます。
表向きには「給料をまともに支払わない政府への怒り」から始まった事件でしたが、その背後には、開国後の朝鮮が「伝統を守ろうとする勢力」と「日本や西洋に学んで近代化しようとする勢力」に分かれて激しく対立していた事情があります。特に、日本から軍事顧問を受け入れて新式軍隊をつくる一方で、旧式軍隊の処遇は悪化し、兵士たちの不満がふくれあがっていました。そこに、日本に近いとみなされた閔氏一族への反感、日本そのものへの反発が結びつき、暴発する形で軍乱となったのです。
壬午軍乱の結果、朝鮮政府は日本に対して賠償金の支払いと日本軍駐屯の許可を約束させられました。一方で、清は軍隊を派遣して反乱を鎮圧し、高宗の父である興宣大院君を拉致して清に連れ去るなど、朝鮮に対する影響力を強めました。つまりこの事件は、「日本と清が朝鮮半島をめぐって本格的に直接介入を始める入口」となったと言えます。のちの甲申政変や日清戦争につながる流れを理解するうえで、壬午軍乱は欠かせない節目の出来事です。
朝鮮の開国と軍制改革:壬午軍乱の背景
壬午軍乱を理解するには、まず19世紀後半の朝鮮の状況を押さえておく必要があります。朝鮮王朝(李氏朝鮮)は長く中国(清)の冊封体制のもとで、対外的には閉鎖的な「鎖国」に近い体制を維持していました。しかし19世紀後半になると、ヨーロッパ列強や日本がアジア各地に進出し、朝鮮にも開国を迫るようになります。そのなかで決定的だったのが1876年の江華島事件と、それに続く日朝修好条規(江華条約)の締結でした。
江華条約によって、朝鮮は日本に対して釜山などの港を開き、領事裁判権や関税自主権の制限といった不平等な条件を飲まされました。日本にとっては朝鮮半島への足がかりとなりましたが、朝鮮の内部では、日本との関係をどう扱うかをめぐって激しい論争が起こります。「開化派」と呼ばれる若い官僚や知識人たちは、日本や欧米に学び、軍制や教育、産業を近代化すべきだと主張しました。一方、「事大党」や保守派と呼ばれる勢力は、伝統的な儒教秩序と清との関係を重んじ、日本や西洋との急激な接近に強い警戒感を抱いていました。
この対立は、軍隊のあり方にも直結しました。朝鮮政府は、日本をモデルにした近代式軍隊を育てるため、「訓練隊」と呼ばれる新式部隊を編成し、日本人軍事教官を招いて洋式訓練を行わせました。訓練隊は最新式の武器と装備を与えられ、近代軍人として優遇された一方、従来から存在した旧式の軍隊(旧軍)は、給与の遅配や糧秣の質の低下に苦しんでいました。
朝鮮では財政難が続き、特に旧軍の兵士たちへの給料や米の支給は長期間にわたって滞りました。ようやく支給された米も質が悪く、砂や籾殻が混じった劣悪なもので、「政府や商人が中抜きしているのではないか」という疑念が高まります。自分たちは冷遇される一方で、日本式の訓練隊ばかりが優遇され、日本との結びつきの強い閔氏一族(王妃・閔妃の一族)が権力を握っているという状況は、旧軍兵士や保守派官僚・庶民の不満を大きくしていきました。
さらに、宮廷政治も緊張状態にありました。国王・高宗の父である興宣大院君は、かつて権力を握って鎖国政策と国内改革を進めた人物でしたが、のちに閔氏一族との権力争いに敗れて隠退させられていました。保守的な勢力や一部の民衆は、この大院君の復権を期待しており、閔氏一族に対する怒りが「日本に親しい閔氏」「伝統を壊す開化派」への反発と重なっていきます。こうした政治・社会・経済のさまざまな不満が積み重なった結果として、1882年の壬午軍乱が起こる土壌が形成されていたのです。
壬午軍乱の発生と漢城の混乱
1882年(壬午年)の夏、ついに旧軍兵士たちの不満が爆発します。長期間にわたって滞っていた給与が支給されることになりましたが、兵士たちに渡された米は質が悪く、砂やごみが混じったひどいものでした。これをきっかけに、兵士たちは「自分たちの生活を犠牲にして私腹を肥やしている者がいる」と考え、糧秣担当官や役人に対する怒りを募らせます。やがて抗議は暴動へと変わり、兵営を飛び出した兵士たちは、関連する官庁や高官の邸宅を襲撃するようになりました。
暴動は瞬く間に漢城の市内へと広がりました。群衆には兵士だけでなく、日頃から生活に不満を抱いていた庶民も加わり、宮廷内で権勢をふるっていた閔氏一族や改革派官僚の屋敷が次々に襲われます。この混乱のなかで、「日本と結びついた開化派」への憎しみが噴き出し、矛先は日本公使館や在留日本人にも向かいました。
当時、朝鮮には駐在日本公使館が置かれ、日本人居留民や軍事顧問も一定数滞在していました。反乱軍と民衆の一部は、日本公使館を襲撃し、建物を焼き払い、日本人に暴行を加えます。公使・花房義質らは辛うじて漢江を渡って避難しましたが、日本人の死傷者が出る事態となりました。この攻撃によって、日本国内では「朝鮮で日本人が虐殺された」との報道が広まり、朝鮮への強い反発と対抗措置を求める世論が高まります。
漢城の宮廷内部でも、状況は混乱を極めました。暴動を利用して勢力を回復しようとしたのが、かつての実力者・興宣大院君です。反乱勢力の一部は大院君を担ぎ出し、閔氏一族を排除しようとしました。大院君は、旧来の儒教的秩序を重んじ、日本や西洋の影響を抑えようとする立場でしたから、旧軍兵士や保守派にとっては頼もしい指導者に見えたのです。
しかし、このままでは朝鮮王朝の存立そのものが危うくなります。国王・高宗と王妃・閔妃は難を逃れましたが、王宮が襲撃される危険は現実味を帯びていました。朝鮮政府は鎮圧能力を欠き、事態はもはや国内だけでは収拾できない段階に達していたと言えます。ここで動いたのが、宗主権を主張する清と、被害を受けた日本でした。
清と日本の介入:鎮圧と済物浦条約
漢城の混乱の知らせを受けて、まず行動したのは清でした。朝鮮は形式上、清の冊封下にある「属国」と位置づけられていたため、清は朝鮮の内乱に介入する名目を得やすかったのです。清は軍隊を派遣し、漢城に進駐して反乱軍の鎮圧に乗り出しました。その過程で、反乱の背後にいると見なした興宣大院君を拘束し、半ば拉致するような形で中国本土(天津など)に連行します。これは、朝鮮内部の保守派にとって頼みの綱であった大院君を排除し、清が朝鮮宮廷を直接コントロールしやすくするための措置でした。
清軍の介入により、表面的には漢城の秩序は回復しましたが、その代償として朝鮮は、清への依存度を一層高めることになります。清は朝鮮に軍隊と顧問団を常駐させ、海関(税関)や軍制改革などに清人顧問を送り込むなど、事実上の保護国的な体制を強めました。その代表的人物が袁世凱で、彼は朝鮮駐在の清国高官として、朝鮮の内政に大きな影響力を持つようになります。
一方、日本政府も自国民が被害を受けたことを理由に、軍艦と兵士を派遣しました。日本は朝鮮政府に対し、今回の事件で受けた損害に対する謝罪と賠償、そして日本公使館と日本人を守るための軍隊駐屯の権利を要求します。これに応じて結ばれたのが、1882年の済物浦(さいもっぽ)条約(日朝修好条規続約)です。
済物浦条約によって、朝鮮は日本に賠償金を支払うこと、日本公使館の警備のために日本軍が一定数駐留することなどを認めました。これは、日本が朝鮮半島に軍事的拠点を持つ第一歩となります。つまり、壬午軍乱は、一方で清の軍事的・政治的介入を強めるきっかけとなりながら、他方で日本にも口実を与え、朝鮮での軍事的プレゼンスを確保させる契機となったのです。
こうして、漢城には清軍と日本軍という二つの外国勢力が存在するという、きわめて不安定な状況が生まれました。朝鮮の改革派・保守派・王室は、それぞれ清や日本に頼ろうとしながら、互いに牽制し合うという複雑な権力関係に絡め取られていきます。その緊張は、数年後の甲申政変(1884年)や日清戦争(1894〜95年)へとつながっていきました。
壬午軍乱の歴史的意義:朝鮮と東アジアの転換点
壬午軍乱の歴史的意義を考えるとき、まず重要なのは、朝鮮の近代化と対外関係のもつれが、一挙に噴き出した事件だったという点です。旧軍兵士の待遇悪化という具体的な不満から始まった反乱は、実際には「日本式軍制改革への反発」「閔氏一族と開化派への反感」「大院君復権への期待」「日本に対する敵意」といったさまざまな要素が折り重なっていました。壬午軍乱は、開国後の朝鮮社会が抱えていた矛盾を、象徴的にあらわした事件だったと言えます。
第二に、壬午軍乱は、清と日本が朝鮮半島への関与を本格化させる「入口」となりました。清は軍隊の常駐と顧問派遣によって属国支配を強め、日本は済物浦条約で軍隊駐屯権と賠償を獲得しました。その結果、朝鮮の首都には清軍と日本軍という二つの外国勢力が並び立つことになり、朝鮮の主権は大きく制約されます。この構図は、のちの日清戦争の直接的な舞台ともなりました。
第三に、日本側から見ると、壬午軍乱は「朝鮮における日本人の安全と権益を守るためには、軍事力や条約による圧力が必要だ」という発想を強める契機にもなりました。明治政府内部では、条約改正や国内の近代化に加え、朝鮮半島をめぐる対外政策が重要な課題となっており、「朝鮮を日本の影響下に置き、ロシアなど他の列強の進出を防ぐべきだ」という考え方が力を増していきます。壬午軍乱後の展開は、日本がのちに朝鮮併合へと進んでいく長い道のりの中に位置づけられます。
第四に、朝鮮内部の政治の観点から見ると、壬午軍乱は閔氏政権の不安定さを浮き彫りにしました。閔妃を中心とする閔氏一族は、日本との関係を利用して権力を強化しようとする一方で、清との関係も維持しようとする「二股」の外交を続けました。しかし、壬午軍乱により、彼らは清の軍事介入に頼らざるをえなくなり、結果的に清への従属を深めてしまいます。これに不満を抱いた急進派の開化派は、1884年に日本の支援を得て甲申政変を起こしますが、これもまた清軍の介入で失敗に終わります。こうした一連の事件の出発点として、壬午軍乱は重要です。
最後に、壬午軍乱は、近代東アジアにおける「内政問題と対外関係の不可分性」をよく示しています。一見すると国内の軍隊反乱や暴動に見える出来事が、実際には周辺大国の介入を招き、国際関係の構図を変えてしまうことがある、という典型例です。朝鮮の近代史は、この壬午軍乱から日清戦争、日露戦争、韓国併合へと連続しており、そのたびに「国内の改革と対外勢力の圧力」が複雑に絡み合いました。
壬午軍乱を学ぶことは、単に1882年の軍隊反乱という出来事を覚えるだけでなく、開国期の朝鮮社会が抱えていた矛盾、日本と清の対朝鮮政策、そしてその後の東アジア国際関係の流れを立体的に理解することにつながります。教科書では短い一行で触れられることの多い用語ですが、その背景と影響をたどると、近代東アジア史のダイナミズムがより鮮明に見えてくるでしょう。

