神聖同盟 – 世界史用語集

神聖同盟(しんせいどうめい)とは、ナポレオン戦争終結後の1815年に、ロシア皇帝アレクサンドル1世の提案でロシア・オーストリア・プロイセンの三国が結んだ政治的・思想的な同盟を指します。表向きには「キリスト教的な愛と正義にもとづき、君主どうしが兄弟として協力し、ヨーロッパの平和と秩序を守る」という崇高な理念を掲げましたが、実際にはフランス革命以来の自由主義・国民主義の広がりを押さえ込み、君主制と旧来の秩序を守るための保守反動的な協力体制として機能しました。世界史では、ウィーン体制期の「復古と反動」を象徴するキーワードとして扱われます。

神聖同盟は、条約文の文言こそキリスト教的・道徳的な美辞麗句に満ちていましたが、その背後には「革命の再発を絶対に許さない」というヨーロッパ君主たちの強い恐怖と利害がありました。フランス革命とナポレオン戦争は、王や貴族の首が実際に落ちる革命の恐ろしさと、民衆動員の破壊力を、支配層にまざまざと見せつけました。神聖同盟は、この記憶が新しいなかで、「君主どうしが互いを支え合い、革命や運動が起こった国には共同で干渉する」という政治的メッセージを、宗教的言葉で包み込んだものだったのです。

ただし、神聖同盟そのものは軍事条約ではなく、具体的な出兵や制裁の規定は含んでいませんでした。実際の軍事的枠組みや外交協調は、同じ1815年に結ばれた四国同盟(のち五国同盟)など別の条約に依拠しており、神聖同盟はむしろ「君主連帯の精神」を示す象徴的な役割を担いました。そのため、「神聖同盟」という言葉は、狭い意味では1815年の正式な条約を指しますが、広い意味ではウィーン体制下の反動的な国際秩序全体を指す言葉としても用いられます。

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成立の背景:ウィーン会議とナポレオン戦争後の秩序

神聖同盟が生まれた背景には、フランス革命とナポレオン戦争の激動を経て、「ヨーロッパの秩序をどう立て直すか」という大問題がありました。1789年のフランス革命は、絶対王政と身分制社会に対する根本的な挑戦であり、「自由・平等・友愛」といった理念を掲げて王を処刑し、共和国を樹立しました。その後、ナポレオンが台頭し、フランス革命の成果と軍事力を背にヨーロッパ各地を席巻したことで、従来の王侯たちは自らの地位と領土が根本から脅かされる経験をします。

ナポレオン戦争が終結した1814〜15年、ヨーロッパ各国はウィーン会議を開き、戦後処理と新しい国際秩序の構築を話し合いました。この会議を主導したのは、オーストリアの外相メッテルニヒをはじめとする保守的な外交家たちで、「正統主義(正統な王朝の復活)」と「勢力均衡」をキーワードに、旧王朝の復位と領土の再配分を行いました。フランスにはブルボン家が復活し、多くの国で革命前の体制がある程度復元されます。

しかし、単に国境線を引き直し、王侯を元の座に戻しただけでは、フランス革命が呼び覚ました自由主義・国民主義のうねりを消し去ることはできませんでした。各地には、憲法や議会を求める市民や知識人、民族としての独立や統一を目指す運動が芽生えており、支配層は「いつどこで第二、第三のフランス革命が起こるか分からない」という不安を抱えていました。

こうしたなかで、ロシア皇帝アレクサンドル1世は、自らの宗教的信念と政治的狙いを重ね合わせ、「キリスト教的博愛にもとづく君主の連帯」を呼びかけます。彼はもともと敬虔な性格で、戦争の惨禍を見たあと、「キリスト教の精神にもとづき、諸国民に平和と正義をもたらす役割を果たしたい」と考えるようになったとされています。その一方で、革命を防ぎ、自らの影響力をヨーロッパ全体に及ぼしたいという大国としての野心もありました。この二つが結びついて、神聖同盟構想が生まれます。

神聖同盟の内容と性格

1815年9月、ウィーン会議が終結した直後に、ロシア・オーストリア・プロイセンの三国君主は神聖同盟への加盟文書に署名しました。その条約文は非常に短く、具体的な軍事義務や制裁条項は含まれていません。その代わり、「キリスト教の教えに基づき、相互に友情と援助を約束する」「神を父とする兄弟として、ヨーロッパの平和と秩序を守る」といった抽象的かつ宗教色の濃い表現に満ちていました。

同盟の中心理念は、「君主は神から支配権を授けられた存在であり、その統治はキリスト教的価値に適うものでなければならない」「君主どうしは互いを支え合い、革命や反乱といった神意に反する動きを抑え込む責務を持つ」というものでした。ここには、「国民」や「市民」の意思よりも、「君主の連帯」や「宗教的正統性」が優先される発想が色濃く反映されています。

神聖同盟には、のちにほとんどすべてのヨーロッパの君主が形式的には加盟しましたが、オスマン帝国や教皇庁は宗教的理由などから参加していません。また、立憲制の伝統を持つイギリスは、この同盟を「抽象的で実務性に欠けるもの」と見なし、距離を取りました。イギリスは同じ年に結成された四国同盟(イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセン)には参加し、フランス封じ込めや勢力均衡の枠組みには積極的でしたが、「君主どうしの宗教的な兄弟愛」を前面に出す神聖同盟にはあまり価値を見出さなかったのです。

そのため、神聖同盟は軍事同盟としてよりも、「ウィーン体制を支える理念的掲示板」としての意味合いが強いものでした。具体的な国際会議や干渉の枠組みは、四国(のち五国)同盟と「ウィーン体制の会議外交」によって運営され、神聖同盟はそれに道徳的な正当化を与える役目を担った、と理解すると分かりやすいです。つまり、「君主が協調して革命を抑え込むのは、単なる利害のためではなく、キリスト教的秩序と正義を守るためなのだ」という形で、自らの行動を美化する機能を持っていました。

しかし、同盟を主導したメッテルニヒなどは、必ずしもアレクサンドル1世ほど宗教的に熱狂的だったわけではありません。彼にとって重要だったのは、「革命・自由主義・国民主義に対抗するための保守勢力の国際的連帯」であり、神聖同盟はその象徴的な枠組みでした。つまり、宗教的言語を借りながらも、その内実はきわめて政治的・現実的な意味を持った同盟だったのです。

ヨーロッパ政治への影響と干渉の実例

神聖同盟そのものは抽象的な文言にとどまる条約でしたが、その精神は、ウィーン体制期のヨーロッパ政治に具体的なかたちで影響を与えました。とくに19世紀前半には、スペインやイタリア、ドイツ、ポーランドなどで自由主義革命や民族運動が起こり、そのたびにオーストリアやロシアが「秩序回復」を名目に軍事干渉を行いました。これらの干渉は、厳密には四国同盟や諸国間の個別協定にもとづくものですが、「神聖同盟的な発想」に立脚していたと言えます。

たとえば、1820年にスペインで憲法制定を求める軍人たちの反乱(立憲革命)が起こり、国王フェルナンド7世が立憲王政を受け入れざるをえなくなると、ウィーン体制の保守勢力はこれを危険な前例とみなしました。1822年のヴェローナ会議で、フランスにスペインへの干渉が認められ、翌年フランス軍が侵攻して立憲政を倒し、絶対王制が復活します。このときも、「正統な王権の回復」「革命の波及を防ぐ」という神聖同盟的な論理が干渉の正当化に用いられました。

イタリアでも同様です。1820〜21年にはナポリ王国やサルデーニャ王国の一部で憲法制定を求める運動が起こり、自由主義者が政権を握りましたが、オーストリアは「秩序回復」を名目に軍を派遣し、これらの運動を鎮圧しました。メッテルニヒにとって、イタリア半島はオーストリアの影響圏として重要であり、そこに自由主義・国民主義の火種が広がることはなんとしても防ぎたい事態でした。

東欧では、ロシアが神聖同盟の名において反乱鎮圧に乗り出す場面が目立ちます。ポーランドでは、1815年にロシア皇帝を国王とする「立憲王国」としての再建がなされましたが、ロシアの実質的支配が強まるにつれて不満が高まり、1830年には蜂起(11月蜂起)が発生しました。これに対し、ロシアは大軍を投入して反乱を鎮圧し、ポーランドの自治を大幅に削減します。このような強硬姿勢は、「革命の拡大を防ぎ、神から授けられた君主の支配権を守る」という神聖同盟的な理念と結びついていました。

ただし、神聖同盟的な干渉が常にスムーズに機能したわけではありません。ギリシア独立戦争(1821〜29年)のように、キリスト教徒であるギリシア人がイスラームのオスマン帝国からの独立を求める場合、西欧世論の多くはギリシア側を支持しました。ロシアも正教徒保護を名目にオスマン帝国との戦争に動き、最終的にギリシア独立が承認されます。このケースでは、神聖同盟の「君主連帯」よりも、宗教・民族感情や大国の利害が優先されました。

また、ラテンアメリカの独立運動に対して、神聖同盟諸国は原則としてスペイン側を支援する姿勢でしたが、イギリスやアメリカは新国家の独立承認に動きました。アメリカのモンロー教書(1823年)は、欧州の干渉からアメリカ大陸を守るという宣言であり、ある意味で神聖同盟的な「旧世界の反動秩序」に対抗する新世界の立場を示したものでもありました。このように、神聖同盟の影響力には地理的・政治的な限界があったことも重要です。

衰退と歴史的意義

神聖同盟の全盛期は、ウィーン体制が比較的安定していた1810〜20年代前半でした。しかし、時代が進むにつれて、その力は徐々に衰えていきます。1830年のフランス七月革命は、ブルボン朝を倒して立憲王政のオルレアン朝を成立させ、ウィーン体制の「正統主義」に大きな揺らぎをもたらしました。同年にベルギー独立も起こり、列強はこれを最終的に承認します。こうした変化は、神聖同盟的な「全面的な復古」路線が現実の力を失いつつあることを示していました。

決定的だったのは、1848年革命の波でした。フランス二月革命を皮切りに、ドイツ・イタリア・オーストリア帝国内の各民族など、ヨーロッパの広範な地域で自由主義・民主主義・民族自決を求める運動が一斉に高まりました。神聖同盟の中心国であったオーストリア自身も革命の直撃を受け、メッテルニヒは失脚して亡命に追い込まれます。ロシアはハンガリー蜂起の鎮圧に軍事干渉するなど、なお反革命勢力として振る舞いましたが、その代償としてヨーロッパ諸国からの警戒と反発を招きました。

クリミア戦争(1853〜56年)は、神聖同盟体制の最終的な崩壊を象徴する出来事です。ロシアがオスマン帝国に圧力をかけた際、かつての同盟相手であったオーストリアやプロイセンは積極的に支援せず、逆にイギリスやフランスはオスマン帝国側についてロシアと戦いました。ロシアは敗北し、かつて神聖同盟を主導した強大な帝国は外交上孤立します。これ以降、「神聖同盟」という名で君主たちの連帯を語る意味はほとんど失われました。

それでも、神聖同盟は歴史上重要な位置を占めています。第一に、それはウィーン体制期の「保守反動の国際協調」を象徴する枠組みとして、革命の時代に対する旧体制側の応答を示しています。フランス革命がもたらした「人民主権」や「人権」の理念に対して、君主たちは「神授の王権」と「キリスト教的秩序」を持ち出して対抗しようとしました。神聖同盟は、その思想的な頂点に位置するものだったと言えます。

第二に、神聖同盟は「国際秩序を理念によって支えようとする試み」としても注目されます。条約文に具体的な軍事義務が少ないにもかかわらず、それが19世紀前半の国際会議や干渉の正当化の根拠として繰り返し引用されたことは、「国際政治においても価値観や理念が重要な役割を果たす」ことを示しています。もちろん、その価値観が保守的・抑圧的なものであったことも事実ですが、「どのような理念にもとづく国際秩序をつくるのか」という問題は、今日に至るまで続くテーマです。

第三に、神聖同盟の経験は、「反動的な抑圧だけでは、自由・民族運動を永久に押さえ込むことはできない」という教訓をも示しています。短期的には革命を鎮圧し、旧秩序を維持することに成功しても、社会の変化や市民層の成長、民族意識の高まりを根本から止めることはできませんでした。むしろ、外からの干渉による弾圧は、反体制感情やナショナリズムを刺激し、より大きな爆発を生み出すこともありました。

世界史を学ぶ際に「神聖同盟」という用語に出会ったとき、それを単なる一つの条約名としてではなく、「革命と反動」「自由と秩序」「理念と現実」という対立がぶつかり合った19世紀前半ヨーロッパの象徴として捉えると、その意味が一段とよく見えてきます。ナポレオン戦争後のヨーロッパが、どのようにして新しい秩序を模索し、その中でどんな矛盾や限界を抱えていたのかを考えるうえで、神聖同盟は欠かせない鍵概念のひとつなのです。