新バビロニア(カルデア) – 世界史用語集

新バビロニア(カルデア)とは、前7世紀後半から前6世紀半ばまでメソポタミアを支配した王国で、アッシリア帝国滅亡後にバビロニア地方を中心に成立した「最後のメソポタミア系世界帝国」です。世界史の教科書では、「新バビロニア」「カルデア王国」などと呼ばれ、創始者ナボポラッサルと、その子であるネブカドネザル2世の時代に最盛期を迎えたこと、ユダ王国を滅ぼしユダヤ人をバビロンに強制移住させた『バビロン捕囚』の出来事で特に有名です。

古代バビロニアは、すでに前18世紀のハンムラビ王の時代にも繁栄していましたが、その後はカッシート人支配やアッシリアによる支配の下に置かれ、自立的な大帝国としての地位を失っていました。こうしたなか、南バビロニアのカルデア人勢力が台頭し、アッシリアの弱体化に乗じて独立を回復したのが、新バビロニアです。彼らはアッシリアに代わってオリエントの覇者となり、エジプトやユダなど西アジア各地に遠征して支配を広げましたが、その栄光は長く続かず、前539年にはアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって滅ぼされました。

新バビロニアを学ぶときには、単に「アッシリアに代わる覇者」「バビロン捕囚を行った国」というイメージだけでなく、カルデア人とは何者だったのか、なぜバビロンが再び繁栄を取り戻したのか、そしてなぜ短期間で滅びたのか、といった点も合わせて見ていくと、オリエント世界のダイナミックな変化がより立体的に理解しやすくなります。

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カルデア人と新バビロニアの成立

「新バビロニア」と「カルデア」という二つの呼び方は、しばしば混同されがちなので、まず整理しておきます。「バビロニア」とは本来、ユーフラテス川中流〜下流の肥沃な沖積平野一帯を指す地名・地域名です。一方「カルデア人」とは、前1千年紀ごろにこの南バビロニア地方に入り込んできたセム系の遊牧・半遊牧民集団の一つで、もともとはいくつかの部族に分かれていました。

アッシリア帝国がメソポタミアの北部を拠点に拡大していった前9〜前7世紀、バビロニア地方はアッシリアの支配を受けつつも、その内部でカルデア人やアラム人といった諸勢力が割拠し、度々反乱を起こしていました。カルデア人の首長たちは、バビロン王位をめぐってアッシリアと対立したり、一時的に王位を掌握したりと、しばしば歴史の表舞台に登場します。

その中から、アッシリアの支配に対する決定的な反乱を成功させた人物が、ナボポラッサルです。彼はカルデア人の有力者としてバビロンで勢力を築き、前626年ごろにアッシリアからの実質的な独立を宣言しました。その後、イラン高原に勢力を伸ばしていたメディア王国と同盟を結び、アッシリアの中核地帯に対する共同攻撃を開始します。

前612年、ナボポラッサルとメディア王国の連合軍は、アッシリアの首都ニネヴェを陥落させました。かつて「オリエントを統一した」と称されたアッシリア帝国は、この敗北ののち急速に崩壊し、前609年ごろには完全に滅亡します。こうしてアッシリアに代わって、バビロンを首都とする新たな大国がオリエントの中心に立つことになりました。それが新バビロニア、すなわちカルデア王国です。

ナボポラッサルは、アッシリアによって繰り返し蹂躙されてきたバビロニア地方の利権と自治を回復し、自らの王統を「カルデア王朝」として確立しました。彼の時代には、まだ国内外の不安定要因が多く、王国の基礎固めに多くのエネルギーが注がれましたが、その後を継いだネブカドネザル2世のもとで、新バビロニアは真の最盛期を迎えることになります。

ネブカドネザル2世の治世と西アジア支配

新バビロニアの王として最も有名なのが、ナボポラッサルの子ネブカドネザル2世(ネブカドネザル二世、在位前605〜前562年)です。旧約聖書にも「ネブカドネツァル王」などの名で何度も登場するため、世界史だけでなく宗教史の文脈でも頻繁に言及されます。

ネブカドネザル2世は、父王と同様に軍事的才能に優れた王で、アッシリア帝国崩壊後の権力空白を埋めるべく、シリア・パレスチナ地方やエジプト方面へ積極的に遠征を行いました。とくに前605年のカルケミシュの戦いでは、アッシリア旧領を狙って進出してきたエジプト軍を打ち破り、シリア・パレスチナに対する支配権を確立します。この勝利によって、新バビロニアはユーフラテス川中流域だけでなく、レバント地方にまで勢力を広げることに成功しました。

この地域には、ユダ王国をはじめとする小王国が点在していましたが、いずれも新バビロニアに朝貢する従属国の地位に置かれました。ユダ王国がエジプトなどと結びついてバビロン支配から離脱しようとすると、ネブカドネザル2世は軍を差し向けてこれを鎮圧します。前587(586)年には、ユダの首都エルサレムを包囲・陥落させ、神殿を破壊、王族や住民の一部をバビロンへ連行しました。これがいわゆる「バビロン捕囚」です。

バビロン捕囚は、ユダヤ教およびユダヤ人の歴史において非常に大きな意味を持つ事件であり、新バビロニアの名前が世界史教科書で必ず出てくる最大の理由の一つです。捕囚民の視点から書かれた旧約聖書の記述では、ネブカドネザル2世はしばしば「傲慢な異教の王」として描かれますが、バビロン側から見れば、帝国秩序を維持するための「反乱鎮圧」としての行動でした。

軍事面だけでなく、ネブカドネザル2世は内政・建設事業にも力を注ぎました。バビロンの城壁を拡張・強化し、都城の整備を進め、壮麗な神殿や宮殿を建設したと伝えられます。青いタイルとライオンや竜の浮き彫りで知られるイシュタル門や、都市を貫く行列道の整備も、この時代の事業と考えられています。また、「空中庭園(バビロンの空中庭園)」伝説もネブカドネザル2世の時代に結びつけられることが多く、「妻のために高台に庭園を築かせた」というロマンティックな物語として語り継がれました(ただし、実在性については議論があります)。

こうした軍事的成功と都市建設によって、ネブカドネザル2世期のバビロンは、西アジアの政治・経済・宗教の中心都市として再び輝きを取り戻しました。かつてハンムラビ王の時代に栄えたバビロンが、「新バビロニア」として復活したと言ってよいでしょう。

学問・文化の発展と「カルデア人」のイメージ

新バビロニア時代のバビロンは、軍事と政治だけでなく、学問文化の面でも重要な役割を果たしました。メソポタミアは古くから占星術や天文学が発達しており、星の運行を観察し、暦を作り、天体の動きから吉凶を占う伝統が根づいていました。この時代のバビロニアの学者たちは、長年の観測記録をもとに、月や惑星の周期をかなり精確に把握していたとされます。

ギリシア世界では、のちに「カルデア人(カルダイオイ)」という言葉が、単にバビロニア地方の住民を指すだけでなく、「占星術師・天文学に長けた学者」という意味合いで使われるようになりました。これは、新バビロニア期以降、カルデア人が学問・宗教面で一定の権威を持ち、星読みや前兆解釈を行う専門家として知られていたことと関係しています。そのため、ラテン語や近代ヨーロッパ諸語でも「カルデアの知恵」といった表現が残り、「カルデア人=星占いの名人」というイメージが広く流布しました。

もちろん、こうした学問は現代科学とは異なり、宗教儀礼や呪術的実践と密接に結びついていました。王の即位や戦争の開始、神殿建設など重大な決定の前には、星や肝臓占い(家畜の内臓を観察する占い)の結果が重視されました。新バビロニアは、こうしたメソポタミア古来の知識体系を継承し、さらに洗練させていった段階に位置づけることができます。

宗教面では、都市バビロンの守護神マルドゥクを中心とする多神教世界が引き続き支配的でした。バビロン市内のエサギラ神殿やジッグラト(階段状の聖塔)は、王権と神々の結びつきを象徴する巨大宗教施設であり、祭礼の場としても重要でした。新年祭などの宗教行事では、王が神像の前で謙虚さを示し、神の意志に従う支配者であることを再確認する儀式が行われたといいます。

一方で、バビロン捕囚によって連行されたユダヤ人たちも、この都市にコミュニティを形成し、自らの伝統宗教を守りつつ生活していました。彼らは異教の大都市の中で、自分たちの神ヤハウェへの信仰と律法を再確認し、後のユダヤ教教義の整備や聖書編集のきっかけをつかんだとも言われます。新バビロニアの時代は、ユダヤ人にとって苦難の時代であると同時に、信仰の深まりと共同体意識の形成につながる重要な時期でもあったのです。

新バビロニアの滅亡とその後

ネブカドネザル2世の死後、新バビロニアは急速に安定性を失っていきます。後継の王たちは短期間で交代し、宮廷内の権力争いや祭司団との対立が深まりました。外部に対する積極的な遠征は減少し、かつての勢いを維持することができませんでした。

一方、その頃イラン高原では、アケメネス家のキュロス2世がメディア王国を倒して勢力を拡大し、新たな大帝国の建設に乗り出していました。キュロス2世は、メディアだけでなく、リュディア王国(小アジア西部)を次々と征服し、その矛先をついにメソポタミアへと向けます。かつてアッシリアを共に滅ぼしたメディアはすでにアケメネス朝の手に落ち、新バビロニアは頼れる同盟者を失っていました。

前539年、アケメネス朝ペルシア軍はユーフラテス川方面からバビロニア領内に侵入し、決戦といえるような大きな戦闘もほとんどないまま、首都バビロンを陥落させました。バビロン市内には、バビロニア王の政治に不満を持つ勢力や、ペルシア側に内通する者たちもいたとされ、城門が内側から開かれたという伝説的なエピソードも伝わっています。いずれにせよ、新バビロニアの支配はあっけないほど短期間で終焉を迎えました。

キュロス2世は、自らを「バビロンの正当な王」と称し、現地の宗教や伝統を尊重する姿勢を打ち出しました。彼はマルドゥク神殿の保護を宣言し、各地に散在する神像を元の都市へ戻す政策をとったと記録されています。また、バビロン捕囚で連行されていたユダヤ人に対しても、「故郷への帰還とエルサレム神殿再建」を許可し、ペルシア支配下での自治的共同体としての再出発を認めました。旧約聖書の「クロス王の勅令」は、この出来事を反映しています。

こうして、新バビロニアは政治主体としては消え去りましたが、バビロンの都市としての重要性や、メソポタミア文化の伝統は、アケメネス朝やその後のヘレニズム世界、さらにはローマ・イスラーム世界へと受け継がれていきます。天文学・数学・暦法・宗教儀礼など、多くの要素が後世の文明に影響を与え続けました。

新バビロニアの歴史を振り返ると、そこには「かつての栄光をもつ古い都が、一度は他国の支配に屈しながらも、再び自らの王朝を打ち立てて復活し、しかし短い栄光ののち、さらに大きな帝国に組み込まれていく」という、興亡の物語が見えてきます。その物語の中には、アッシリアの暴力的支配への反発、カルデア人の台頭、ネブカドネザル2世の建設事業、バビロン捕囚という民族の苦難、そしてキュロス2世による比較的寛容な征服といった多様なエピソードが折り重なっています。

世界史学習の場面で「新バビロニア(カルデア)」という用語に出会ったときには、年号や王の名前だけでなく、こうした興亡の流れと周辺諸民族との関係をあわせて思い描いてみると、オリエント世界の歴史がより具体的に感じられるはずです。