【エジプト文明】新王国の終焉からプトレマイオス朝の滅亡まで

【エジプト文明】新王国の終焉からプトレマイオス朝の滅亡まで 世界史
【エジプト文明】新王国の終焉からプトレマイオス朝の滅亡まで

エジプト文明は長い歴史の中で幾度も繁栄と衰退を繰り返してきましたが、中でも新王国時代の終焉からプトレマイオス朝の滅亡に至る過程は、数々の戦争や異民族の支配を経験しながらも独自の文化を維持し続けた波乱の時代でした。

新王国の衰退後、エジプトはリビア人やヌビア人、アッシリアの支配を受けながらも一時的に独立を回復しましたが、最終的にはアケメネス朝ペルシアの属州と化しました。その後、アレクサンドロス大王の征服によってギリシア文化と交わり、プトレマイオス朝が誕生しますが、ローマ帝国の影響力が増すにつれて次第にその独立性を失っていきます。

そして紀元前30年、クレオパトラ7世の死をもってエジプトはローマ帝国の支配下に入り、古代エジプトの王国としての歴史は幕を閉じました。

本記事では、新王国時代の衰退からプトレマイオス朝の終焉までを詳しく解説し、エジプト文明がどのように外敵と対峙し、最終的にローマの属州へと組み込まれていったのかを見ていきます。

新王国時代の衰退

エジプト新王国時代は、紀元前16世紀から紀元前11世紀にかけての時代であり、特に第18王朝、19王朝、20王朝にかけてエジプト文明が最盛期を迎えました。トトメス3世の遠征による領土の拡大や、アメンホテプ3世による繁栄、ラムセス2世のヒッタイトとのカデシュの戦いに代表される軍事的成功などがありましたが、次第に衰退の兆しが見え始めました。

新王国の衰退は、主に経済的な停滞、宗教的混乱、そして外敵の侵入が原因となっています。アメンホテプ4世(アクエンアテン)によるアマルナ改革が行われたことで、それまでのアメン神官団の権力が弱まり、一時的にエジプトの宗教が多神教からアテン信仰という一神教的なものへと変わりました。しかし、この急激な改革はエジプトの伝統的な宗教と対立し、彼の死後すぐに元の信仰に戻されることになります。

新王国の末期には海の民の侵入が相次ぎ、エジプトの経済基盤が大きく揺らぎました。特にラムセス3世の治世には海の民の侵入を食い止めることに成功しましたが、その後の王たちは次第に王権を維持することが難しくなり、中央集権的な国家としてのエジプトは弱体化していきました。このような混乱の中、リビア人やヌビア人の影響が強まり、エジプト内部の安定性は失われていきました。

第三中間期とリビア王朝

新王国時代の終焉とともに、エジプトは第三中間期に突入しました。この時期には第21王朝から第25王朝までの諸王朝が続き、エジプトは政治的に分裂しました。特にタニスを拠点とした第21王朝は弱体化しており、その影響下でリビア人が次第に王位に就くようになります。

第22王朝(リビア王朝)は、エジプトに定住していたリビア系のメシュウェシュ人によって支配されました。最も有名な王であるシェションク1世は、かつてのエジプトの勢力を復活させようとしましたが、長期的な安定には至りませんでした。以後もリビア系の王たちが断続的に支配を続けましたが、王国の統一は完全にはなされませんでした。

一方で、エジプト南部ではクシュ(ヌビア)の影響が強まり、やがて第25王朝(クシュ王朝)が成立します。この王朝の代表的な王であるピイやタハルカは、かつてのエジプトの栄光を取り戻そうとしましたが、やがてアッシリア帝国の脅威にさらされることになります。

アッシリアの侵攻とサイス朝の成立

エジプトにとって、アッシリア帝国の侵攻は大きな転換点となりました。アッシリア王エサルハドンはエジプトに侵攻し、一時的に支配下に置きましたが、最終的にはアッシュールバニパルの時代にメンフィスやテーベが徹底的に破壊され、第25王朝は滅亡します。

この混乱の中で、エジプト北部ではサイスを拠点としたプサメティコス1世が台頭し、新たに第26王朝(サイス朝)を樹立しました。彼はアッシリアの影響を受けつつも次第に独立を確立し、エジプト国内の統一を果たします。この時代には経済の発展が見られ、特にギリシア人との交易が活発になりました。

しかし、サイス朝の繁栄も長くは続かず、新たな外敵であるアケメネス朝ペルシアがエジプトに侵攻し、カンビュセス2世の手によってエジプトは征服され、ペルシア帝国の属州として組み込まれました。この結果、エジプトは長らく独立を失うことになります。

アケメネス朝支配とエジプトの反乱

アケメネス朝ペルシアによるエジプト支配は、紀元前525年にカンビュセス2世がエジプトを征服したことで始まりました。これによりエジプトは第27王朝としてペルシア帝国の一部となりました。ペルシア王たちは、エジプトのファラオとしての地位を名目上保持しながらも、実際には属州として統治しました。

この時代、エジプトでは度重なる反乱が発生しました。特にアミルタイオス(第28王朝)は、一時的にペルシアの支配を排除し、エジプトの独立を回復しましたが、その後の王朝(第29・第30王朝)も長期的な安定を築くことはできませんでした。最終的に、紀元前343年にアルタクセルクセス3世の遠征によってエジプトは再びペルシアの支配下に置かれました。

アレクサンドロス大王の征服とプトレマイオス朝の成立

紀元前332年、アレクサンドロス大王がエジプトへと進軍し、ペルシアの総督を追放しました。エジプトの民衆は彼を解放者として迎え、アレクサンドロスはアメン神の子としての称号を受けることになります。彼はナイル川河口付近にアレクサンドリアを建設し、この都市は後に地中海世界の文化・学問の中心地となりました。

アレクサンドロス大王の死後、その後継者争い(ディアドコイ戦争)の中で、エジプトはプトレマイオス1世(ラゴスの子)の支配下に入りました。彼はプトレマイオス朝(紀元前305年 – 紀元前30年)を創設し、エジプトを統治しました。プトレマイオス朝の王たちはギリシア系でありながら、エジプトの伝統的な宗教や文化を尊重し、ファラオとして振る舞いました。

プトレマイオス朝の繁栄とローマの介入

プトレマイオス朝は、特にプトレマイオス2世(フィラデルフォス)やプトレマイオス3世(エウエルゲテス)らの治世に最盛期を迎えました。アレクサンドリア図書館の設立をはじめ、学問や文化が大いに発展し、エジプトはヘレニズム文化の中心地となりました。

しかし、王朝が進むにつれ内紛が頻発し、王位継承をめぐる争いが続きました。加えて、ローマとの関係が次第に深まり、エジプトはローマの政治的影響下に置かれるようになります。特にクレオパトラ7世の時代には、彼女がローマのカエサルアントニウスと同盟を結ぶことで、エジプトの独立を維持しようとしましたが、最終的にはローマとの対立を避けることができませんでした。

プトレマイオス朝の終焉とローマ属州化

紀元前31年、アクティウムの海戦において、クレオパトラ7世とマルクス・アントニウスの連合軍はオクタウィアヌス(後のローマ皇帝アウグストゥス)率いるローマ軍に敗北しました。この戦いの後、クレオパトラとアントニウスは自殺し、エジプトはローマの支配下に置かれました。

紀元前30年、オクタウィアヌスはエジプトをローマ帝国の属州とし、ここにプトレマイオス朝は完全に終焉を迎えました。エジプトは以後、ローマ帝国の穀倉地帯としてその重要性を維持しつつも、独立した王国としての地位を失いました。

このように、新王国時代の衰退から始まり、アケメネス朝、アレクサンドロス大王、プトレマイオス朝を経て、最終的にローマの支配下に置かれるまでのエジプトの歴史は、多くの外敵の侵略と支配の変遷によって形成されました。エジプト文明はこの後も長く続きましたが、独立国家としての役割を果たすことはなくなり、ローマ、ビザンツ、そして後のイスラム勢力の支配を受けることとなります。

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