ヴェネツィア合併 – 世界史用語集

「ヴェネツィア合併」とは、19世紀後半のイタリア統一過程で、ヴェネト(ヴェネツィア市とその周辺地域、ヴェローナ・ヴィチェンツァ・パドヴァなどを含む)がオーストリア帝国の支配から離れ、1866年に住民投票(プレビシット)を経てイタリア王国に編入された出来事を指す名称として広く用いられます。長く独立共和国として栄えたヴェネツィアは、ナポレオン戦争とウィーン体制の時代に領有者が転変し、19世紀半ばにはハプスブルク帝国のロンバルド=ヴェネト王国の一部となっていました。これが第三次イタリア独立戦争(1866年)とプロイセン=オーストリア戦争の大局の中で帰趨が決し、フランスの仲介・外交を経てイタリアに移管され、住民の賛成投票で正式に「合併」されたのです。本項では、18世紀末からの前史、1848年革命の記憶、国際政治と戦争、住民投票の手続き、編入後の制度・社会・都市の変化まで、連続した流れとして解説します。

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前史――共和国の終幕からハプスブルク支配へ

ヴェネツィアは中世以来の海洋商業共和国として独自の政体と広域商圏を築いてきましたが、1797年、ナポレオン戦争の渦中で共和国は崩壊します。フランス軍の圧力と内外の混乱のなかで降伏を余儀なくされ、同年のカンポ・フォルミオ条約により、ヴェネツィア本土領とともに都市そのものがオーストリアへ割譲されました。これが第一次の大きな「体制転換」です。1805年にはアウステルリッツの敗戦を受けたプレスブルク条約で、今度はオーストリアがヴェネツィアをナポレオンの「イタリア王国」へ譲渡し、ヴェネトはフランス帝政圏の行政・法のもとに再編されます。ナポレオン体制の崩壊後、1815年のウィーン会議では、北イタリア再編の一環としてロンバルド=ヴェネト王国が創設され、ハプスブルク皇帝が国王を兼ねて直接支配する体制が敷かれました。以後、ヴェネトはウィーン体制下のオーストリアの重要な前線・収入源として位置づけられ、税制・検閲・治安の面で帝国標準が適用されます。

こうした外部からの編入は、都市に二重の記憶を刻みます。一つは、共和国の長い自治と合議の伝統が失われた喪失感、もう一つは、ナポレオン期・オーストリア期を通じて道路・行政・統計・土地台帳といった近代的装置が整備され、都市のハードとソフトが更新されたという経験です。港湾・造船・商業は地中海の構造変動により長期的に縮小する一方、観光・出版・工芸・演劇など文化的基盤は維持され、19世紀半ばの民族運動の舞台装置が整っていきました。

1848年革命の記憶――マニン臨時政府と挫折

「合併」への道筋を語る上で欠かせないのが、1848年革命におけるヴェネツィアの自治回復運動です。1848年3月、ヨーロッパ各地で革命が連鎖する中、ヴェネツィアでも弁護士ダニエーレ・マニンとニッコロ・トンマーゼオらが蜂起し、オーストリア当局を一時的に排除して「サン・マルコ共和国」を宣言しました。マニン臨時政府は旧共和国の伝統を想起させる象徴政治を展開すると同時に、包囲と飢餓の中で防衛を試みました。しかし、ピエモンテ軍の敗退とオーストリア軍の再起により、1849年8月に降伏を余儀なくされ、自治の試みは挫折します。この経験は、対オーストリアの自治・独立志向を世代横断で刻印し、のちの住民投票でも想起される「記憶の資本」となりました。

第三次独立戦争と大国外交――1866年の転機

1860年代、サルデーニャ王国(のちのイタリア王国)はカヴールの外交とガリバルディの行動で統一を加速させ、ロンバルディアは1859年の戦争とヴィッラフランカの和約によってすでに割譲を受けていましたが、ヴェネトはなおオーストリアに留まっていました。決定的な転機は1866年です。プロイセンとオーストリアの対立が深まり、ビスマルクはイタリアと同盟を結んで挟撃体制を整えます。こうして勃発した第三次イタリア独立戦争では、陸ではクストッツァの戦いでイタリア軍が敗れ、海ではリッサ沖海戦でイタリア艦隊が敗北しましたが、北方ドイツ戦線でプロイセンがケーニヒグレーツ(ザドワ)で大勝し、国際交渉の主導権を握りました。

講和の枠組みは、フランス皇帝ナポレオン3世の仲介で整います。オーストリアは面子を保つため、まずヴェネトをフランスに割譲し、フランスがこれをイタリアへ移転するという「迂回移譲」が採られました。これは、直接イタリアに割譲すれば戦場で敗れた相手に領土を渡す印象が強まることを避ける、19世紀的儀礼外交の配慮といえます。こうして、軍事的「勝敗」とは別に、外交の連結がヴェネトの帰属を決め、イタリアはついにヴェネツィアの獲得に道を開きました。

住民投票(プレビシット)――合併の正当化装置

領土移転の政治的正統性を裏付けるため、1866年10月にヴェネトで住民投票が実施されました。形式上は「イタリア王国への合併に賛成か、否か」を問うシンプルな問いで、投票は公開性の高い方法(投票用紙にYes/No、あるいは色や文言の異なる札を提出)で行われ、圧倒的多数が賛成を示したと公表されました。当時の投票制度は今日の基準から見れば自由・秘密の点で限界があり、オーストリア的統治からの離脱を望む空気、軍政・官憲の影響、教会や有力者の動員、政治的圧力の有無など、研究上の検討課題は残ります。それでも、国際社会への説明として「住民の意思」を掲げることが、19世紀後半の正統化の作法になっていたのは事実で、合併は法的・外交的に既成事実化されました。

投票後、ヴェネトは正式にイタリア王国へ編入され、ヴェネツィアは「海の共和国」以来の特異な政治的地位ではなく、統一国家の一州都としての道を歩み始めます。ガリバルディは海戦での敗北にもかかわらず国民的英雄の一人として記憶され、マニンの名前は通りや広場に刻まれました。都市の象徴や儀礼は、王国の国民的物語へ折り重ねられていきます。

編入後の変化――行政・経済・都市の再編

合併により、行政・司法・税制・徴兵などの制度がイタリア王国標準へと統一されました。オーストリア期の官僚や専門職の一部は任を解かれ、または新体制に組み込まれ、自治体の議会と市長制が機能しはじめます。鉄道・電信・郵便といった近代インフラの接続は、観光・出版・工芸・小売など都市経済の再活性化を促し、港湾は地中海の補助的中継地としての役割を模索しました。ムラーノのガラス工芸は新市場を得て、ヴェネツィア派の絵画・建築は観光都市としてのブランド形成に資する文化資本になりました。

とはいえ、経済構造が短期で激変したわけではありません。大西洋に重心が移った世界貿易の趨勢は変わらず、産業革命の大規模工業はポー平原やピエモンテの方が適地でした。ヴェネツィアにとって現実的な戦略は、文化・観光・出版・軽工業・造船修繕などの複合モデルで生き延びることでした。都市計画では、鉄道堤防の敷設が本土メストレとの結節を強め、運河と歩行の都市に陸上交通が接続されることで、居住と産業の配置が再編成されていきます。

社会面では、イタリア語の公用化、学校制度の標準化、徴兵を通じた国民統合が進み、教会と国家の関係も王国の法に沿って整理されました。オーストリア期の警察・検閲の影響は薄まり、市民社会の結社・新聞・劇場が活気を取り戻します。他方、税負担や軍役、中央集権的な行政への不満も生じ、地方の自尊心と国家の統合要求のバランスをめぐる問題は、以後も長く残ることになります。

国際政治の文脈――プレビシットと民族自決の前史

ヴェネツィア合併は、民族運動と大国政治が交差する19世紀欧州の典型例でした。プロイセン=オーストリア戦争の勝敗、フランスの仲介、迂回移譲という儀礼的手続き、そして住民投票という正当化装置――これらが組み合わさることで、領土の帰属が決まりました。後のアルザス=ロレーヌやバルカン半島の国境線、第一次世界大戦後の民族自決原則の萌芽を考える上でも、1866年のヴェネトのケースは重要な先例に当たります。プレビシットはその後も各地で用いられますが、誰が有権者なのか、どのように周知・投票が行われるのか、圧力や動員はどの程度介在するのかという、制度設計の厄介さを常に伴いました。

長期的影響――地域アイデンティティと都市の現在

合併から150年以上が経過した現在、ヴェネツィアはイタリア文化と観光の象徴であり続けると同時に、地域自治と国家の関係をめぐる議論の舞台でもあります。アックア・アルタ(高潮)や地盤沈下、観光の過密と居住の空洞化、クルーズ船問題といった現代的課題に取り組む上で、国家・州・市の権限配分と財政の持続可能性が再考されています。1866年の合併は、単なる過去の出来事ではなく、統治と自治、文化と経済の折り合いをつける営みの出発点として、今に続く問いを投げかけています。

総じて、「ヴェネツィア合併」と呼ばれる出来事は、戦争の軍事結果だけで説明できない、外交儀礼と住民参加、記憶と制度を絡め取った19世紀的領土編入の総合事例でした。共和国の終焉(1797)からウィーン体制(1815)、1848年の自治の夢と挫折、第三次独立戦争(1866)とプレビシット、そしてイタリア国家への統合――この長い連鎖を一つの時間軸で理解することで、都市ヴェネツィアの特異な歴史と、ヨーロッパ国際秩序の変容が立体的に見えてきます。