絹 – 世界史用語集

絹(シルク)は、カイコガの繭を解きほぐして作る天然繊維で、しなやかな手触りと光沢、丈夫さと軽さを兼ね備えた素材です。古代中国で高度な養蚕・製糸・織布の技術が確立し、衣服・礼装・貨幣代替・外交贈答・宗教美術など、幅広い用途に浸透しました。絹は長距離交易の主役としても知られ、オアシスや草原、海の航路を経てユーラシア各地へ運ばれました。中世にはイスラーム世界とビザンツ、のちにはイタリア・フランスなどヨーロッパの都市が生産地・消費地として台頭し、日本でも中近世を通じて技術が洗練され、近代には生糸が世界市場を動かしました。絹の歴史は、技術革新、税と財政、社会階層とジェンダー、宗教と美術、世界経済と国家形成の諸相が交差する物語です。本稿では、起源と技術、交易と政治、社会文化への影響、近現代の変容という観点から整理して解説します。

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起源と技術:養蚕・製糸・織りの知と技能

絹の起源は、中国内陸の黄河—長江流域に遡ると考えられています。家蚕(Bombyx mori)が野生の桑蚕から家畜化され、桑の栽培とともに養蚕の工程が整備されました。古代には繭を煮て膠質を柔らかくし、糸口を見つけて複数の繭糸を撚り合わせる「繰糸」が行われ、撚りをかけて強度を上げる「撚糸」、精練による膠質(セリシン)の除去、染色、そして平織・朱子織・綾織などの組織で布へと仕上げられました。これらの工程は、温度・湿度・水質・道具の管理と職人の熟練が核心で、微小な差が光沢や風合い、強度を左右します。

織物技術では、古くからの原始的な腰機・立機から、竪機・横機、踏み木を備えた高機へと進化し、経糸を上下に分けて杼を通す効率が飛躍しました。漢—隋唐期には紋織(唐草・宝相華など)を可能にする複雑な綜絖操作が高度化し、奈良・正倉院に残る錦・綾・羅・紗などは、その技術の豊かさを証言します。染色も、植物・鉱物由来の天然染料(藍、蘇芳、茜、黄檗、鬱金、胡粉、硫化物系媒染など)を組み合わせ、先染め・後染め、絣(かすり)や絞り、金銀箔の貼付、刺繍と併用するなど美術工芸の領域にまで発展しました。

養蚕は農家の副業として広がり、蚕種の選抜、桑園の管理、温湿管理(養蚕期の温度・換気・給桑量の調整)など、季節と労働のリズムを細やかに規定しました。卵から孵化した蚕は、数回の脱皮(眠り)を経て繭を作り、繭の段階で茹でて繰糸に回すか、交配用に成虫へ羽化させるかが選択されます。繭を茹でる時期のわずかな遅れが糸の質を損ねるため、家族・村落単位の緻密な協働が必要でした。こうした技能の蓄積は、女性・子どもを含む家内労働の分業と密接に結びつき、地域の生活文化を形づくりました。

交易と政治:シルクロードと国家財政

絹は、古代から中世にかけて長距離交易の看板商品でした。東西交易の要衝である河西回廊—タリム盆地のオアシス都市は、キャラバンと国家権力の接点であり、関税・保護・宿駅制度が整いました。匈奴や吐蕃、突厥、ウイグル、契丹、金、西夏、モンゴルなどの草原・オアシス政権は、絹の供給・通行の安全・贈答の儀礼を通じて中国王朝と結びつき、平和(互市)と戦争(略奪)が交互に訪れました。絹は税・俸給・贈与の媒体、すなわち準貨幣として流通し、軍需財政の要でもありました。

海上のルートでも、福建・広東の港から南シナ海—インド洋航路を経て、南アジア・ペルシア湾・紅海・東アフリカへ絹と絹織物が運ばれました。インドでは綿織物の強い伝統に対して、絹は宮廷・寺院・富裕層の儀礼服飾として位置づけられ、イスラーム世界を通じて金銀織や錦の美術が発展しました。サファヴィー朝やオスマン帝国では、宮廷工房(工芸ギルド)や市場の規制が品質・意匠を統制し、絨毯・タイルと並ぶ工芸文化を育てました。

ヨーロッパでは、ビザンツが東方から絹虫と桑を導入し、修道院や宮廷主導で生産を始めました。のちにイタリアのルッカ、フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、さらにフランスのリヨンが絹織物の中心地となり、ギルド組織と国王の保護政策(特権、関税、技術者の誘致)で産業を育成しました。絹業は都市財政と密接に結びつき、婚資、持参金、献金など社会の貨幣経済を潤滑にしました。布の規格・印章(シール)、検査制度は、品質保証と国際信用の基盤となり、都市のブランド価値を形成しました。

日本でも、古代の貢納絹(租庸調の調)、絹布による租税、律令制下の官営工房(織部司)などで絹が国家財政と直結しました。中世には宋・元との交易で生糸・絹織物の輸入が増え、禅寺の輸入管理や座・株仲間の流通組織が生まれます。近世の城下町では、豪商・豪農が養蚕—製糸—機業を垂直統合し、藩の財政再建に寄与しました。越後縮・西陣・駿河絹など地域ブランドは、技術革新と市場開拓の結晶でした。

社会と文化:規範・美意識・信仰と絹

絹は社会階層を映す素材でもありました。多くの社会で、絹は上層の礼服・儀礼衣装として位置づけられ、服制(誰がどの色・織り・意匠を着られるか)で身分秩序を可視化しました。中国の官服体系、イスラームのカアバのキスワ(覆い布)、ヨーロッパの宮廷礼装、僧侶の法衣や神具の装飾に至るまで、絹は権威と神聖を演出する素材でした。他方で、都市化と市場の発達により、中間層にも絹の一部が手の届くものとなり、模倣品(絹と他素材の混織)や節約技術(薄く軽い織り、裏地の工夫)が普及しました。

ジェンダーの観点からは、養蚕・製糸・機織の多くが女性労働と結びつき、家内工業—地域工業のネットワークを作りました。蚕影山・蚕の神への信仰、蚕を傷つけないための禁忌や歌、季節行事は、労働と宗教が溶け合った文化です。結婚衣装や出産祝い、葬祭における絹の使用は、人生儀礼の節目を彩り、家の財産としての布(衣箱、嫁入り道具)を通じて親族経済に位置づけられました。シルクロードの美術では、絹は仏教・マニ教・キリスト教・ゾロアスター教の図像を運び、刺繍・織りの図柄に異文化のモチーフが交差しました。

文学・絵画においても、絹は比喩と素材の両面で重要です。『源氏物語』や唐詩には衣の色・質感が感情や季節の暗喩として現れ、絹本に描かれた水墨・彩色画は素材自体が作品の性質を規定しました。絹の光沢は「気品」「清浄」「艶」と結びつけられ、同時に贅沢・虚栄の戒めとしても語られました。戒律や禁欲の文脈では、絹の着用が議論の対象となり、社会規範の争点にもなります。

近代の変容:生糸の世界市場とテクノロジー、そして今日

19世紀後半から20世紀前半にかけて、絹はグローバル市場の中核商品になりました。ヨーロッパとアメリカの需要拡大、機械製糸の普及、蒸気船・鉄道・保険・為替のインフラ整備により、生糸の大量輸送が可能になります。日本は、生糸の品質改良(座繰りから器械製糸へ)、検査制度、横浜などの輸出港整備を通じて、世界最大の生糸輸出国となりました。女工を中心とする労働力動員は、女子教育・労働運動・衛生改善の課題と結びつき、工場法や女子保護の議論を促進しました。寄生蜂・石灰病対策、桑園改良、蚕種の交配など、近代養蚕学は農学—生命科学の発展とも連動します。

同時期、化学繊維(レーヨン、のちにナイロン)が登場し、「人工絹糸」は価格・供給の安定性で絹を脅かしました。絹は高級・礼装・工芸の領域に重心を移しつつ、混紡・新加工(サテン、オーガンジー、クレープなど)で用途を拡張しました。20世紀後半には、中国・インド・タイなどアジア各地が再び生産地として存在感を高め、内需と輸出の両輪で産業を再編しました。公害・労働環境・生物多様性(桑園の単一化と天敵の関係)などの課題も顕在化し、トレーサビリティやフェアトレード、手仕事の価値の再評価が起こります。

今日の絹は、ファッションだけでなく、先端材料としても応用範囲が広がっています。フィブロイン(絹の主成分)の生体適合性・機械的強度・微細加工性を活かし、医療の縫合糸、ドラッグデリバリーの担体、人工皮膚や再生医療の足場素材、光学・センサー材料などへの展開が試みられています。遺伝子工学を応用したクモ糸様タンパク質とのハイブリッド、3Dプリント技術との融合は、伝統素材の新しい可能性を示します。観光・文化資源としては、養蚕農家の復興、機屋の見学、博物館・資料館のネットワーク化、祭礼や町並みの保全が地域経済と結びついています。

一方で、絹は気候変動の影響を受けやすい産業でもあります。高温・多雨・寒波は桑と蚕の生育に打撃を与え、病虫害のリスクを増やします。温度管理の改善、耐性品種の選抜、アグロフォレストリー的な桑園の設計、地域内での水資源循環の工夫が持続可能性の鍵です。消費者側では、長く大切に使うケア文化(洗い・仕舞い・仕立て直し)、リサイクル(古裂の再生、着物のリメイク)も、絹という素材の価値を未来につなぐ営みです。

要するに、絹は単なる高級繊維ではなく、農と工、家内と都市、祭祀と市場、地域と世界をつなぐ「社会技術」でした。養蚕—製糸—織り—流通—着用—再生というライフサイクルの中に、科学と信仰、権力と贈与、労働と美の物語が折り重なっています。古代の絹布から現代のバイオマテリアルまで、絹の歴史をたどることは、人類が自然と向き合い、知恵を積み上げ、地球を横断するネットワークを組み立ててきた軌跡を読み解くことでもあります。