サイクス・ピコ協定は、第一次世界大戦のさなかにイギリスとフランス(ロシアの同意のもと)が中東のオスマン帝国領の分割方針を秘密裏に取り決めた協定です。1916年に結ばれ、戦後にシリアやイラク、レバノン、パレスチナなどの地域をどの国がどのように管理・影響下に置くかの大まかな区割りを示しました。のちに現地の人々に知られ、アラブの独立運動の期待を裏切る「背信の象徴」として語られるようになります。一方で、後の国境線が直線だけで機械的に引かれたというイメージは単純化されすぎで、実際の境界づくりは戦後の国際会議や現地交渉、地形や交通、宗派分布など複合的な要素で修正されました。とはいえ、この協定が列強の思惑を優先し、現地社会の意思を十分に反映しなかったという点は大きく、20世紀中東政治の出発点のひとつとして理解されます。
成立の経緯と国際的背景
協定が生まれた背景には、第一次世界大戦という非常時がありました。1914年に開戦した大戦は、オスマン帝国がドイツ・オーストリア側に立って参戦したことで、中東一帯が戦場と戦略の対象になりました。イギリスはスエズ運河とインド航路、ペルシャ湾岸の石油供給を守る必要があり、フランスは歴史的にシリア・レバノンでの宗教・文化的影響力を維持したい思惑がありました。ロシアはボスポラス・ダーダネルス海峡やアルメニア方面の利害を持ち、列強は戦後の領土再編を視野に入れて互いの取り分を前もってすり合わせようとしていたのです。
交渉の中心人物は、イギリス側の外交官マーク・サイクスと、フランス側の外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコです。彼らは1915年末から1916年春にかけてロンドンやパリで協議を重ね、外務省同士の覚書という形で合意を整えました。正式な締結日は1916年5月で、当時は厳重な「秘密協定」とされました。ロシア帝国のサゾノフ外相が同意したことで、三国間の了解事項として扱われます。イタリアも1917年に一部の利権について追認を受けましたが、主軸は英仏露の合意でした。
この協定が特に問題を生んだのは、同じ時期にイギリスが別の約束を複線的に走らせていたからです。ひとつは1915~16年のフサイン=マクマホン書簡で、英当局者マクマホンがメッカ太守フサインに対し、オスマン帝国に反乱を起こせば広い範囲のアラブ独立を支持するという含みを持たせました。もうひとつは1917年のバルフォア宣言で、パレスチナに「ユダヤ人の民族的郷土」を設ける支持を英国外相が表明したことです。つまり、同じ中東の将来について、イギリスはアラブ側、シオニズム運動側、そしてフランス側にそれぞれ異なる期待を抱かせていたので、後に不信と混乱の種となりました。
協定の内容と区割りの骨格
サイクス・ピコ協定の骨格は、中東のオスマン領を「直接管理すべき区域」と「影響下に置く区域」、それに「国際管理を想定する区域」に分けるものでした。地図上では色分けで示され、フランスに青とA区域、イギリスに赤とB区域、そしてパレスチナの核心部に国際管理が想定されました。青色で示されたのは地中海沿岸のシリア・レバノンの一帯で、ここはフランスの直接統治または優越的支配を想定しました。A区域は内陸シリアやモスル方面の一部で、フランスの優越的影響下に置くとされました。
イギリス側は、紅色の区域としてイラク南部(バスラからバグダード方面)を直接支配の候補にし、B区域としてヨルダン川以東やアラビア北部の帯状地域を影響圏に入れました。また、イギリスはインド航路の安全と石油利権の観点から、ハイファやアッコ(アッカ)の港湾利用を確保することにも関心を示しました。エルサレムを中心とするパレスチナの核心部は、宗教的利害が国際的に錯綜するため、列強の共同管理ないし国際管理が適当と想定されました。
ただし、この青・赤・A・Bという色分けは戦後の国境線をそのまま確定したものではありません。あくまで大戦が終わった際の「取り分」を示す原案であり、具体的な境界はその後の軍事情勢、反乱や占領の推移、現地行政の立ち上げ、列強間の追加交渉によってずれました。1917年のロシア革命で新政府が秘密文書を暴露すると、英紙が再掲し、協定の存在は世界に知られます。これによってアラブ側は裏切られたとの認識を強め、英仏の戦後処理に対する不信が高まりました。
戦後の処理では、1919年のパリ講和会議、1920年のサン・レモ会議が重要です。国際連盟の委任統治制度のもと、フランスはシリアとレバノンの委任統治を、イギリスはイラクとパレスチナ(のちにトランスヨルダンを分離)を受け持つことになりました。これはサイクス・ピコ協定の大まかな方向性を制度化したもので、現地の民族運動や国際世論とのせめぎ合いの中で国境線が詰められていきます。例えば、イラク北部のモスル州は石油と民族構成を巡ってトルコと争われましたが、1926年に国際連盟の仲裁でイラクに帰属することが確認されました。シリア側ではフランスが行政区を細分化し、レバノン山地を核にした大レバノン国を設けるなど、宗派と地理を織り込む形で「統治しやすい区割り」へ調整が試みられました。
交錯する約束:アラブ独立、シオニズム、英仏の利害
協定の評価を理解するには、当時の複数の「約束」がどのように交錯し、互いに矛盾を生んだかを見る必要があります。フサイン=マクマホン書簡は、アラブの反乱を促すために広範な独立支持を示したとアラブ側は解釈しましたが、イギリス政府は後年、シリア・レバノンの沿岸部やパレスチナは除外だったと限定解釈を行いました。これはフランスに譲る意図や、宗教的に敏感な地域を国際管理にしたいという計算が背景にあります。
一方、シオニズム運動への支持を示したバルフォア宣言は、ユダヤ人の「民族的郷土」の設置を支持する代わりに、既存住民の市民的・宗教的権利は害されないと併記する形をとりました。しかし、これも曖昧な文言が多く、移民・土地買収・自治の範囲を巡って激しい政治対立を生みました。パレスチナはサイクス・ピコ協定で国際管理が想定されたため、誰が最終的な主権を持つのかが不明確なまま移民の波と民族運動が並走し、英当局の「白書」や委員会報告が対処療法的に政策を揺らすことになりました。
英仏の利害も固定的ではありません。戦争の進展とともに、イギリス軍はメソポタミアやエルサレムを占領し、フランスはシリア方面に足場を固めるなど、実効支配の地図が動きました。1918年のダマスカス入城をめぐっては、アラブ反乱軍と英仏軍の功績の配分、戦後の行政権の所在が争点となり、結果としてフランスはシリア委任統治を確保し、イギリスはイラクとパレスチナ委任統治を手にしました。アラブ側から見れば、戦時中に期待された大アラブ国家の構想は切り縮められ、王族はイラクやトランスヨルダンなど分割された王国の君主として遇される形に収まりました。
このように、サイクス・ピコ協定は単に「定規で引いた線」というより、複数の約束と戦後秩序の論理がねじれて交錯した結果として理解するほうが実態に近いです。直線的な国境が多いのは事実ですが、そこには砂漠の部族移動、オアシスや水資源、鉄道や道路のルート、港湾の価値など、具体的な地理と経済の事情が密かに反映されています。
影響と長期的帰結:国境、民族運動、記憶の政治
協定の長期的影響として第一に挙げられるのは、国境と国家形成の方向づけです。委任統治から独立に至る過程で、イラク、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル/パレスチナといった枠組みが整えられ、行政制度や軍、教育などの国家装置が列強の支援・管理のもとで構築されました。国境線はその後も幾度かの戦争や条約で修正されましたが、サイクス・ピコ協定が示した地域ごとの「管轄の割り当て」は、どの宗派・民族がどの国家に組み込まれたかという初期条件を設定しました。クルド人の分断や、レバノンの宗派バランス、シリアの地方構造などは、その後の政治力学と相まって長く影響を与えています。
第二に、協定は「裏切りの記憶」を生みました。ボルシェビキ政権が1917年にロシアの秘密外交文書を暴露し、英紙『マンチェスター・ガーディアン』などが掲載したことで、アラブ側の失望は現実のものとなりました。この記憶は20世紀を通じて反帝国主義・民族主義の言説に組み込まれ、外からの分割統治という枠組みを疑う視点を強めました。21世紀に入っても、過激派がサイクス・ピコ体制の打破を宣伝文句に使ったり、国境を越える運動がこの象徴を持ち出したりする場面が見られます。
第三に、国際法と多国間主義のあり方への教訓です。秘密協定は第一次大戦後の国際世論から強く批判され、国際連盟・国際連合の時代には、領土変更に関する透明性や民族自決の原則が前面化しました。ただし、理想と現実のギャップは埋まりきらず、委任統治の運営には列強の利害が色濃く残りました。民族自決が複数のコミュニティに同時に主張されたとき、どのように調停するかは未解決のまま残され、今日の紛争にも通じる難題を提示しています。
最後に留意したいのは、サイクス・ピコ協定を万能の原因としてしまう見方への距離感です。確かに協定は出発点として大きな意味を持ちますが、その後の歴史は地域の人々の政治的選択、経済・社会の変動、周辺大国や超大国の介入、イデオロギーや宗派のダイナミクスといった多層の要因が絡み合って展開しました。協定を手がかりにしながらも、その後の100年の歴史の厚みを丁寧にたどることで、現在の中東をより立体的に理解できるのです。

