「サラエヴォ事件」は、1914年6月28日、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの都市サラエヴォで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公と妻ゾフィーが、セルビア系青年ガヴリロ・プリンツィプに銃撃されて死亡した暗殺事件を指します。この出来事は、列強の同盟関係と外交上の緊張が高まっていたヨーロッパに衝撃を与え、いわゆる「七月危機」を通じて第一次世界大戦の勃発へと連鎖しました。単独の事件がすべてを決めたわけではありませんが、複数の要因が積み重なった不安定な状況で、引き金(トリガー)として作用したのがサラエヴォ事件でした。何が起き、なぜ防げず、どうして大戦に発展したのかを理解することが、当時の国際関係や民族問題を読み解く鍵になります。
背景には、ボスニア併合をめぐる諸民族の利害対立、オーストリア=ハンガリーとセルビアの覇権争い、列強の同盟網、軍拡と動員計画の自動化などがありました。事件当日は護衛や動線の不備、偶然の行き違いが重なり、暗殺は成功してしまいました。その後、ウィーン政府はセルビアに厳しい最後通牒を突きつけ、ロシア・ドイツ・フランス・イギリスが連鎖的に動員・宣戦へ進みます。以下では、事件の舞台設定、当日の経過、外交危機の展開、責任をめぐる論争、記憶と表象を順に解説します。
舞台設定――ボスニア併合、民族運動、列強の緊張
サラエヴォ事件を理解するには、19世紀末から20世紀初頭にかけてのバルカン情勢を押さえる必要があります。オーストリア=ハンガリー(以下オーストリア)は、1908年にボスニア・ヘルツェゴヴィナを正式に併合しました。これは、同地の主権名目を保持していたオスマン帝国の弱体化と、帝国内のスラヴ系諸民族の不満抑制を狙った政策でした。しかし、同地域にはセルビア人、クロアチア人、ムスリムなど多様な住民が混住し、セルビア王国は南スラヴ人の統合(大セルビア主義・汎スラヴ主義)の視点から併合に強く反発しました。ボスニア併合は、ロシアとオーストリアの間にくさびを打ち、バルカン諸国の勢力均衡を揺るがしました。
1912年と1913年のバルカン戦争で、オスマン帝国の欧州領は大きく縮小し、セルビアは領土を拡大して自信を深めました。オーストリアはセルビアの台頭を脅威とみなし、アドリア海への進出を阻むためにアルバニアの独立を支持するなど、対抗策を講じました。こうした緊張の中、青年層を中心に、秘密結社や地下組織が活動し、「黒手組」などの民族主義的ネットワークが広がります。サラエヴォ事件の実行犯の一部は、ボスニアのセルビア人学生や青年で構成され、セルビア側の一部組織や個人から武器・訓練・越境支援を受けたとされますが、国家の関与の程度をどう評価するかは研究上の争点です。
一方、オーストリア宮廷では、帝国の多民族統合と軍制改革をめぐって議論が続き、皇位継承者フランツ・フェルディナント大公は軍の近代化や連邦化構想に関心を示していました。大公は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の甥で、政治的には強硬とも調停的とも評され、立場によって評価が分かれました。1914年6月末、オーストリア軍の演習視察を名目に、彼はボスニアの州都サラエヴォを訪れることになります。これは、併合地の統合をアピールする象徴的行事であり、反発勢力には挑発と映りました。
当日の経過――失策と偶然が重なった暗殺
1914年6月28日、日曜日。大公夫妻は鉄道でサラエヴォに到着し、市内行進と州庁訪問、軍視察などの予定が組まれていました。暗殺グループは複数地点に分散し、手榴弾(爆弾)と拳銃で待ち構えました。最初の襲撃は、市内のラティンスキー橋付近で起こります。待ち伏せたネデルコ・チャブリノヴィッチが爆弾を投げましたが、車の幌に弾かれて後続車の下で爆発し、多数の負傷者を出したものの大公夫妻は無事でした。犯人は服毒して川へ飛び込みましたが、毒が不発で逮捕されます。
この時点で警備計画の変更が必要でしたが、州当局と随員の連絡は錯綜し、大公は負傷者の見舞いで病院へ向かうことを決めます。ところが、運転手は旧計画のルートへ誤って進入し、州庁前で進路を変更しようと減速・停止しました。そこに、別の実行犯ガヴリロ・プリンツィプが偶然居合わせます。至近距離から彼は二発を発砲し、一発が大公の頸部、もう一発がゾフィーの腹部に命中しました。応急処置の甲斐なく、両名は間もなく死亡しました。事件は数分間の混乱のうちに決着し、現場の判断ミス、護衛の不備、予定変更の混線、そして偶然が致命的に重なった形でした。
暗殺犯らは現地で逮捕され、共犯関係の捜査が進められました。主犯格の多くは若年で、オーストリア法では未成年に死刑が適用できず、長期刑が言い渡されました。組織的背景については、ボスニア=セルビア人青年の秘密結社「青年ボスニア」と、セルビアの軍情報部の一部が関与したとの説が提示されますが、国家としてのセルビア政府がどこまで関知していたのか、直接命令があったのかは、資料の解釈で意見が分かれます。
七月危機――最後通牒から総力戦へ
暗殺からしばらく、ウィーンでは対応の協議が続きました。オーストリアは事件をセルビアの反体制ネットワークの所産と位置づけ、セルビアを懲罰する軍事行動の機会と捉えます。ドイツ帝国は同盟国としてオーストリアに無条件支持(いわゆる「白紙小切手」)を与え、強硬姿勢を後押ししました。7月23日、オーストリアはセルビアに厳格な最後通牒を突きつけ、治安機関へのオーストリア官吏の参加など、主権に踏み込む要求を含めました。
セルビア政府は多くの項目を受諾しつつ、主権侵害に当たる部分には留保を付ける回答を示しました。オーストリアはこれを不満として7月28日に宣戦布告し、局地戦の様相を呈します。これに対し、スラヴ保護を掲げるロシア帝国はセルビア支援のために動員を開始。ドイツはロシアに対して動員停止を要求し、拒否されると8月1日にロシアへ、続いてフランスへ宣戦します。ドイツ軍はシュリーフェン計画に従ってベルギー領を通過しようとし、ベルギーの中立侵害はイギリスの参戦(8月4日)を招きました。こうして、サラエヴォの暗殺は、連鎖的な動員・宣戦のスイッチとして働き、局地危機は欧州全域の総力戦に転化しました。
ここで重要なのは、宣戦の順番や同盟条約だけでなく、各国が持っていた動員計画と鉄道時刻表の「自動性」です。動員は政治判断の猶予を狭め、相手より先に動かねば不利になるという恐怖が、妥協の余地を削りました。サラエヴォ事件は、こうした構造的緊張の中に落ちた火種であり、唯一の原因ではないにせよ、危機の加速装置として機能しました。
責任をめぐる論争――誰が「大戦」を引き起こしたのか
第一次世界大戦後、戦争責任をめぐる論争が各国で繰り広げられました。ヴェルサイユ条約はドイツに重い責任を負わせましたが、歴史学では多因的な理解が主流です。サラエヴォ事件そのものの責任については、実行犯・支援者・セルビア国内の秘密結社と軍情報部の関与、オーストリア政府の危機利用、ドイツの支持、ロシア・フランス・イギリスの動員と同盟の連鎖など、複数の層で議論されます。
一つの論点は、オーストリアが事件を「セルビアを叩く好機」とみなして意図的に強硬化したという見方です。別の論点は、セルビア側の一部機関が暗殺計画を黙認・支援した可能性で、国家犯罪に近い責任を問う立場です。さらに、構造的要因――軍拡競争、帝国主義的競争、同盟網の硬直性、国内政治の圧力――を重視し、「誰か一国のせい」とは言い切れないとする見解も強いです。結論として、サラエヴォ事件は「必要条件」でも「十分条件」でもなく、複数の要因がすでに臨界に達していたところに起きた「触媒」だったと捉えるのが妥当です。
法的側面では、オーストリアの最後通牒が国際法上の主権侵害を含んでいたこと、セルビアの回答が全面拒否ではなかったこと、ベルギー中立侵害が戦線の拡大を決定づけたことなどが、後世の評価を左右します。暗殺犯個人の刑事責任と、国家間の戦争責任は次元が異なり、その混同が政治的利用を招く危険がある点も指摘されます。
現場・記憶・表象――サラエヴォという都市の歴史層
サラエヴォは、オスマン帝国の都市計画とハプスブルクの近代化が重なる多層的な都市でした。事件現場近くのラティンスキー橋や州庁舎(現在の市庁舎ヴィイェチニツァ)周辺には、オリエント風の建築と中央ヨーロッパ風の街区が混在し、文化の接点が可視化されていました。事件後、現場には記念碑やプレートが設置され、時代と政権の変化に応じて解釈が塗り替えられていきます。ユーゴスラヴィア時代には、プリンツィプは「民族解放の英雄」として顕彰され、一方で国際的には「テロリズム」の象徴として語られることもありました。
文学や映画、歴史叙述では、偶然性と必然性、個人の決断と構造の圧力のせめぎ合いが主題化されます。運転手の誤進入、護衛の判断、州当局の混乱、大公のスケジュール、暗殺者の位置取り――些細な分岐の積み重ねが、巨大な歴史の転回につながったという物語は、人々の想像力を刺激します。ただし、偶然だけで全てを説明することはできず、背後の緊張構造を押さえることが重要です。
物質文化の面では、当日の自動車、拳銃、弾丸、衣服、現場写真、新聞号外などが博物館に収蔵され、事件の具体性を伝えます。法廷記録や供述調書、外交電報、動員命令と鉄道時刻表は、危機の進行を分単位で追跡する一次史料として価値があります。研究は、個人史と外交史、軍事史、都市史、記憶文化研究を横断し、サラエヴォ事件が持つ多層性を掘り下げています。
よくある誤解の整理――単純化を避けるために
第一に、「サラエヴォ事件=第一次世界大戦の原因」という断定は不正確です。事件は引き金であり、原因は複合的でした。第二に、暗殺犯をすべて「国家の工作員」とみなすのも単純化です。実行グループには在地の学生・青年が含まれ、セルビアの国家機関との関係は一枚岩ではありません。第三に、フランツ・フェルディナントが「反戦派」だったから事件が大戦を招いたという推測も慎重さが必要です。彼は軍制改革や連邦化を志向しつつ、対セルビアで強硬な面も指摘され、仮定法で歴史を推し量ることには限界があります。
また、護衛の失策だけが原因とする見方も偏っています。警備の不備や偶然はたしかに決定的でしたが、それらを致命的にしたのは、都市空間の把握不足、情報伝達の混乱、儀礼と安全の優先順位の逆転、そして背後の政治的緊張でした。単発のミスと構造的リスクが重なった点に、事件の教訓が見出されます。
事件後の処理と長期的影響
事件直後、ウィーン政府はボスニアでの治安強化と捜査を進め、セルビア国内の反オーストリア活動の抑止を国際社会に訴えました。セルビア政府は関与の否定と一部捜査への協力意志を示しつつ、主権侵害に繋がる要求には反発しました。七月危機の過程で、各国外交官は最後の妥協を模索しましたが、動員の圧力と時間制約が合意形成を阻みました。戦争が始まると、事件の処理は大きな戦争の渦に呑み込まれ、暗殺犯の刑執行や収監も、戦時体制の影響を受けました。
長期的には、サラエヴォ事件は民族自決、帝国の統合、テロリズムと国家の対応、といった20世紀を通じて続く問題系に組み込まれていきます。バルカン地域では、第一次世界大戦、ユーゴスラヴィアの成立と解体、1990年代の紛争に至るまで、記憶の解釈が政治と密接に絡みました。事件の記憶が英雄視と非難の間を振り子のように揺れることは、歴史の語りが現在の政治と切り離せないことを示しています。
このように、サラエヴォ事件は、一人の青年の発砲から帝国の崩壊、世界戦争へと繋がる連鎖の起点として語られますが、その連鎖は偶然と構造、個人と国家、都市空間と大陸規模の軍事計画が交差する場所に成立していました。出来事の具体的経過と背後の制度・計画・記憶を併せて見ることで、事件の全体像に近づくことができます。

