サラザール – 世界史用語集

「サラザール」とは、20世紀のポルトガルで長期独裁体制を築いた政治家アントニオ・デ・オリヴェイラ・サラザール(António de Oliveira Salazar)を指します。彼は1932年に首相となり、1968年まで実権を握りました。サラザールは財政均衡と秩序を至上価値とし、「エスタド・ノヴォ(新国家)」と呼ばれる権威主義体制を組み上げました。議会と政党の自由は大幅に制限され、秘密警察と検閲が社会を覆いましたが、同時に彼は財政赤字の抑制や通貨の安定化、インフラ整備を進め、「貧しくとも安定した国家」を標榜しました。第二次世界大戦では形式上の中立を維持し、冷戦期には反共を掲げて西側と連携しつつ、アフリカ植民地の保持に固執して長期の植民地戦争を招きました。人物像としては、清貧・禁欲・カトリック的道徳を体現する学者=政治家という側面と、反対派を抑圧し社会を硬直化させた独裁者という側面が併存します。以下では、時代背景、生涯と権力掌握、体制の仕組みと政策、外交・戦争、思想統制と社会の変容、体制の終焉と評価についてわかりやすく述べます。

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時代背景と生涯の概観

サラザールは1899年、ポルトガル中部のギマランエス近郊に生まれ、コインブラ大学で法学・経済学を学びました。学究肌で、教壇では財政学を教え、倹約と均衡財政を説きました。1910年の共和革命後、ポルトガルは政党内閣の頻繁な交代や軍人のクーデター、財政赤字の慢性化に悩まされ、第一次世界大戦後も不安定が続きました。こうした混乱を背景に、1926年の軍事クーデターで共和政は事実上終わり、軍政は「秩序を回復できる民間の頭脳」を求めてサラザールを財務相に招きました。

サラザールは財務相として支出の一元管理、歳出の大幅削減、税収の増強、為替の安定化を敢行し、数年で収支均衡を達成しました。この成功は彼に強い政治的信用を与え、彼は1932年に首相に就任します。1933年、彼の設計に基づく新憲法が成立し、コーポラティズム(職能団体主義)に基づく国家構造が法的に整えられました。これが「エスタド・ノヴォ」と呼ばれる長期体制の起点です。

個人の生活は質素で、権力者としては珍しく私財の蓄積に関心を示さなかったと伝えられますが、政治的には妥協が少なく、反対派には冷酷でした。1968年、脳出血で執務が不可能となり、後継のカエタノが政権を継ぎます。サラザールは1970年に死去しましたが、体制自体は1974年の「カーネーション革命」で崩壊するまで続きました。

エスタド・ノヴォの仕組み――コーポラティズム、秩序、そして抑圧

エスタド・ノヴォの根幹は、「個人の自由より共同体の調和」「多数決より秩序と道徳」「自由放任より統制」という思想でした。サラザールは、政党政治を「利害の分断を煽る」として退け、単一政党に近い枠組み(国民連合)を通じて政治参加を限定しました。議会は存続しましたが、選挙は管理され、実質的な権限は政府と国家元首に集中しました。司法も政治案件では政府の意向が強く働きました。

経済面では、自由市場と国家統制の折衷が採られました。鉄道・道路・港湾・ダムの整備が進み、農村の近代化を唱える一方、労働運動の自由は大幅に制限され、ストライキは厳しく抑えられました。労使関係は職能団体(コーポラシオン)に包摂され、賃金・労働条件は国家が仲裁する仕組みでした。これにより社会的対立は表向き抑えられたものの、賃金停滞と技術革新の遅れ、資本の集中が生じ、長期的な生産性の改善は鈍いままでした。

財政では、サラザールの持論である均衡主義が徹底され、国家債務の膨張が抑制されました。インフレを嫌い、通貨エスクードの安定が重視されました。短期的には金融の信認を高めましたが、積極財政による産業育成は限定的で、教育や保健への投資は欧州諸国に比べて低水準にとどまりました。結果として、国内総生産の伸びは一定の改善を見せたものの、欧州の先進国との差は縮まらず、ポルトガルは西欧で最も貧しい国の一つに位置づけられ続けました。

社会統制の面では、検閲、集会・結社の制限、反体制派の拘束が常態化しました。秘密警察PIDE(後にDGS)は、共産党や社会主義者、学生運動、労働運動、反植民地運動を監視し、拷問や長期拘束が報告されました。報道は国家の方針に沿うよう管理され、学校教育ではカトリック的道徳と家族、勤勉、服従が称揚されました。これらは治安と秩序を維持した半面、文化と学術の自由を狭め、若年層の反発を累積させました。

外交と戦争――中立、反共、そして植民地の執着

サラザール外交は、基本的に慎重で現実主義的でした。第二次世界大戦では、英国との古い同盟関係を維持しつつ公式には中立を宣言し、アゾレス諸島の基地提供など限定的協力を行いました。戦時中、ポルトガルはタングステン(ウォルフラム)の輸出で経済的利益を得ましたが、連合国と枢軸国の双方から圧力を受け、巧みなバランスの維持が求められました。

冷戦に入ると、サラザールは反共を掲げて西側陣営に寄り、NATOの創設メンバーとなりました。この選択は安全保障と経済援助の面で一定の利益をもたらしましたが、同時に体制の権威主義的性格に西側内部からも批判が向けられました。最も重大な問題は、アフリカ植民地の保持に固執したことです。アンゴラ、モザンビーク、ギニア(ビサウ)などで1960年代から武装独立運動が広がると、ポルトガルは長期の植民地戦争に踏み込みました。

植民地戦争は、兵力の多くを徴兵で賄い、若年層を長期に前線へ送り出しました。戦費は財政に重くのしかかり、国際的孤立も深まりました。サラザールは「一国多大陸(Pluricontinental)」という理念を掲げ、植民地を本国と同等の不可分の領土と位置づけましたが、現実には政治的代表や経済的機会は大きく不均衡で、住民の不満は解消されませんでした。国連や新独立国からの批判は強まり、西欧でも植民地主義の存続は道義的に擁護困難となっていきました。

社会と文化――教育、宗教、都市化、移民

サラザール体制は、伝統的家族観とカトリック道徳を社会の芯に据えました。婚姻・家族法は保守的で、男女の役割分担が強調されました。教育は初等教育の普及こそ進んだものの、高等教育や研究開発への投資は限定的で、識字率の改善は遅々としたものでした。これは長期的な産業競争力にマイナスの影響を与え、若い才能の国外流出(ブラジル、フランス、ドイツ、ルクセンブルクなどへの移民)を促しました。

1950年代以降、観光と軽工業、海外移民からの送金が成長を支え、都市化が進展しました。しかし、農村の貧困と地域格差は根強く、社会政策は限定的でした。検閲は映画や文学に影を落としつつも、逆説的に比喩や象徴に富む表現が育つ温床にもなりました。フォークロアの保護や国民文化の演出は、ナショナル・アイデンティティの一体感を与えましたが、多様性と批判精神の抑制にもつながりました。

終焉と評価――カエタノ期、カーネーション革命、遺産の光と影

1968年にサラザールが倒れると、後継のマルセロ・カエタノは限定的な自由化を試みましたが、植民地戦争の継続と社会矛盾の深刻化は解決できませんでした。経済は外的ショックに脆弱で、若年層と軍の不満が積み上がりました。1974年4月25日、陸軍将校の「陸軍運動(MFA)」が起こした無血クーデター、いわゆる「カーネーション革命」で体制は崩壊し、民主化と非植民地化が一気に進みました。

サラザールの評価は、現在も割れています。支持的な見方は、財政規律の確立、通貨の安定、治安の維持、第二次大戦期の中立の巧妙さ、腐敗の少ない個人的清廉さを挙げます。批判的な見方は、政治的自由の剥奪、拷問と検閲、教育や保健への低投資による社会の停滞、植民地戦争の長期化と人的コスト、女性と労働者の権利制限を指摘します。総じて、サラザールは「壊れた国家財政を律したが、社会の活力と自由を犠牲にした」統治者として理解されます。

人物像の複層性も重要です。教室から政権中枢へ上がった学者官僚、清貧を装いつつ権力を手放さない執念、宗教的倫理と国家理性の折衷、田園的保守を国家の理念に昇華させた想像力――これらは、20世紀のヨーロッパに現れた様々な権威主義の系譜のなかで、ポルトガル固有の「穏健さ」と「粘着性」を備えたタイプとして位置づけられます。暴力の規模やイデオロギーの過激さでは他の全体主義に及ばないものの、「長期にわたり社会を鈍く締め付ける」統治の典型として参照されます。

最後に、サラザールの時代を振り返るとき、数字の安定と人間の自由、秩序の安心と創造性の躍動という、しばしば対立する価値の調整が問われます。彼の名が象徴するのは、短期の財政均衡と長期の社会的ダイナミズムのトレードオフ、そして国家が「保護」と称して個人の自律をどこまで削るのかという普遍的問題です。ポルトガルは民主化後、教育・保健・権利の拡充に舵を切り、EU加盟を通じて急速に変貌しましたが、その出発点にサラザール体制の長い影が落ちていたことを忘れるべきではないです。