三星堆文化 – 世界史用語集

三星堆文化は、中国四川省広漢市の三星堆遺跡を中心に、紀元前2千年紀の中期から後期(概ね前17~前11世紀ごろ)にかけて栄えた古代蜀(しょく)の地域文化を指します。巨大な青銅人像や突き出た目をもつ仮面、金杖や金箔、精巧な玉器、象牙や牛骨がまとまって出土する祭祀坑など、他地域には見られない個性的な造形と儀礼痕跡で世界を驚かせました。中原の殷(商)文化と同時代で一部に交流をもちながらも、造形思想・宗教観・工芸技術の多くを独自に発達させ、長江上流域の文明多中心性を雄弁に示しています。21世紀に入って新たな祭祀坑群が見つかり、古代蜀の政治・儀礼・交易の全体像が一段と立体化しました。以下では、発見の経緯と編年、造形と技術の特色、儀礼と社会構造、広域交流と継承(金沙遺跡を含む)という観点から、最新像をわかりやすく整理します。

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発見と時代背景—祭祀坑が語る古代蜀の時間軸

三星堆遺跡は、1929年に農民が偶然、玉器や石器を掘り当てたのが端緒です。本格的な発掘は1980年代に進み、1986年には二つの大型祭祀坑(第1・第2)が確認されました。そこからは焼損や破砕の痕をもつ大量の青銅器・金器・玉器・象牙がまとまって出土し、意図的に破壊・焼却・埋納する独特の祭祀が行われていたことが明らかになりました。年代は、土器型式・炭素年代測定・合金組成の比較から、殷後期—西周初頭に重なる前12~前11世紀前後が中核と見られますが、遺跡自体の占地はそれ以前(前17世紀ごろ)に遡る層位も含み、長い時間幅を持ちます。

21世紀に入ると発掘が再開し、2020~2022年には新たな祭祀坑(第3~第8)が検出されました。これらは1986年の二坑と同じ祭祀エリアに並列し、青銅器・金器・象牙・絹(炭化繊維として)・漆木製品の痕跡など、素材の多様さを示しています。坑ごとに埋納の手順や道具の組合せが異なり、複数回にわたる儀礼の反復や、特定の時期に集中した大規模祭が想定されます。都市の中心域には「城壁」「月城(土壇)」状の高まり、居住・作業・貯蔵の痕跡が分布し、儀礼空間と工房群、居住区が機能分化していたと考えられます。

歴史文献上の「蜀」は、伝説的な王(蔵叢・開明など)と断片的な記憶で伝わるだけで、系譜や年代表は不確かです。三星堆文化は、まさにその空白を埋める物証であり、同時期の殷王朝の甲骨文世界とは異なる系統の権威観や祭祀体系が、長江上流域に確固として存在したことを示します。地理的には岷江・沱江などの扇状地と河間の台地が舞台で、周囲の山地・盆地と交通路は、金属原料・象牙・貝貨などの集散に適していました。

造形と技術—突眼仮面・大神像・青銅樹にみる想像力

三星堆を象徴するのは、「目の飛び出した」青銅仮面です。大きく切り開かれた双眸に円筒状の突起を差し込む構造を持つもの、耳が異様に発達したもの、獣の角状装飾をもつものなど、多様なバリエーションがあります。いずれも眼を強調して〈視る力〉を象徴化し、呪視・神人合一・遠見といった宗教的意味を帯びていたと考えられます。仮面は顔面のみならず、後頭部や冠、耳飾りなど複合的な装備を想定した痕もあり、儀礼者が装着して神格を現前させる演出、または木像への取り付けによる祭壇装飾が想定されます。

高さ2メートルを超える大型立人像(青銅人像)は、両手を前に突き出し、何かの長柄器(象徴的な象牙・笏・杖・器物)を保持していたと推定されます。衣のひだや帯、履物の表現は写実的で、頭部は別作の冠・仮面と組み合わせる可能性があります。同様に、樹高4メートル前後の青銅の樹(神樹)は、幹から枝が渦巻くように伸び、枝先には果実や鳥、龍状の生物が絡みつく複雑な造形をしています。これは世界樹・天界と地上をつなぐ「軸」を視覚化したものと解釈され、樹の根元に神人や動物を並べる祭壇配置が復元図で提案されています。

金工では、幅広の金杖(きんじょう)や厚手の金箔、仮面の金貼りなどが注目されます。金杖には渦文・鳥獣文・幾何文が連続し、権能の象徴・誓約の道具・葬送具などの可能性が論じられてきました。玉器は、斧形(戚・鉞)、璧(円盤)、琮(角柱)、璋(半圭)など、長江下流の良渚文化系の伝統を思わせる型式が混在しつつ、三星堆独自の装飾(高浮彫や鋸歯文)を纏います。土器や漆木器も、儀礼に用いたと見られる精緻なものが多く、色彩・匂い・音の総合的演出があったと考えられます。

制作技術はどうでしょうか。青銅器は、分割鋳型(陶製の外型・内型)ろう型(蝋型)の併用・部品鋳造後の鋳掛け・接合を駆使したと見られます。巨大仮面や樹のような複雑造形は、単一鋳造ではなく複数パーツの組立てで完成し、接合部には高錫合金や銀ろう的手法を使った痕も議論されています。合金比は、殷系青銅に比べて錫・鉛の含有がやや高い例があり、流動性と成形性を優先した配合が想定されます。表面には研磨・鍍金・金箔押しが施され、色彩的コントラストで神像性を強調しました。

儀礼と社会—焼損・破砕・象牙の埋納が示す秩序

三星堆の祭祀坑の大きな特徴は、意図的な破砕・焼損・埋納です。青銅器の角・鼻・耳を折り、仮面を切断し、象牙束や玉器をまとめて焼いた痕跡があり、火と土に還すことで神力を解除(あるいは転移)する儀礼が行われたと推測されます。器物は単体で完全な姿を保たず、〈使い切って〉埋める「一回限りの奉献」が基本でした。これは、殷墟の青銅鼎や甲骨の供犠と同じ「祭祀の消費」でありながら、器物の象徴性・造形の強調がより顕著で、〈視覚的インパクト〉と〈破壊の劇〉を重ねる演出が際立ちます。

象牙の集中は、三星堆祭祀の第二の鍵です。多数の象牙が束ねて置かれ、象牙先端を整形した痕や彩色の痕跡があるものも報告されています。長江中下流や南方林帯との交易、あるいは上流域の在地ゾウ資源の利用が考えられ、象牙は富と聖性の象徴でした。さらに、貝貨(カウリー)・海産素材の痕跡が一部で見つかっており、内陸ながら海とのつながりも儀礼の資源に組み込まれていました。

このような大規模祭祀を担った政治主体は、都市中枢に居住する宗教・軍事を掌握した首長層だったとみられます。大型立人像に見られる長衣・冠・帯の表現は、身分秩序と聖別を視覚化したものです。生産面では、青銅工人・玉工・漆工・木工・象牙加工の分業が進み、工房は儀礼カレンダーにしたがって大量の供物器・神像・装身具を製作しました。食糧・労働力・原料の動員には、周辺集落への支配と徴発が不可欠で、灌漑・堤防・道路の維持に関わる国家的な〈手〉の存在が推定されます。

文字資料が乏しい点は三星堆研究の制約ですが、器物の記号文様(渦巻・雷紋・目文・鳥龍文)や配置の規則性、埋納の階層性は、口承と儀礼実践によって共有された象徴体系の存在を物語ります。中原の甲骨・金文の世界に比べ、図像が語る比率が高い文明であったと言えるでしょう。

広域交流と継承—殷との接点、金沙遺跡へのバトン

三星堆は孤立した文化ではありません。青銅器の一部には、殷系の饕餮(とうてつ)文様や圏雷文に通じる意匠が見られ、玉器型式には長江下流の良渚文化の記憶が残ります。同時に、〈突眼・巨大仮面・神樹〉という固有要素が強烈で、〈似ている部分〉と〈まるで違う部分〉が共存します。つまり、三星堆は広域ネットワークの一端として素材・技術・記号を取り込みながら、在地の神話世界と結びつけて再編した「翻訳の文明」でした。

前12~前11世紀ごろを中心とする祭祀のクライマックスののち、三星堆の中枢はやがて衰退し、成都市域の金沙(きんさ)遺跡に重心が移ると考えられています。金沙では、金箔の太陽鳥文様、青銅器・玉器・象牙が再び大量に出土し、三星堆で確立された儀礼・造形が別の都市空間で継承・変容したことが確認されます。地形変動(河道の変遷や洪水)、政治的再編(首長層の交替)、交易ルートの変更などが、この拠点移動の背景として想定されています。三星堆—金沙の連続性は、古代蜀が短命な〈単一都市国家〉ではなく、盆地全体で中心を移しながら長く続いた〈地域文明〉であったことを示します。

交易圏の面から見ると、四川盆地は塩・金属・漆・竹木・絹の産地であり、北は秦嶺—関中を経て中原へ、南は雲貴高原—南中へ、西は岷山—青海・チベット高原の縁辺へ、東は長江中流域へと通じます。三星堆の素材構成(象牙・貝貨・金・玉)は、これら各方面との接点の存在を裏づけます。とりわけ、カウリー(宝貝)はインド洋—南アジア経由の流通網を示唆し、蜀の経済が海の遠方とも間接に連動していた可能性を開きます。

現代の研究と展示では、広漢市の三星堆博物館・新館で大型仮面・人像・青銅樹・金杖などが展示され、最新の保存科学(X線CT・合金分析・木材種同定・漆の顔料解析)が進行中です。3D復元は、別々の坑から出たパーツの組合可能性を検証し、祭壇や装束の全体像に迫る手がかりを与えています。発掘の継続と学際的分析(植物考古学、動物考古学、同位体地球化学)は、食糧・家畜・原料調達の具体像を明らかにしつつあります。

総合すると、三星堆文化は、〈見る〉ことを神格化した仮面と、天・人・地を結ぶ樹の造形を核に、火と土で器物を「使い切る」祭祀の劇場を築いた文明でした。中原王朝と同時代に、異なる言語で〈国家〉と〈聖〉を語ったもう一つの古代中国—その具体像が、掘り起こされた青銅と金と玉から、少しずつ姿を現しています。三星堆を知ることは、単一の中心で歴史を語る見方を超え、長江上流域の独自性とネットワークの力を同時に捉える視点へ導いてくれます。