「塩の行進(Salt March)」は、1930年にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンディーが主導した非暴力直接行動で、英領インド政府の塩専売・塩税に対する大規模な市民的不服従を意味します。ガンディーはサバルマティー(アフマダーバード)の修道院を出て、仲間とともに約390キロを歩いて西海岸のダーンディ村に到達し、4月6日に海水から塩を作ってみせました。誰もが日々必要とする「塩」をめぐる行為を通じて、貧しい人びとに重くのしかかる植民地的課税と統治の不当性を、老若男女に分かる形で可視化したのがこの運動の核心です。行進はインド各地の抗議と結びつき、女性や農民、都市の労働者・学生にまで非協力の輪を広げ、世界のメディアが注目する中でイギリス政府を交渉の席に引き出す圧力になりました。暴力に訴えず、日用品の自給という素朴な行為で帝国の専売制度を揺るがせた点で、近代の市民的不服従の象徴的事件として記憶されています。
背景と準備――塩専売・塩税、プールナ・スワラージの決意、出発まで
英領インドの塩は、19世紀末から20世紀初頭にかけて厳格な専売と課税の対象でした。塩は誰にとっても不可欠な生活必需品であり、暑熱の地での労働や保存食にも欠かせません。にもかかわらず、海辺の住民が自分で海水から塩を作ることさえ禁じられ、違反者には罰金や投獄が科されました。これは貧困層ほど重い負担となり、植民地国家の財政を民衆の台所にまで延ばす象徴と受け止められました。
1920年代末、英本国はシーモン委員会の報告などを通じてインド統治の制度見直しを進めますが、代表なくして改革を進める手法は国民会議派の不信を招きました。1929年末、ラホール大会で国民会議派は「プールナ・スワラージ(完全独立)」を掲げ、1930年1月26日を独立宣言の日と定めます。ガンディーはただちに武装ではなく非暴力の「サティヤーグラハ(真理把持)」で政府の不当な法を揺さぶる計画に着手し、「どの村にもつながり、誰にでもでき、道徳的正当性が明白な標的」として塩に狙いを定めました。
彼は副総督宛の公開書簡で、塩法を含む不公正な諸制度の撤回を求め、受け入れられなければ不服従に入ると通告しました。返答は硬化的で、こうして行進の政治的舞台は整います。サバルマティー修道院では、紡ぎ(カーディー)や自給の生活規律を整え、参加者は節酒・禁欲・労働奉仕といった誓約を立てて準備しました。象徴的な衣としての質素な白布、祈りと歌、村々での対話――これらがのちの長い行程の基調になります。
行進の経過と戦術――サバルマティーからダーンディへ、塩をつくるという政治
1930年3月12日、ガンディーは選ばれた同伴者たちとともに修道院を出発しました。隊列は毎日十数キロを歩き、村々に宿りながら、塩税の不正と自治の必要、非暴力の規律を語りかけました。群集は祈りと演説に耳を傾け、女性や子どもが花びらをまき、村の長老が粗食を差し出す――素朴な交流の積み重ねが、メディアの注目とともに広がっていきます。仲間たちは行進の場だけでなく、各地で塩法違反を呼びかけ、専売塩の購入ボイコット、国産布の使用、イギリス製品の不買などを促しました。
道中でガンディーは、「塩は貧者の税だ」と繰り返し、運動の倫理的焦点を明確にしました。塩は宗教やカースト、地域の違いを越えて誰もが使うもので、最下層の生活と直結します。ここにこそ、非暴力抵抗の普遍性と説得力があります。行進は約25日間をかけて4月6日にグジャラート州のダーンディ海岸へ到着しました。ガンディーは夜明けの海辺で一握りの塩をすくい上げ、「法の正当性は市民の良心に由来する」というメッセージを、身振りそのものによって示しました。これは、政府の専売法体系を象徴的に無力化する行為であり、厳密な意味での犯罪というより「不当法の道徳的否認」でした。
ダーンディ以後、各地で海水から塩を煮詰める小規模な自製が一斉に始まり、塩田や倉庫の前で座り込みが行われました。法律上は明白な違法行為であるにもかかわらず、参加者は棍棒や石を手にせず、警棒や逮捕に身をさらしました。政府は没収と逮捕で応じ、行進から間もなくガンディー自身も拘束されます。しかし、指導者不在でも運動は自然発生的に拡大し、地方の主婦や学生、職人が自発的に塩をつくり、売り、配りました。ここに、非暴力の「自生性」と「分散性」という強みが表れます。
弾圧・拡大・国際世論――ダラサナー塩田、女性の参加、メディアの役割
ガンディー逮捕後も、運動の熱は冷めませんでした。とくに注目されたのがダラサナー塩田での座り込みです。指導に立ったのは女性指導者サロージニー・ナイドゥーらで、非武装の群衆が列をなし、警棒を構えた警備隊の前で一歩ずつ前に進みました。記者が克明に描写したとおり、参加者は殴打に抗して反撃せず、倒れては次の列が進みました。この光景は写真と記事となって世界に発信され、イギリスの「法と秩序」の正統性に深い傷を与えます。非暴力は単に「何もしない」消極的態度ではなく、危険の前に身を置く能動的な訓練であることを、多くの人々が理解しました。
女性の参加は塩の行進を通じて顕著に増えました。台所の塩壺から政治へ、という比喩が語られるように、家庭の中心にある品をめぐる不服従は、家事を担う女性を自然に運動の前面へ引き出しました。主婦が鍋で塩を煮詰め、娘たちがバザールで配り、女性詩人や教師が演説台に立つ光景は、都市と農村を問わず広がります。これは、独立運動の社会的基盤を広げ、のちの選挙や教育、労働運動にも波及しました。
国際世論の面でも、塩の行進は強い印象を残しました。欧米の新聞は、粗末な白衣と杖の老人が帝国を揺るがす姿を「新しい政治の方法」として伝え、植民地統治の正当性に疑問を投げかけました。インド国内では数万人規模の逮捕者が出る一方、都市の商人や弁護士、学生、工場労働者までがストや集会に参加し、地方でも農民が役所に塩の販売権の返上を迫るなど、行政の日常が揺さぶられました。政府は弾圧一辺倒では統治が続けにくいことを悟り、交渉の必要に迫られていきます。
交渉とその後――停戦、円卓会議、運動の継続と変容
1931年、インド総督アーウィンとガンディーの間で妥協が成立し、政治犯の釈放・平和的抗議の容認などを含む停戦が結ばれました(一般に「ガンディー=アーウィン協定」と呼ばれます)。ガンディーはロンドンの円卓会議に参加し、自治・連邦内独立の枠組みをめぐって各勢力と議論しました。即時完全独立の実現には至らず、現地では運動の再開と弾圧の循環が続きますが、塩の行進で示された非暴力の大衆動員力と道徳的優位は、その後の十数年を貫く独立運動の「型」として定着しました。
植民地政府は塩税の制度自体をすぐに解体したわけではありませんが、徴税は地域によってゆるみ、専売の実効性が揺らぎます。長期的には、塩の行進が見せた「自分の生活を自分の手に取り戻す」象徴性が、衣服の自給(カーディー)、外国布の不買、地方自治体のボイコット、農民の地租不払いといった多様な非協力行動を正当化し、政治の重心を議会内の交渉だけでなく、日常の生産と消費、身体の規律へ移していきました。国家と市民の関係を、暴力ではなく服従の拒否と自律で組み替える発想は、その後のアメリカ公民権運動や南アフリカの反アパルトヘイト運動など、世界の多くの非暴力運動に具体的な手本を与えます。
また、塩という題材が選ばれたことには、思想面での深い意味がありました。ガンディーのサティヤーグラハは、「手段が目的を先取りする」という倫理を持ちます。暴力で勝ち取った自由は暴力を内蔵する、ゆえに非暴力の実践そのものが、目指すべき社会の縮図でなければならない――この考え方は、塩作りという無害で創造的な作業に凝縮されました。ここでは相手を屈服させることよりも、相手に恥を知って変わる余地を与えることが重視されます。だからこそ、殴られても殴り返さないという姿勢が、単なる受動ではなく、相手の道徳に働きかける「能動的抵抗」になり得たのです。
総じて、塩の行進は、植民地統治の理不尽を「生活の言葉」で捉え直し、誰もが参加しうる形で政治を開いた出来事でした。税の帳簿や官報の言葉ではなく、鍋と海水、歩く足と歌声で語られた政治が、帝国の制度を揺さぶったのです。この経験は独立達成までの道を一直線に開いたわけではありませんが、インド社会の自己認識を変え、世界の市民運動の語彙を豊かにしました。塩のひとつまみが、巨大な権力装置の正統性を問う手段になり得る――その教えは、今日も多くの場所で生きています。

