シオニズム – 世界史用語集

シオニズムは、ユダヤ人の民族的自己決定とそのための共同体=とりわけシオン(エルサレム)を中心とする祖地での自立的な社会・政治体の建設をめざす運動・思想の総称です。19世紀末のヨーロッパで民族主義と反ユダヤ主義(迫害・排斥)が強まるなかで可視化され、やがて移住(アリヤー)・農業開拓・諸機関の整備を通じて具体化しました。20世紀には第一次世界大戦とオスマン帝国の崩壊、イギリスの委任統治、ホロコーストの衝撃、国際政治の再編を経て、1948年のイスラエル建国に結びつきます。同時に、それはパレスチナのアラブ住民の追放・離散(ナクバ)として記憶され、以後の中東紛争・国際政治・ディアスポラ社会の自己理解に深い分岐を刻みました。シオニズムは単一の教義ではなく、宗教的根拠・世俗的民族主義・社会主義・自由主義・修正主義など多系統の潮流の束であり、過去と現在の評価は立場により大きく異なります。本項では、起源と思想、歴史的展開、パレスチナ問題との関係、現代の論争という観点から概観します。

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起源と思想の多様性――ディアスポラの長期史から19世紀の民族運動へ

ユダヤ人の「シオン回帰」は宗教的伝統として古く、古代ユダ王国の失陥とバビロン捕囚以来、祈りと典礼のなかでエルサレム帰還の願望が繰り返し表現されてきました。しかし、近代以前の帰還は個々の巡礼や小規模移住にとどまり、広域的・政治的運動にはなりませんでした。転機は19世紀のヨーロッパです。フランス革命以降の市民平等はユダヤ人の解放(エマンシパシオン)を促しましたが、同時にロシア帝国や中東欧でのポグロム(襲撃)、西欧社会にも根強い反ユダヤ感情が残り、同化の限界が露呈します。民族自決・国民国家建設の時代に、ユダヤ人も「民族(アム)」としての自己定義を強めました。

思想的出発点としてしばしば挙げられるのは、オーストリア出身の記者テオドール・ヘルツル(1860–1904)が1896年に著した『ユダヤ人国家』です。彼は反ユダヤ主義の持続を構造問題とみなし、国際的承認を得たユダヤ国家の建設(当初はアフリカや南米の代替案も議論)を提唱しました。これは「政治的シオニズム」と呼ばれます。他方、アハド・ハアムに代表される「文化的シオニズム」は、国家の有無よりもヘブライ語・教育・共同体文化の再生を重視し、パレスチナに精神的中心を置く「民族文化のルネサンス」をめざしました。

実践面では、ロシア帝国内の青年層を中心に「ビル(ヒブリ語略で『イスラエルの家を築け』)」などのグループが農業移住を進め、第一次アリヤー(1882–1903)と第二次アリヤー(1904–14)で多くのユダヤ人がパレスチナへ入植しました。彼らはキブツ(共同農場)やモシャブ(協同村)を組織し、労働シオニズム(社会民主主義的潮流)の実験場を築きます。これに対し、ユダヤ人の自衛と領土獲得に重心を置く「修正主義シオニズム」(ヴラジミール・ジャボチンスキー)は、強い軍事的抑止と大イスラエル構想を唱え、後の右派政治潮流へつながりました。宗教的シオニズムは、律法と民族の約束を基礎としつつも近代国家の建設に協力し、非シオニズム(国際的福祉重視)や反シオニズム(終末まで国家を否認する超正統派)と緊張を保ちました。

オスマン末期から英委任統治へ――国際政治・移住・土地問題の交錯

19世紀末のパレスチナはオスマン帝国領で、アラブ系住民(ムスリム・キリスト教徒・ユダヤ教徒)が農村と都市に混住していました。シオニストの入植は、土地購入(多くは都市地主からの買収)と農場建設によって進み、農業労働の「ヘブライ化」(ユダヤ人労働の原則)を掲げるグループも現れます。これは先住のアラブ農民の小作権・共有地利用と衝突し、土地と雇用をめぐる緊張を高めました。初期にはアラブ側の反応は散発的でしたが、ユダヤ人移住の拡大と政治目標の明確化に伴い、民族的対抗意識が強まっていきます。

第一次世界大戦は決定的でした。戦時外交のなかで、英政府はアラブ側にオスマンからの独立支援を示唆(フサイン=マクマホン書簡)する一方、1917年にはユダヤ人の「民族郷土」の建設支持を表明するバルフォア宣言を発し、さらにサイクス=ピコ協定で列強による分割統治を画策しました。戦後、国際連盟は英にパレスチナ委任統治を付与し、バルフォア宣言を委任統治義務に組み込みます。これにより、英当局はユダヤ人移民の受け入れと住民の権利保護という相反する課題を同時に負うことになりました。

1920–30年代、ヨーロッパの反ユダヤ主義の高まりと経済危機を背景に、第三次・第四次アリヤーで移住が加速し、ヘブライ語の公教育・大学(ヘブライ大学)・労働総同盟(ハストゥドルト)・自衛組織(ハガナー)などの制度が整備されました。都市テルアビブはヘブライ都市として急速に成長します。他方、アラブ側では民族運動が組織化され、1936–39年には大規模な反英・反シオニズム蜂起(アラブ大反乱)が発生しました。英は白書で移民制限と土地購入規制へ転じ、両民族の武装化と相互不信は深まります。シオニズム内部でも、英との協調を重視する主流派と、武装闘争を辞さない地下組織(イルグン、レヒ)との齟齬が拡大しました。

建国とパレスチナ問題――ホロコースト、分割、戦争、ナクバの記憶

第二次世界大戦とホロコーストは、シオニズムの正当化に決定的影響を与えました。ヨーロッパ・ユダヤ人の大量虐殺は、避難先・自立的防衛の必要性を国際世論に強く印象づけ、戦後の難民問題と結びつきます。1947年、国連はパレスチナの分割(ユダヤ国家とアラブ国家の並立、エルサレム国際管理)を勧告しました。ユダヤ側はこれを受諾し、1948年5月にイスラエル独立を宣言します。直後に周辺アラブ諸国との第一次中東戦争が勃発し、停戦の結果、イスラエルは国連案を上回る領域を確保、ヨルダンがヨルダン川西岸を、エジプトがガザ地区を統治しました。

この過程で、数十万規模のパレスチナ・アラブ住民が戦闘・恐怖・退去命令・追放等の複合要因によって家を失い、難民となりました。アラブ社会はこれを「ナクバ(大惨事)」として記憶し、帰還権の要求は以後の交渉の核となります。イスラエル側は、難民問題の責任を戦争とアラブ側の選択に帰す説明から、研究史の進展とともに、自側の軍事行動や住民追放の事例、土地没収政策の役割を部分的に認める議論まで、多様な立場が併存しています。難民の定住と未解決は、周辺国の国内政治とパレスチナ民族運動(PLOの形成、1960–70年代のゲリラ活動)を規定し続けました。

シオニズムにとって建国は目的の一つの達成でしたが、同時に新たな課題を生みました。ユダヤ人移民の統合(欧州系・中東系・北アフリカ系)、アラブ市民の地位、宗教と国家の関係、社会主義的経済から市場経済への転換、安全保障をめぐる政策選択など、国家運営の現実が思想の分岐を増幅しました。1967年の第三次中東戦争でイスラエルが東エルサレム・ヨルダン川西岸・ガザ・シナイ・ゴランを占領すると、宗教的・民族主義的シオニズムの一部は「解放された祖地」への入植を推進し、占領と入植は国際法・人権・安全保障をめぐる持続的な論争の中心となります。和平プロセス(オスロ合意以降)は、シオニズムの自己定義(国境・国家性・市民平等)とパレスチナ民族運動の目標の衝突・妥協の反復として展開してきました。

現代の潮流と論争――シオニズムの再定義、反シオニズム、ディアスポラの位置

現代のシオニズムは、いくつもの層に分かれます。第一に、リベラル・シオニズム(民主主義と普遍的人権を掲げ、二国家解決や市民平等を重視)、第二に、宗教的・民族主義的シオニズム(祖地の統一とトーラーに基づく共同体倫理を強調)、第三に、世俗右派(安全保障と国家主権を優先)、第四に、ポスト・シオニズム(国家神話の批判的再検討をすすめる学術潮流)などが挙げられます。これらは政党・市民団体・教育・メディアに反映し、政策選択や歴史叙述の差異となって表れます。

反シオニズムは一枚岩ではありません。アラブ・パレスチナ側の反対は、植民地主義・土地喪失・市民権侵害に対する政治的批判として展開し、国際的連帯運動(ボイコット・投資引揚げ・制裁=BDS等)へと組織化されました。ユダヤ人内部にも、超正統派の宗教的反シオニズム(メサイア到来前の主権国家を否認)、左派の反植民地主義的批判、人権を軸に現行政策を批判する立場などが存在します。一方で、反ユダヤ主義とイスラエル政策批判の線引きをどう行うかは国際社会で難題となり、言論・学術・市民運動の場で激しい論争が続いています。

ディアスポラ(イスラエル国外)ユダヤ社会の位置づけも変化しています。北米や欧州の共同体は、イスラエルへの支持・批判の幅広いスペクトルを持ちながら、宗教・世代・人種・ジェンダーの多様化に対応する内部対話を深めています。ヘブライ語復興やユダヤ文化の振興は、イスラエル国家の内外をつなぐ文化資本となる一方、国家と宗教制度(婚姻・改宗など)をめぐる越境的な軋轢も生んでいます。さらに、中東・北アフリカ出身のユダヤ人(ミズラヒ)やエチオピア系、旧ソ連系などの移民史は、シオニズムの物語をヨーロッパ中心から多地域史へと拡張させました。

総じて、シオニズムは、迫害の時代を背景に誕生した民族運動であり、移住・建設・戦争・外交・文化の総体として20世紀世界史の中心的争点の一つになりました。その成果と負の遺産は、当事者の経験によって大きく異なる像を結びます。イスラエル建国とパレスチナ離散という二つの記憶が重なり合う場所で、政治と倫理、歴史叙述と現在進行の現実が交錯しつづけている――シオニズムを学ぶことは、この複層的な現実を見通す視角を得ることにほかなりません。