辰韓(しんかん/しんはん)とは、紀元前後からおよそ4世紀ごろまで、朝鮮半島南東部に存在した小さな国々のまとまりを指す呼び名です。のちに「三韓(さんかん)」と総称される三つの地域勢力(馬韓・辰韓・弁韓)の一つで、後世の新羅(しらぎ)王国の前身と考えられています。辰韓そのものが単一の大国家だったわけではなく、いくつもの小国・小集落がゆるやかに連合していた世界を、当時の中国の史書がまとめて「辰韓」と呼んだと理解されています。
現在の地図に当てはめると、辰韓の中心地域はおおむね韓国の慶尚北道・慶尚南道あたり、つまり釜山や慶州の周辺を含む内陸・沿岸一帯に位置していたと考えられます。人びとは水田を開き稲を育てるとともに、麦や雑穀も栽培し、畜産や漁労も行っていました。とくに鉄資源の産出と鉄器製造が盛んで、朝鮮半島内はもちろん、日本列島の弥生時代社会に対しても鉄製品を供給する重要な地域だったと見なされています。
辰韓の社会は、のちの統一国家のように中央集権化されたものではなく、首長が率いる小さな国々が群立していました。その中でも、慶州一帯の「斯盧(さろ)」と呼ばれる勢力が徐々に頭角を現し、後に「新羅」として知られる王国へと成長していきます。つまり辰韓は、古代朝鮮における国家形成の「前夜」の段階にあたる社会であり、のちの新羅や伽耶、さらには日本列島の古代国家とも深く関わる地域世界の一部でした。
私たちが辰韓について知る手がかりの多くは、『三国志』魏志東夷伝など、中国側の史書に書かれた記述から来ています。そこでは、辰韓人の言語や風俗、信仰、他地域との交易の様子などが断片的に描かれています。一方で、現地側の文字資料は残っておらず、考古学的な出土品や遺跡調査と組み合わせながら、当時の姿を復元していく作業が続けられています。
辰韓とは何か:位置・時代・三韓との関係
辰韓は、古代の朝鮮半島南部に存在した「三韓」のうちの一つです。三韓とは、馬韓(ばかん/まかん)・辰韓・弁韓(べんかん)の総称で、中国の史書がこの地域を説明する際に用いた地理的・民族的な区分です。馬韓はおおむね朝鮮半島南西部、弁韓は南部中央寄り、辰韓は南東部に位置していたとされていますが、その境界は現代の国境線のように厳密なものではなく、互いにゆるやかにつながり合う世界でした。
年代的には、辰韓の成立はおおよそ紀元前1世紀ごろまでさかのぼると考えられます。中国大陸側では、漢帝国が朝鮮半島北部に楽浪郡・帯方郡などの郡県支配を展開しており、その南に、直接には支配されていない諸集団が存在していました。これらを、中国の側から見て「韓」と総称し、その内部をさらに馬韓・辰韓・弁韓に分けて記述したのです。
辰韓という名称には、「辰」という音が、もともと朝鮮半島の古い国「辰国」や「辰王」の伝承と結びついているのではないか、という説もあります。また、「秦韓(しんかん)」と書かれることもあり、秦の避難民が渡来したことに関係するのではないかといった仮説もありますが、確定的な学説はありません。いずれにせよ、中国の記録者が耳で聞いた地名・民族名を漢字であてはめたものであり、現地の人びとが自分たちをどう呼んでいたのかについては不明な点が多いです。
辰韓の範囲は、のちの新羅の中心地域と大きく重なります。『三国志』などには、辰韓の中に「斯盧」「優由」「仇亥」など十余国があると記されており、その中でものちに新羅王都となる慶州一帯の勢力が次第に力を増していきました。つまり、辰韓は「一国の名前」ではなく、「いくつかの小国をふくむ地域世界の呼称」と理解するのが適切です。
辰韓の終焉は、おおむね4世紀ごろと考えられます。このころになると、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅のいわゆる「三国」が台頭し、地域社会の再編が進みます。辰韓の諸小国は、新羅や伽耶などに吸収されるかたちで姿を変え、やがて中国側の史書の中からも「辰韓」という呼び名は消えていきます。
辰韓の社会と経済:農耕・鉄・祭祀
辰韓の人びとの暮らしぶりについては、『三国志』魏志東夷伝などにいくつかの興味深い記録が残されています。それによると、辰韓では水田農耕が盛んで、稲を中心に農業が営まれていました。同時に、麦や雑穀、豆類などの栽培も行われ、山地では焼畑なども利用されていたと考えられます。家畜としては豚や犬などが飼われ、狩猟や漁労も食料確保の一部を担っていました。
辰韓を語るうえで重要なのが、鉄の生産と利用です。朝鮮半島南部は古くから鉄資源に恵まれており、とくに辰韓地域では鉄鉱石の採掘と製鉄技術が発達しました。中国の史書には、辰韓や弁韓が鉄製品を周辺勢力に輸出していたことが記されており、鉄は単なる道具や武器の素材であるだけでなく、交易品として政治的・経済的な意味を持っていました。
この鉄は、北の楽浪郡・帯方郡など中国系の勢力や、馬韓・弁韓の諸国、さらには海を越えた日本列島の弥生社会にも流通していたと考えられます。日本側の遺跡からは、朝鮮半島南部を経由したとみられる鉄器や鉄素材が多数出土しており、辰韓・弁韓地域と倭との間に活発な交流があったことがうかがわれます。したがって辰韓は、東アジアの古代鉄器ネットワークの一角をなす存在でした。
住居形態については、半地下式の竪穴住居や、高床建物などが想定されています。集落は丘陵地や河川沿いに形成され、防御的な性格を持つものもあったようです。首長や有力者の墓からは、鉄器や青銅器、装身具などが副葬された遺構が見つかっており、身分差や階層構造がすでに存在していたことが示唆されています。
宗教や信仰についても、中国史書はいくつかの断片的な情報を伝えています。辰韓の人びとは、山や川、天体など自然の力を神格化してまつり、占いや祭祀を重要視していたとされます。年中行事としての祭礼や、戦争前の占い、共同体の祭りなどが、政治と密接に結びついていました。首長は、戦や裁きだけでなく、祭祀を取り仕切る宗教的リーダーでもあったと考えられます。
言語面については、中国の記録者が「辰韓の言葉は馬韓と違い、また倭に似ているところもある」といった趣旨の記述を残していますが、その実態はよく分かっていません。古代朝鮮の諸言語と日本語の系統関係をめぐっては、さまざまな仮説がありますが、決定的な証拠は乏しく、慎重な議論が続いています。いずれにせよ、辰韓地域は、大陸・半島・列島が交差する場として、多様な言語・文化が行き交う環境に置かれていたと推測されます。
中国史書にみえる辰韓と周辺世界との関係
辰韓についての文字資料の多くは、中国側の史書に由来します。とくに重要なのが、『三国志』魏志東夷伝や、『後漢書』東夷伝など、いわゆる「東夷(とうい)」と呼ばれた東アジア周辺諸民族に関する記述です。これらの史書は、中国王朝の視点から周辺地域の情報を整理したものであり、辰韓はその中で「韓」の一部として紹介されています。
中国史書の記述によれば、辰韓は十余国からなり、それぞれの国に長(首長)がいました。彼らは、時に中国の郡県に使者を送り、贈り物を持参して朝貢関係を結んだとされています。この朝貢は、実際には貿易のルートとして機能し、中国側からは絹織物や金属製品、文化的な道具がもたらされ、辰韓側からは鉄や農産物、特産品などが送られたと考えられます。
楽浪郡・帯方郡など、中国系の地方政権は、辰韓を含む「韓」諸国の動向を重視していました。農産物・鉄資源の供給地としての価値だけでなく、北の高句麗や南の倭といった勢力との関係を調整するうえでも、韓地域の情報は重要だったからです。このため、中国の記録者は、辰韓の風俗や法制度、兵力などについてもある程度詳細な説明を残しましたが、それでもなお断片的であり、全体像を復元するには限界があります。
辰韓と周辺勢力との関係も、多層的でした。西側の馬韓とは、地理的に近接しながらも言語や習俗に違いがあったと記録されており、互いに一定の競合関係にあった可能性があります。南の弁韓とは、鉄生産を軸にした協力・競争があったと見られます。また、海を隔てた倭(日本列島)とは、鉄素材や技術、装飾品などを通じた交易と文化交流が展開していたと考えられます。
このような関係性の中で、辰韓の諸国は、ときに中国の権威を利用しながら他国との優位を得ようとしたり、逆に中国支配から距離を置いて自律性を保とうとしたりしました。朝鮮半島南部は、直接の郡県支配を受けた北部と異なり、ゆるやかな外圧と内発的な動きが交錯する「半周辺」の空間でした。その中で、辰韓の小国群は自らの生存戦略を模索していたのです。
辰韓から新羅へ:古代国家形成への道
辰韓の歴史を後世の視点から見ると、もっとも重要なのは新羅王国へとつながる流れです。辰韓に属していた十余国の中でも、慶州周辺の「斯盧(さろ)」は、山岳地帯を拠点としながら次第に勢力を拡大していきました。3世紀ごろには、周辺の小国を従属させる動きが強まり、4世紀には「新羅」という名称で中国の史書にも記録されるようになります。
新羅は、もともと辰韓的な小首長国の一つにすぎませんでしたが、内部の政治組織化と外部との関係調整を通じて、徐々に「王国」としての姿を整えていきました。その過程では、在地の豪族層を統合し、祭祀や軍事を通じて王権を強化することが重要な課題となりました。辰韓時代から続く宗教的伝統や集落構造は、新羅王権形成の基盤として生かされたと考えられます。
一方、辰韓と同じ三韓世界に属していた弁韓の諸国からは、鉄と交易を基盤とする伽耶諸国が発展し、馬韓からは百済の原型となる勢力が台頭します。やがて朝鮮半島南部では、新羅・伽耶・百済・高句麗といった諸勢力が複雑にせめぎ合う時代に入っていきます。辰韓という呼称はこの段階で歴史の表舞台から姿を消しますが、その地域社会と文化は、新羅や伽耶の中に引き継がれました。
日本列島との関係に目を向けると、辰韓・弁韓地域は、弥生時代から古墳時代にかけての倭との交流の窓口でもありました。鉄器や農耕技術だけでなく、人の移動や婚姻関係、宗教・儀礼の要素など、さまざまな文化要素が半島と列島を行き来していたと考えられます。日本の古代神話や記紀の中には、韓(から)から渡来した人物や技術に関する記述が多く見られますが、その背景には辰韓・弁韓を含む三韓世界との長期的な交流があったと見ることができます。
このように、辰韓はそれ自体が巨大な帝国であったわけではありませんが、朝鮮半島南東部の地域社会が、やがて新羅という古代国家へと成長していく過程の「土台」となった存在でした。また、鉄と海上交易を通じて、日本列島や中国世界とも結びついており、東アジア古代史を広い視野でとらえるうえで欠かせない一片を担っています。辰韓の歴史をたどることは、国境ができる以前の東アジア海域世界の姿を思い描く手がかりにもなるのです。

