アイグン条約 – 世界史用語集

アイグン条約とは、1858年に清朝とロシア帝国との間で締結された二国間条約であり、アムール川(黒竜江)周辺地域の領有権を大きく変えることになった重要な不平等条約です。この条約によって清は、黒竜江以北から外興安嶺に至る広大な地域をロシアに割譲することとなり、帝政ロシアによる東アジア進出が大きく前進しました。条約名は、交渉と署名が行われたアムール川沿いの都市アイグン(現在のロシア領ハバロフスク地方、アイグン鎮)に由来します。

この時代の清朝は、アヘン戦争や太平天国の乱などの内外の混乱により国力が著しく衰退しており、西洋列強やロシアに対して十分な外交的・軍事的抵抗をすることが困難な状況に置かれていました。一方でロシア帝国は、シベリア開発を進める中で太平洋岸への進出を企図しており、アムール川流域を自国の支配下に置くことを強く望んでいました。

アイグン条約が締結された背景には、1850年代にロシアが独自にアムール川流域の開拓と軍事拠点の設置を進めていたことが挙げられます。とりわけ、ロシアの極東総督ムラヴィヨフは強硬な対清政策を展開し、事実上の軍事的圧力を背景に清との交渉に臨みました。清の地方官であるイリ地方将軍イシャンは、中央政府の命令を待たずにロシアとの条約締結を認め、これによって広大な領土がロシアに割譲されることになったのです。

条約の主な内容は、アムール川を清とロシアとの国境とすること、すなわちアムール川の北岸一帯をロシア領とすること、そしてウスリー川と日本海の間の土地は清とロシアの「共同管理地帯」としておき、将来的な境界はさらに協議で決めるというものでした。この時点では、ウスリー川以東の地域は形式的には両国の共同統治とされていましたが、1860年の北京条約によってその地域も完全にロシア領とされ、現在のウラジオストク周辺までがロシアに組み込まれることになります。

アイグン条約は、清朝にとってアロー戦争のさなかに締結されたという事情もあり、北京政府には事前の十分な関与がなかったとされ、しばらくの間はその正統性を否定されていました。しかし、現実にはロシアの圧倒的な軍事・外交力の前に、条約の内容は既成事実化され、清朝は以後この地域への影響力をほぼ完全に失うことになります。

この条約の結果、清朝はおよそ60万平方キロメートル以上の広大な領土を失い、ロシアは極東への足がかりを確保することに成功しました。これにより、シベリア鉄道の建設やウラジオストクの発展といったロシアの極東政策が本格化することになります。また、この領土割譲は中国にとって屈辱的な外交の象徴の一つとされ、近代中国における「列強による侵略と不平等条約の時代」の代表的な出来事として記憶されることとなりました。

現在の中露国境は、近代に結ばれた複数の条約を経て確定されたものであり、アイグン条約はその第一歩をなすものでした。この条約の歴史的意義は、東アジアにおける帝国主義的領土拡張の典型例であると同時に、19世紀の国際政治において軍事力と外交圧力がいかにして国家間の国境を再編成させたかを示す象徴的な事例とも言えます。