帝国主義時代とアフリカ分割の背景
19世紀後半、ヨーロッパ列強はアジア・アフリカへの植民地拡大を急速に進めました。この時代は「帝国主義の時代」と呼ばれ、資本主義経済の発展に伴う原料供給地・市場の確保、国家的威信の追求、そして軍事的拠点の確保といった要因が重なって植民地競争が激化しました。アフリカ大陸はその豊富な資源と戦略的位置から、列強の進出の主要舞台となりました。
1884–85年のベルリン会議では、アフリカ分割の原則が確認されました。会議を主導したドイツのビスマルクは「現地における実効支配」を植民地獲得の根拠とする方針を提示し、列強は競ってアフリカ大陸に兵力や行政を展開することになりました。この流れの中でフランスとイギリスは、それぞれ独自の「アフリカ横断政策」「アフリカ縦断政策」を掲げ、アフリカ大陸の支配をめぐって鋭く対立することになります。
フランスの東西横断政策とその狙い
フランスの「アフリカ横断政策」は、アフリカ大陸を西から東へ横断する形で植民地を連結させる構想でした。具体的には、西アフリカの植民地(セネガルやギニア)からスーダン、チャドを経由し、最終的にジブチ(当時のフランス領ソマリランド)に至る「横断帝国」を築くことが目標でした。
この政策の背景には、1870–71年の普仏戦争でドイツに敗北し、アルザス=ロレーヌ地方を失ったフランスが、海外における帝国主義的拡張によって国威を回復しようとする思惑がありました。フランスは「文明化の使命」を掲げつつも、実際には資源・市場の確保や国際的威信の回復を狙っていました。特にサハラ砂漠以南の西アフリカはフランスの影響力が強く、そこから東方への進出は自然な流れと考えられたのです。
フランスの横断政策は、アフリカ大陸を東西に横切る「一大帝国」を形成することで、イギリスの南北縦断政策を阻止し、フランスの国際的地位を強化する意義を持っていました。
イギリスの縦断政策との対立とファショダ事件
一方、イギリスは「ケープからカイロへ(Cape to Cairo)」をスローガンに、アフリカ大陸を南北に縦断する植民地連結を目指していました。すでにエジプトのスエズ運河を掌握していたイギリスは、東アフリカと南アフリカを結びつけ、大陸の大動脈を支配する構想を持っていました。これはインド航路の安全保障にもつながる重要な戦略であり、イギリス帝国の大戦略の一環でした。
このように、フランスの「東西横断」とイギリスの「南北縦断」は必然的にスーダン地域で交錯しました。その象徴的事件が1898年の「ファショダ事件」です。フランスの探検隊がナイル川上流のファショダ(現スーダン南部)に到達した際、イギリス軍と鉢合わせし、両国の軍事的対立に発展しました。戦争の危機すら叫ばれましたが、最終的にはフランスが譲歩し撤退しました。
ファショダ事件は、フランスがドイツとの対立を優先する必要があったため妥協せざるを得なかったという国際政治的背景を持ちます。この事件以降、フランスとイギリスは次第に協調へと舵を切り、1904年には「英仏協商」が成立して両国関係は改善に向かいました。
アフリカ横断政策の歴史的意義とその後の影響
フランスのアフリカ横断政策は最終的にイギリスの縦断政策に押され、完全な実現には至りませんでした。しかし、この政策は19世紀末の帝国主義競争の象徴的事例であり、アフリカ分割の過程における列強間の対立を鮮明に示しました。
アフリカ横断政策はまた、アフリカ大陸に人工的な国境を生み出す契機ともなりました。ヨーロッパ列強の思惑によって引かれた国境線は、民族や部族の分断を引き起こし、20世紀以降のアフリカにおける政治的不安定や紛争の原因の一つとなりました。さらに、アフリカにおける植民地支配の強化は、現地社会の経済構造や文化に大きな影響を与え、脱植民地化後も深刻な課題を残しました。
総じて、フランスのアフリカ横断政策は単なる帝国主義的野心にとどまらず、近代アフリカ史全体に長期的な影響を与えた政策でした。その挫折は国際関係の転換点となり、20世紀初頭の列強間協調(英仏協商)への布石ともなったのです。

