アロー戦争(1856–1860)は、広州でのロルチャ船「亜羅号(アロー号)」臨検事件を端緒として、イギリスとフランスが清に対して武力行使し、北上して北京条約に至った戦争の総称です。第一次アヘン戦争後の南京条約体制下で蓄積していた主権と通商に関する矛盾が、旗章(国旗)・船籍・治外法権という国際法上の論点を介して噴出し、やがて条約の再拡張と領土の割譲、外交慣行の変更(北京常駐公使館)へと結びつきました。清朝の側では、咸豊帝政権が太平天国など内乱と外圧の二重苦に直面する最中で、地方社会の治安・経済・宗教をめぐる秩序が大きく揺らぎました。欧州側では、英仏両国が協調しつつもそれぞれ国内政治と世論の制約を抱え、宣教師保護や国威発揚を名目とした対外政策が正当化されました。結果として、天津条約・北京条約により開港の拡大、通商・宣教・旅行の自由の拡張、関税と内地通行の制度化、九龍南部の割譲などが確定し、東アジアの国際秩序は不平等の度合いを一段と深めることになりました。
背景と発端:南京条約体制の軋轢、アロー号臨検と掲旗問題
1842年の南京条約および虎門寨追加条約で、清は広州・厦門・福州・寧波・上海の五港を開き、領事裁判権(治外法権)や関税制度の再編に同意しました。しかし広州に限っては城内開放の約束履行が遅れ、居留・通商・司法の細目を巡って清側官僚と外国領事の対立が絶えませんでした。沿岸では海賊・密貿易が続き、清の臨検は治安・税制の観点からは当然である一方、列強側は掲旗と船籍登録を根拠に自国の保護を主張し、現場での衝突が起こりやすい環境でした。
1856年10月、広州近郊で清の水師がロルチャ船「亜羅号(アロー号)」を臨検し、中国人乗組員の一部を拘束しました。臨検時に掲げていた英国旗が引き降ろされたとされ、香港総督ジョン・ボーリングと代理領事ハリー・スミス・パークスは、英国旗への侮辱および英国船籍の権利侵害を主張して釈放と謝罪、広州城門の開放など広範な要求を提示します。清側の両広総督葉名琛は、拘束者は清国臣民であり、船の英国登録は期限切れで旗章保護の対象外と反論しました。実務的には多くが釈放されたものの、謝罪の形式や文言をめぐる対立が拡大し、英側は武力行使へ移行します。
英本国では、強硬策の是非を巡って議会が紛糾し、首相パーマストンは1857年に下院解散に踏み切りました。いわゆる「アロー選挙」で与党は勝利し、対清政策は民意の後押しを得ます。他方フランスは、広西での宣教師シャプダレン殺害事件を口実に参戦を決定し、英仏の共同作戦が準備されました。
戦局の展開:広州から北上、大沽・天津、再戦と北京進軍、円明園焼打ち
1856年末から英艦隊は珠江流域の砲台を攻撃し、広州外港・城壁への砲撃を開始しました。1857年末には英仏連合軍が広州を占領し、葉名琛を捕縛・流送します。戦場は北上し、連合軍は渤海湾の大沽口砲台を突破して天津へ迫りました。1858年、圧力を受けた清は天津条約に調印し、外交・通商・布教などに関する大幅な譲歩を約束します。
ところが翌1859年、条約批准のために英仏が再び大沽に進出すると、清側は砲台を増強して迎撃し、連合軍は大沽で敗退します。戦争は再燃し、1860年、増援を受けた英仏は大沽を攻略、天津を再占領したのち北京へ進軍しました。道中の張家湾・八里橋の戦闘で清軍は敗れ、咸豊帝は熱河へ避難します。交渉の最終局面では、清側が拘束した使節団員の虐待・死亡事件が起こり、連合軍は円明園(旧円明園)を焼打ち・破壊することで威圧しました。こののち、清朝は北京条約(1860)の締結に応じ、戦争は収束します。交渉の表舞台では、英の全権エルギン伯、仏のグロ公使、清側の恭親王奕訢(Prince Gong)らが中心的役割を果たしました。
条約体制の再編:天津条約と北京条約の骨子と影響
天津条約(1858)は、(1)北京における各国公使の常駐、(2)新規開港場の追加と内地通商の拡大、(3)外交文書での対等な称呼・往復、(4)キリスト教布教・信仰の容認および一定の内地旅行の自由、(5)賠償金と関税制度の再編(従価税原則、内地通行税との調整)などを含む包括的協定でした。これに米露もそれぞれ調印し、英仏以外も同様の利益を獲得しています(米露は原則武力不干渉を保ちつつ条約を取得)。
しかし条約の施行は大沽での再戦によりいったん頓挫し、北京条約(1860)によって天津条約の諸規定が最終的に確定・拡張されました。北京条約の要点は、(1)天津条約の批准・履行、(2)九龍半島南部(境界街以南と石鼓洲)の割譲、(3)賠償金の増額、(4)宣教師・信徒の保護の再確認、(5)長江の一定区間への外国軍艦の通航容認などです。結果として、通商範囲と居留・旅行・宣教の実勢は大幅に拡大し、条約港都市の社会・経済は国際化が進展しました。関税面では、名目的な従価5%水準が基本となり、内地通行税(リキン)との二重課税をめぐる折衝が以後の懸案となります。
領土・国境の側面では、英仏との講和と並行して清は北方で露清間の国境条約(アイグン条約1858・北京条約1860)により黒竜江左岸・沿海州方面での大幅な割譲に応じており、外圧の集中が清朝の対外交渉力を弱めていたことがうかがえます(アロー戦争の直接条項ではないが、同時期の構造的帰結として重要です)。
影響・評価・学習の要点:不平等の深化、列強協調、清朝の危機と社会変容
アロー戦争の意義は、第一に主権の不平等化の深化にあります。治外法権の射程拡大、公使常駐の制度化、外交儀礼の「対等化」(清朝の伝統的朝貢秩序の解体)は、国際関係の枠組みを列強側の常識へ強制的に合わせるものでした。第二に、条約港の拡大と都市社会の変容です。租界・関税・司法の多元化は、商業・金融・出版・医療・教育の新たなネットワークを育み、国内市場や物流の構造を変えました。第三に、宗教と社会の緊張です。宣教師・教民の保護条項は民間紛争に国際政治を介入させる回路を広げ、各地で宗教事件や排外的暴動の火種を残しました。
英仏側の政治では、イギリスの「アロー選挙」に見られるように、議会制下での対外強硬策の正当化が確認され、フランスでは第二帝政期のナポレオン3世が宣教師保護と国威の伸長を名目に対外出兵の政治資源化を図りました。清側では、咸豊帝の避難と恭親王奕訢の登用、総理各国事務衙門の設置など、外交の新機構が整備され、洋務運動に繋がる人材・制度の萌芽が生まれます。他方、円明園焼打ちは文化的記憶に深い傷を残し、同時代から今日に至るまで植民地的暴力の象徴として語られ続けています。
学習の骨組みは次の通りです。①年表:1856アロー号臨検→1857広州占領→1858天津条約→1859大沽敗退→1860北京条約・円明園焼打ち。②人物:ボーリング(香港総督)、パークス(代理領事)、葉名琛(両広総督)、シーモア(英艦隊司令)、エルギン伯(英全権)、グロ公使(仏全権)、恭親王(清全権)。③地名・施設:広州、珠江、大沽口砲台、天津、張家湾・八里橋、北京、円明園、九龍半島。④用語:旗章保護、船籍、治外法権、北京公使常駐、従価税5%、リキン。⑤因果:臨検→対外強硬(英仏)→広州占領→北上・条約→批准挫折→再戦・北京条約→体制拡張、という流れを押さえると理解が安定します。
総括すると、アロー戦争は、小さな臨検をめぐる技術的・儀礼的対立から出発しながら、帝国主義の力学と内政・世論の相互作用によって、東アジアの国際秩序を再編する大規模な転換へと発展した出来事でした。条約文言に刻まれた制度変更(開港・関税・司法・宣教)は、その後の半世紀にわたり中国と世界の関係を規定し、近代東アジアの歴史を方向づけたのです。

