アンゴラ独立 – 世界史用語集

「アンゴラ独立」とは、アフリカ南西部のポルトガル領アンゴラが長期の独立戦争と本国ポルトガルの体制転換を経て、1975年11月11日に独立を達成した歴史的過程を指す用語です。一般には、1961年の蜂起を嚆矢とする武装抵抗の開始から、1974年のカーネーション革命、1975年のアルヴォール協定、そして独立宣言に至る流れを含めて説明します。アンゴラの独立は、冷戦下の地政学、資源(石油とダイヤモンド)、民族・地域構成、宗主国の国内政治とが複雑に絡み合って進行し、独立と同時に内戦が本格化するという重い代償を伴いました。用語としての「アンゴラ独立」は、独立達成「その瞬間」だけを指す場合と、1960年代以降の解放闘争全体を含む広い射程で用いられる場合があるため、文脈の確認が重要です。

アンゴラは16世紀以降にポルトガル勢力が拠点を築き、19世紀末のベルリン会議で植民地支配が国際的に追認されました。20世紀前半のサラザール体制(エスタド・ノヴォ)下で、アンゴラは「海外州」と位置づけられ、白人入植者社会の拡大、プランテーションや鉱山開発、道路・港湾などのインフラ整備が進められました。しかし、同時に強制労働や人種的差別、同化政策(アシミラード制度)による文化的圧力が続き、被支配層の不満と抵抗が蓄積しました。第二次世界大戦後のアフリカ独立の波の中でも、ポルトガルは硬直した植民地維持を続け、武力衝突の土壌が形成されました。

以下では、(1) 用語と歴史的背景、(2) 独立運動の形成と拡大、(3) カーネーション革命とアルヴォール協定、(4) 1975年の独立宣言と国際化する内戦、の四つの観点から「アンゴラ独立」の実像を整理します。数字や固有名は必要最小限に絞り、出来事の因果と相互連関が見通せるように叙述します。

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用語と歴史的背景—ポルトガル植民地支配の構造

アンゴラの植民地化は、15世紀末のポルトガル航海者の進出と沿岸拠点の設置に端を発します。17世紀にはルアンダやベンゲラを基点にアフリカ大西洋奴隷貿易の重要な供給地となり、内陸の王国(コンゴ王国やンドンゴなど)との複雑な関係のもとで人・象牙・ゴムなどの交易が行われました。19世紀末の帝国主義競争を経て、ポルトガルは内陸部への軍事遠征を強め、近代的な行政単位を整備して実効支配を拡大しました。

20世紀前半、ポルトガル本国のエスタド・ノヴォ体制は、海外領を「不可分の国土」として保持する政策を貫きました。アンゴラでは白人入植者と企業による農園・鉱山経営が拡大し、主要輸出品としてコーヒー、綿花、ダイヤモンド、そして海岸沖や飛地カビンダの石油が比重を高めました。他方、現地住民には頭税や労働徴発が課され、道路建設や農園への「契約労働(しばしば事実上の強制)」が広く存在しました。教育や市民権では「同化(アシミラード)」と呼ばれる制度が設けられ、ポルトガル語・カトリック・生活様式の受容を条件に限定的な市民資格が与えられましたが、実際には人種・階層の壁が厚く、社会的上昇の道は狭かったのが実情です。

第二次世界大戦後、国際社会における植民地支配への批判は強まり、アジア・アフリカの独立が相次ぎました。国連や新興独立国家の場での圧力にもかかわらず、ポルトガルはアンゴラ・モザンビーク・ギニア(ビサウ)などの領有を維持する構えを崩さず、むしろ入植者と軍事力を増強しました。この硬直が、やがて1960年代の武装抵抗と長期化する独立戦争を招くことになります。

独立運動の形成と拡大—MPLA・FNLA・UNITA

アンゴラの解放運動は、一枚岩ではありませんでした。地域・民族・社会基盤の違い、亡命先や支援国の差が、複数の組織の併存と競合を生みました。都市の知識人と混血層、ルアンダ周辺のムブンドゥを基盤にしたのがアンゴラ解放人民運動(MPLA)で、文化運動と労働運動を背景に1960年前後から武装化を強め、後にアゴスティーニョ・ネトが象徴的指導者となりました。北部のバコンゴ地域とザイール(旧ベルギー領コンゴ)のネットワークを持ったのがアンゴラ民族解放戦線(FNLA)で、ホルデン・ロベルトが中心となりました。中南部のオヴィンブンドゥを基盤に、1966年にジョナス・サヴィンビが結成したのがアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)です。

独立戦争の火ぶたは、1961年に切られました。年初の北部農園地帯での蜂起(しばしばバイシャ・デ・カサンジェの反乱として言及)に続き、2月にはルアンダでの刑務所襲撃、3月には北部一帯での大規模抗争が発生しました。ポルトガル当局は軍を投入し、激しい弾圧が行われ、多数の死傷者と難民が生まれました。以後、国境を挟んだゲリラ戦が長期化し、組織ごとに拠点・作戦・支援ルートを分けながら、農村部の動員と武器調達が進みます。アンゴラの解放運動は、近接するコンゴ(後のザイール)やザンビア、そして広く冷戦構図の中で各陣営の支援を受けるようになり、戦闘は国内問題を超えて国際政治の舞台へと拡張しました。

1960年代末から70年代初頭にかけて、ポルトガルはアンゴラだけでなくモザンビーク、ギニア(ビサウ)でも戦火を抱え、兵力・財政の負担は耐えがたいものになりました。独立運動側も三派の競合による分断が深刻で、都市と農村、北部と中南部の地域差が政治動員のスタイルに影響しました。MPLAは都市労働者や知識人ネットワークを通じた政治教育に強みを持ち、FNLAはザイールとの関係を生かした補給に、UNITAは内陸の村落組織と機動力に強みを持つなど、組織文化に明瞭な差がありました。こうした分散は、植民地権力にとっては分割統治の余地を与え、独立後には内戦の火種として残ることになります。

カーネーション革命とアルヴォール協定—脱植民地化の交渉と破綻

転機は1974年4月25日、ポルトガル本国で発生したカーネーション革命でした。長期の植民地戦争と経済停滞に不満を募らせた若手将校団(MFA)がクーデタを主導し、独裁体制を終わらせるとともに、植民地の戦争終結と脱植民地化を政策課題に据えました。これにより、アンゴラでも停戦と移行政権の設置に向けた交渉が動き出します。

1975年1月、ポルトガル政府とMPLA・FNLA・UNITAの三派は、南ポルトガルのアルヴォールで協定(アルヴォール協定)を結び、独立までの暫定的権力分担、統合軍の創設、選挙の実施などを取り決めました。協定は紙の上では公平を装いましたが、現実には相互不信が根深く、治安維持や統合軍運用をめぐって衝突が続きました。ルアンダや諸都市では武装集団の衝突が頻発し、地方では支配圏の奪い合いが激化しました。政治宣伝と住民動員の競争は、移行期行政のまひを招き、経済活動も混乱に陥りました。

国際環境も火に油を注ぎました。冷戦下で、MPLAはキューバとソ連の政治・軍事支援に近く、FNLAとUNITAは周辺国のザイールや南アフリカ、さらに一部の西側諸国から支援を受けました。1975年後半、南アフリカはナミビア(当時は南アフリカの委任統治下)国境を越えてアンゴラ南部に進軍し、FNLA・UNITA側への軍事支援を強化します。これに対抗してキューバは多数の部隊を送り、MPLA側の軍事力を補強しました。こうした外部介入は、独立前後の権力確定を一層困難にし、アルヴォール協定に基づく統合・選挙の道は事実上閉ざされました。

1975年の独立宣言と国際化する内戦—「独立」と「国家形成」のねじれ

1975年11月11日、ポルトガルの統治終了日と定められたその日に、MPLAは首都ルアンダでアンゴラ人民共和国の独立を宣言しました。ポルトガル国旗が降ろされ、新国家の成立が内外に告げられます。他方で、内陸部ではFNLAとUNITAが連携し、別個の政権樹立を宣言してMPLA政府の正統性に異議を唱えました。独立は達成されたものの、統一的な国家権力の確立は程遠く、独立と同時に内戦が本格化するという矛盾が現実化しました。

内戦の初期段階では、南部に進入した南アフリカ軍とUNITAの連合が急速に北上し、ルアンダ近郊に迫る局面も生じました。これに対し、キューバ部隊とMPLA部隊は主要都市と海岸部を押さえ、国道・港湾・空港を巡る攻防が激しく展開されました。北部ではFNLAがザイール国境の支配を巡って劣勢に立ち、ほどなく影響力を失っていきます。資源面では、カビンダ飛地の石油、北東部のダイヤモンドがそれぞれの軍事行動の資金源として争奪の焦点になりました。石油収入はMPLA政府にとって財政の生命線となり、外国の技術・資本との関係維持が最優先課題となります。

独立直後の国際承認は分裂しましたが、アフリカ諸国と一部の非同盟諸国はMPLA政府を承認し、国際機関への加盟に道が開かれていきます。他方で、西側の一部は当初様子見または対立勢力支持の姿勢を取り、冷戦の緊張はアンゴラの内戦を長期化させました。都市部の行政や教育・保健サービスの再建は戦闘に阻まれ、地方では避難民の移動が続き、地雷や残存武器が長期の安全保障課題として残りました。

社会構成の面では、MPLA・FNLA・UNITAの三派がそれぞれ異なる地域・民族的基盤を持ったことが、独立後の統合政策を難しくしました。MPLAは都市と沿岸部のムブンドゥと混血層、FNLAは北部のバコンゴ、UNITAは中南部のオヴィンブンドゥに比較的厚い支持を有していましたが、これらは固定的ではなく、戦況と支配領域の変化に応じて流動しました。国家形成は、単に中央政府を樹立することではなく、教育・言語・徴税・司法・保安といった制度を地域に浸透させ、複数の記憶とアイデンティティを包摂するプロセスでしたが、戦時の動員論理がそれを阻害しました。

アンゴラ独立という出来事を世界史の中に置くと、いくつかの特徴が見えてきます。第一に、宗主国側の体制変動(カーネーション革命)が独立達成の直接的な触媒となった点です。解放運動の軍事的圧力と国際的環境が本国の政治を揺さぶり、独立の扉を開いたという因果は、他のポルトガル領(ギニア・モザンビーク)にも共通します。第二に、独立が国外勢力の介入を引き寄せ、内戦の国際化を通じて冷戦の代理戦争化した点です。第三に、資源が国家財政と戦争経済の両面で決定的な役割を果たし、石油収入が政治権力の維持と国家建設のスタイルを規定した点です。これらの条件が重なり、独立は「終わり」ではなく長い国家形成の始まりであることが鮮明になりました。

最後に、用語上の注意を添えます。「アンゴラ独立」という語は狭義には1975年11月11日の独立宣言を指しますが、広義には1961年の蜂起から1974年の停戦・交渉、1975年の移行政権期を含めた過程全体を指す場合があります。また「アンゴラ独立戦争」と表現する場合は、通常1961年から1974年までのポルトガルとの戦争期を区切るのが一般的で、独立後の内戦(1975年以降)とは区別されます。学習や叙述の際には、どの段階を対象にしているのか、組織の略称や地名(ルアンダ/ウアンボ/カビンダ)の表記を統一し、年次の対応関係を明確にすることが正確な理解につながります。