イェニチェリ軍団の解体 – 世界史用語集

「イェニチェリ軍団の解体」は、1826年6月にオスマン帝国のスルタン、マフムト2世の下で実行された常備歩兵イェニチェリ軍団の武力的廃止を指します。オスマン史では「吉祥事件(トルコ語:Vak‘a-i Hayriye)」と呼ばれ、首都イスタンブルにおいて軍団兵舎が砲撃され、軍団が壊滅したのち、勅令で正式に解体が布告されました。軍制改革と中央集権化を進める上での決定的転機である一方、都市社会・宗教秩序・財政・外交に連鎖的な影響を及ぼした複合的事件でもあります。本稿では、前史と背景、事件の経過、直後の処置と制度改編、そして長期的影響という四つの観点から、用語の射程を整理します。

「吉祥」とは改革派の自己叙述に由来する評価語で、王権の権威回復と軍の規律再建を「福」と位置づけたものです。しかし、実際には人的損耗、技術ノウハウの断絶、都市社会の動揺を伴いました。したがって、単純な「前近代→近代」への一足飛びの物語ではなく、長期的な制度転換の痛みと政治的意志が交錯した出来事として理解する必要があります。

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前史と背景:軍団の変質と改革の試行錯誤

イェニチェリは14世紀後半に創設された宮廷直属の常備歩兵で、オスマンの拡張を支えた精鋭歩兵として名を馳せました。ところが、16世紀末から17世紀にかけて補充制度(デヴシルメ)の形骸化が進み、兵籍証券(エサメ)の売買による幽霊兵の増加、婚姻や商売の解禁・黙認、都市ギルドやコーヒーハウスへの浸潤などを通じて、職業軍人集団から都市社会に根を下ろした既得権集団へと性格を変えました。俸給遅配と物価高が常態化すると、軍団は宮廷人事や財政に影響力を行使し、しばしば反乱とクーデターに関与しました。

18世紀末、欧州諸国の軍制・財政・行政が近代化を進めるなか、オスマンでもセリム3世が「新秩序軍(ニザーム・イ・ジェディード)」を創設し、西欧式歩兵の育成に着手します。これは専用税源や訓練施設を伴う包括的改革で、イェニチェリの利権を直撃しました。1807年、改革に反発した軍団と都市の不満が結びつき、セリム3世は退位・殺害され、改革は瓦解します。翌1808年には地方勢力を糾合したアレムダル・ムスタファ・パシャが「セクバン・イ・ジェディード」を再試行しますが、宮廷炎上とともに短期で崩壊しました。

マフムト2世(在位1808–1839)はこの苦い経験を踏まえ、衣制と儀礼の刷新、官僚制の引き締め、情報と警察の掌握を地道に進めます。ギルドや宗教勢力、地方有力者との均衡を探りつつ、軍制改革の臨界点を見極め、既存軍団の一気の置換ではなく、段階的な新訓練の導入という迂回策を取る準備を重ねました。ギリシア独立戦争(1821–)の勃発は、帝国の軍事的脆弱性を露わにし、改革の遅滞が帝国の存続を危うくするという危機意識を宮廷に与えます。

こうした経緯の末、1826年初夏、宮廷はイェニチェリの内部に「新式訓練部隊(一般にエシュキンジ〈eşkinci〉と総称される)」を設け、行進・射撃・号令・編成の全面刷新を試みました。公式には軍団の名を残しつつ、その中身を西欧式歩兵へと置き換える構想であり、既得権層には致命的な脅威として映りました。

事件の経過:聖旗掲揚から兵舎砲撃、軍団壊滅へ

新式訓練の布告が伝わるや、イェニチェリは恒例の「大釜を翻す」抗議の儀礼をもって蜂起の意志を示しました。首都イスタンブルの兵舎周辺には動揺が広がり、隊列は宮廷と官庁に圧力をかけるべく集結します。マフムト2世はただちに宗教権威の支持を取り付け、最高宗教院から反逆鎮圧の合法性を裏づけるファトワを得るとともに、宮廷は「神聖旗(スンマーン/サンジャク・イ・シェリフ)」を掲げました。これは国家と宗教の名において忠誠勢力を招集する非常信号で、親政派の部隊、騎兵、砲兵、都市の自警集団が王権側に合流します。

決戦は短期で決しました。王権側は要所に砲兵を配置し、イェニチェリの主要兵舎・広場に向けて一斉砲撃を加えました。防楯も隊列も整えられないまま、軍団は瓦解し、多数が戦死・逮捕・逃散に追い込まれます。数日のうちに抵抗は鎮圧され、宮廷は軍団の廃止を勅令で布告しました。事件後、指導層は処刑もしくは追放、兵籍台帳は焼却・没収され、軍団名・徽章・儀礼は公的領域から消去されました。

なお、戦闘そのものは首都の限られた区域で生起しましたが、象徴的意味は全帝国に及びました。長年帝都の秩序を演出してきた軍楽メフテルの沈黙、大釜・制服・隊列の消滅は、都市の時間感覚や祝祭の景観を一変させ、民衆に時代の転換を可視化しました。

直後の処置と制度改編:新軍創設、宗教秩序の再配線、財政・都市統治の再編

鎮圧の直後、マフムト2世は新軍「アースァーキル・マンスーレ・イ・ムハンメディイェ(勝利あるムハンマドの軍)」の創設を布告し、編制・訓練・制服・音楽・号令を西欧式で統一しました。士官学校・砲兵学校の整備、操典の翻訳、軍楽の西欧化(宮廷軍楽隊、後のムジカ・イ・フマユン)など、軍事文化の細部に至るまで更新が施されます。任官・昇進は文書と査閲に基づくものへ移行し、貴族的な出自や軍団内の派閥ではなく、訓練と実績が重視される方向が打ち出されました。

宗教秩序の面では、イェニチェリと結びつきの深かったベクタシュ教団が反逆の温床と見なされ、多くのテッケ(修行所)が閉鎖・転用され、財産が没収されました。聖職者の一部は追放され、他のスーフィー教団への付け替えが行われます。これは王権が宗教のネットワークに手を入れて都市と軍の連絡回路を切断する操作であり、宗教的多様性の抑制を伴った秩序再編でした。

財政・行政では、兵籍証券(エサメ)の整理と俸給体系の刷新が急務でした。幽霊兵や不正受給の温床となった旧台帳を廃棄し、現役兵員の名簿と給与支払いの一致を徹底します。徴税と監査のための官庁が強化され、首都の警察・消防・検断(物価と秤量の監督)も再組織化されました。イェニチェリが実質的に掌握していた都市の治安とギルドへの圧力が王権の官僚制へ移管され、コーヒーハウスや集会の監視が強まりました。

象徴政治の更新も見逃せません。マフムト2世は衣制の改定(近代式帽章の導入など)や肖像画の掲出、宮廷儀礼・行幸の刷新を通じて、「皇帝と国家の一体化」と「時代の新しさ」を視覚化しました。軍楽の変化、行進のリズム、制服の色彩は、日常の風景として近代化を人々の身体に刻みつけるための装置として機能します。

長期的影響と評価:中央集権と近代化の推進、その代償

イェニチェリ解体は、軍事・政治・社会の三領域で深い余波をもたらしました。第一に、中央集権の進展です。王権は改革を阻む最大の既得権集団を除去し、官僚制と常備軍の二本柱にもとづく統治を強化しました。首都における宮廷クーデターのリスクは大幅に下がり、命令の貫徹性が高まりました。これはのちのタンジマート期(1839–)の法整備・行政改革の前提条件を整える効果を持ちます。

第二に、軍事面の再編成です。新式歩兵と砲兵は、操典・訓練・指揮の点で整合的になり、工兵・測量・軍医などの専門職能が制度化されました。長期的にはこの方向が陸軍の均質化と動員の迅速化をもたらしますが、短期的にはベテラン下士官層の喪失と人材不足が深刻でした。実際、1828–29年の露土戦争では新軍の習熟不足が露呈し、戦場での不利と講和条件の悪化を招きます。近代化は直ちに戦果へ結びつく魔法ではなく、時間を要する制度学習の課題であることが明らかになりました。

第三に、宗教・社会の再配線です。ベクタシュ教団の抑圧は都市と農村の宗教地図を描き替え、バルカンの一部では教団の地下化・離散を生みました。宗教的中間団体の弱体化は、王権と個々の信徒・町人の直接的な関係を強める一方、地域社会の緩衝材を失わせ、局地的な不満の蓄積を招く副作用もありました。都市のギルドとコーヒーハウスは監督下に置かれ、言説空間は管理色を強めます。

第四に、国際関係への波及です。欧州列強はイェニチェリ解体を、東方問題の文脈で注視しました。改革の成功は帝国の延命と勢力均衡の維持に資する一方、失敗は領土問題の顕在化を促すという認識が共有されます。イギリスやフランスの一部は軍事顧問や教範提供などを通じて改革を支援し、ロシアは戦争と外交で圧力を加えつつ、帝国の内政変化を自国の戦略に織り込みました。

評価をめぐっては、二つの相反する像が並立します。一方では、イェニチェリの解体はオスマン国家の自己更新であり、法・軍・行政の統一を可能にした「国家建設の勝利」と捉えられます。他方では、都市社会の中間層を担っていた軍団と関連ネットワークの破壊は、短期的に経済と治安に空白を生み、宗教的多様性を傷つけたという批判も成立します。さらに、改革の推進が上からの権力集中に依存したため、社会的合意の蓄積が薄く、のちの近代化においても市民参加の基盤が脆弱なまま残りがちだったという指摘もあります。

総じて、イェニチェリ軍団の解体は、オスマン帝国が「家産軍と都市の相互依存」という旧来の秩序から、「官僚制と正規軍」による統治へ転じる劇的な分水嶺でした。街頭での砲声と燃え上がる兵舎は、制度の更新が抽象的理念ではなく、具体的な利害と感情の衝突のうちに遂行されることを示しています。事件は近代化の明暗を同時に映し出し、中央の決断と社会の受容、その両方が欠ければ持続的な改革は成立しないという歴史の教訓を物語っています。