イェルサレム – 世界史用語集

イェルサレム(ヘブライ語:エルーシャライム、アラビア語:アル=クドゥス)は、地中海東岸の山地に位置する丘陵都市で、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの三宗教がそれぞれに中心的聖地を擁する場所です。小盆地が連なる尾根と谷の地形、石灰岩の台地、城壁に囲まれた旧市街と放射状に広がる新市街という構成は、自然地理と宗教・政治の歴史が幾重にも重なって形成されました。都市は数千年にわたり征服・破壊・再建を繰り返し、そのたびに支配者の言語・儀礼・建築が地表と地下に堆積してきました。世界史の用語としてイェルサレムを学ぶ際には、単一の時代像に固定せず、地形・宗教・政治が互いに影響し合う動態として捉える視点が重要です。

名称は文脈で揺れます。日本語では「エルサレム」表記も一般的で、ヘブライ語形の転写に近い「エルシャライム」「イェルシャライム」などが併用されます。イスラーム世界では「アル=クドゥス(聖なる)」の呼称が広く、さらに「バイト・アル=マクディス(聖なる家)」に由来する表現も伝統的です。本稿ではご指定の「イェルサレム」を基本としつつ、宗教・時代ごとに異なる呼称が歴史像を形づくることに留意します。

地理的には、都市の核はかつての「神殿の丘(テンプル・マウント)」=イスラームの語で「ハラム・アッ=シャリーフ」に隣接する台地にあり、東にケデロンの谷、西にティロペオンの谷が走ります。旧市街は城壁に囲まれ、区画としてキリスト教徒区・ムスリム区・ユダヤ人区・アルメニア人区が伝統的に区別されますが、その境界は歴史的に固定的ではありません。周辺にはオリーブ山、ダビデの町(シロアム)と呼ばれる古層の遺構、近代以降に発展した西側の新市街などが広がり、都市の重心は時代により移動してきました。

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古代からビザンツへ:神殿の都市、破壊と改造の相克

初期のイェルサレムは、丘陵上の要塞化された集落に始まり、やがてイスラエル/ユダ王国期に王都として整備されました。ソロモン王の名で知られる第一神殿は、祭儀と政治を統合する中心空間として位置づけられ、都市の象徴性を確立します。紀元前6世紀、バビロニアの攻囲により第一神殿が破壊され、住民の一部はバビロン捕囚に遭いました。捕囚からの帰還後、第二神殿が再建され、のちヘロデ大王の大規模改築で巨石の基壇と柱廊に囲まれた壮麗な聖域へと生まれ変わります。今日、ユダヤ教で最も神聖視される「嘆きの壁(西壁)」は、この第二神殿期ヘロデ構造の一部と理解されています。

ローマ帝国の支配のもと、宗教・税制・自治をめぐる緊張は高まり、66年にユダヤ戦争が勃発します。70年、ティトゥス将軍率いるローマ軍が第二神殿を破壊し、都市は荒廃しました。さらに132–135年の反乱(いわゆるバル・コクバの反乱)を経て、ハドリアヌス帝は都市を「アエリア・カピトリナ」として異教都市に改造し、ユダヤ人の立ち入りに制限を課しました。これにより、神殿中心の都市像は大きく断ち切られ、ユダヤ教は神殿祭儀ではなく律法とシナゴーグを中核とする信仰共同体へ重心を移していきます。

4世紀、キリスト教を公認・保護する体制のもと、イェルサレムは新たな宗教地理を得ます。コンスタンティヌス帝と母ヘレナは、キリストの受難・埋葬・復活の記憶に結びつく地を聖定し、聖墳墓教会などの大聖堂を建立しました。都市は巡礼の中心となり、修道院がオリーブ山や荒野に広がり、聖地の記憶をつなぐ教会暦と儀礼が整えられます。ビザンツ期のイェルサレムは、聖遺物崇敬と典礼が都市景観と密接に結びついた「聖都」として再編され、神殿の丘はしばしば廃墟的空間として残りました。

イスラーム期・十字軍・マムルーク・オスマン:重層的統治の都市

7世紀、イスラームの拡大によりイェルサレムはアラブ・イスラーム世界に組み込まれます。正統カリフ時代の支配を経て、ウマイヤ朝期に岩のドーム(クッバト・アッ=サフラ)とアル=アクサー・モスクの整備が進み、神殿の丘=ハラム・アッ=シャリーフはイスラームにおける聖域として整えられました。岩のドームは黄金の八角形を冠する記念建築で、イスラーム初期美術の傑作とされ、都市の天際線を決定づける存在です。ここでの「聖なる配置」は、ユダヤ・キリスト教の記憶地層の上にイスラームの記憶を重ねる行為でもあり、三宗教の重層が視覚化された区域になりました。

11世紀末、十字軍による征服でラテン王国が成立し、聖墳墓教会は西方キリスト教の巡礼体制に組み込まれます。十字軍期の街路・居住区・要塞は、旧市街の地割に痕跡を残しました。1187年、サラーフッディーン(サラディン)が都市を回復して以後、アイユーブ朝・マムルーク朝のもとでイスラーム的都市制度が再整備され、メドレセ(学院)、スーク(市)、サビール(給水施設)、ハーン(隊商宿)が聖地巡礼と通商を支えるインフラとして整えられます。マムルーク期の細密な建築装飾や寄進記録は、都市と宗教の結びつきを物語る重要史料です。

1517年、オスマン帝国がエジプトを制して以降、イェルサレムはオスマンの行政のもとで長期の安定期に入りました。スレイマン1世は16世紀に旧市街城壁を再築し、城門や給水施設を整備して都市の骨格を固めます。オスマン期の行政は、宗教団体(ミッレト)と寄進財産(ワクフ)を通じて聖地の維持と住民サービスを支え、巡礼と市が都市経済の主軸でした。都市は地域の政治中心であると同時に、広域宗教ネットワークの拠点として機能しました。

近現代:委任統治、分割、分断、統合と対立

19世紀、ヨーロッパ列強の東地中海進出と学術探検の潮流のなかで、イェルサレムは巡礼と考古学、宣教と慈善事業の拠点として国際的な視線を集めます。新市街が城壁外に形成され、宗派ごとの教会・病院・学校が建設され、都市は城壁内外の二重構造を強めました。地図作製・発掘・写真術は聖地の可視化を進め、宗教と学問、政治関心が複雑に絡む近代的まなざしを作り上げます。

第一次世界大戦後、地域秩序は大きく変化し、委任統治の枠組みのもとで移民・土地・自治をめぐる対立が激化しました。都市人口は多様化し、旧市街と新市街の社会地図も再編されます。第二次世界大戦を経て、分割と戦争によって都市は東西に分かれ、城壁と緩衝地帯が日常空間を分断しました。のちに再び都市が政治的に再編されると、統治・住民・宗教施設の扱いをめぐる問題が表面化し、国際法・外交・住民生活の三層で複雑な論争が続きます。各宗教の聖地運営は歴史的慣行(いわゆるステータス・クオ)を基礎に調整されますが、祭礼や巡礼、祈りの時間・空間の配分は、しばしば政治的緊張と隣り合わせです。

近現代のイェルサレムを理解するには、都市が同時に「象徴」と「生活の場」であることに注意が必要です。外交文書や国際会議で語られる都市は、象徴的・法的地位をめぐる論争の場である一方、日々の市民は通勤・教育・医療・住宅・水・交通といった具体的課題に直面しています。宗教カレンダーによる巡礼と祝祭のピーク、観光、考古学的発掘と保存、都市開発と景観保全は、互いに影響を与え合いながら都市の時間を刻んでいます。

聖地配置・考古と用語上の注意:重なり合う記憶を読む

旧市街の地図を手にとると、三宗教の記憶が空間として折り畳まれていることがよく分かります。神殿の丘=ハラム・アッ=シャリーフには岩のドームとアル=アクサー・モスクが並び、その西側の下層に第二神殿期の巨大基壇遺構と西壁が接します。キリスト教の中心は聖墳墓教会で、受難・埋葬・復活の場所に重層的な聖堂群が築かれています。オリーブ山とゲッセマネ、ヴィア・ドロローサ、シオンの丘、ダビデの町(シロアム)などの地点は、聖書と伝承、考古学的遺構が異なる強度で重なり、参照体系が宗派・学派ごとに異なるため、用語の使い分けと史料批判が欠かせません。

考古学的には、都市の地下に複数時代の層が密集しており、発掘は宗教的感情・政治・居住の権利と密接に関係します。したがって、遺構の提示は部分的・選択的にならざるを得ず、説明板に記された年代や解釈は学説の一つであることが少なくありません。たとえば「ダビデの町」とされる区域は、青銅器~鉄器時代の水路や防御施設の発見で注目されますが、具体の年代比定や人物比定には幅があり、宗教的・民族的アイデンティティの語りと絡むことで議論が過熱しがちです。見学や学習では、テキスト(聖典・年代記)と遺構(石積み・陶片・銘文)を分けて把握し、互いに照合しながら理解を深める姿勢が求められます。

用語上の注意として、第一に「神殿の丘/ハラム・アッ=シャリーフ」という呼称の使い分けがあります。どちらも同一の空間を指しますが、歴史的議題設定と宗教的感度が異なるため、場に応じた表現が必要です。第二に、旧市街の「四区」は近現代に定着した便宜的区分で、実際の居住・所有・巡礼動線は時代により変化してきました。第三に、宗教施設の管理権や開閉時間、祭礼の実施は歴史的合意と現下の行政が組み合わさって運用されます。これらは静的な「地図」ではなく、交渉と合意の継続によって保たれる制度です。

文化遺産の面では、ヘロデ期の巨石工法、ビザンツのバシリカ、ウマイヤの記念建築、マムルークの学院建築、オスマンの城壁・噴水、近代ヨーロッパ諸国の修道院・病院などがモザイクのように並びます。石材の色、アーチの形、コーニスの断面、細密なタイルやモザイクは、支配者の交代を超えて残る「長い時間」の証人であり、都市を歩く者に時代の層を読み解く手がかりを与えてくれます。巡礼・観光の現場では、宗教儀礼と生活空間の距離感を尊重し、写真や服装、祈りの時間帯への配慮が求められます。

総じてイェルサレムは、地形という器に、三宗教の記憶と複数の帝国・国家の政治が注ぎ込まれてきた「記憶の都市」です。第一神殿から第二神殿、聖墳墓教会、岩のドームという象徴の連鎖は、互いを否定し合うのではなく、重なり合い・相互に影響しながら都市の意味を更新してきました。歴史的争点は少なくありませんが、用語を丁寧に使い、史料と遺構を見分け、宗教的感情と学術的関心の双方を尊重することで、重層都市としてのイェルサレム像は、より立体的に理解できるはずです。