「イタリア蜂起」とは、主に1848年の「諸国民の春」において、イタリア半島各地で起こった一連の反オーストリア・自由主義・民族統一運動の高揚を指す言い方です。とくにミラノの「五日間」(1848年3月18〜22日)とヴェネツィアの独立宣言(ダニエーレ・マニンらによるサン・マルコ共和国の樹立)を中心に、ローマ共和国の成立と崩壊、サルデーニャ王国の対墺開戦(第一次イタリア独立戦争)までをひと続きの流れとして捉える場合に用いられます。日本の教科書や受験用語では、狭義に「ミラノとヴェネツィアの蜂起」を指すことが多いですが、広義には1848〜49年にかけての半島全域の動揺と政治改革の試み全体を含めることがあります。
蜂起の背景には、ロンバルディア=ヴェネツィア王国をはじめ北部を支配していたオーストリア帝国への反発、検閲と警察体制への不満、関税・税制・労働問題をめぐる都市の社会矛盾がありました。さらに、カルボナリやマッツィーニの「青年イタリア」に代表される秘密結社・共和主義運動、1840年代の鉄道と印刷・新聞の発展が、政治的言説と動員を後押ししました。1848年2月のフランス二月革命、3月のウィーン暴動とメッテルニヒ失脚が導火線となり、イタリアの都市は一斉に街路へ出て、バリケード戦・市民兵の組織化・臨時政府樹立へと突き進みました。蜂起は最終的に列強の軍事介入と王政の保守化で後退しますが、その経験は10年後の統一戦争に向けて人材・理念・技術を蓄積させた点で、大きな意味を持ちました。
用語の射程と前史:なぜ1848年に火がついたのか
「イタリア蜂起」という表現は、狭義には1848年3月の北部都市の抗争を指しますが、理解を深めるには1820〜21年、1830〜31年の先行的な蜂起も視界に入れるとよいです。ナポリ王国やピエモンテでは憲法制定を求める軍人・市民の反乱が起こり、短命に終わったとはいえ、立憲主義とナショナリズムの結節点が早くから形成されていました。1830年代にはモデナやボローニャを中心に再び蜂起が起こりますが、いずれもオーストリア軍の介入で鎮圧され、改革は頓挫しました。こうした反復の過程で、地下結社のネットワーク、印刷物による宣伝技術、政治的語彙(国民、権利、統一など)が磨かれていきます。
1840年代の北イタリアは、絹織物・機械工業・商業資本が伸び、都市と農村の関係が密になりました。関税や専売、酒税・塩税の負担は庶民に重くのしかかり、物価の高騰と失業が社会不安を強めます。検閲と治安警察は出版と結社を弾圧しましたが、逆に「反体制の余白」を拡大させ、カフェ・サロン・秘密集会が新しい情報伝達の場となりました。こうした条件の上に、1848年2月のパリの王制崩壊と、3月のウィーン暴動・メッテルニヒ失脚というニュースが波及し、「今なら勝てる」という臨界が生まれたのです。
教会と世俗権力の関係も無視できません。1846年に選出された教皇ピウス9世は当初改革的で、政治犯の恩赦や改革の空気を醸成しました。これが自由主義者に期待を与える一方、半島全体では「教皇の旗のもとでオーストリアを退ける」という夢想も広がり、温度差のある諸勢力が一時的に同じ方向を向く条件が整いました。とはいえ、教皇庁は対墺戦争や急進共和主義には慎重で、のちにこの温度差が露骨な亀裂として現れることになります。
ミラノの五日間とヴェネツィア:都市蜂起の力学
1848年3月18日、ミラノではタバコのボイコット運動を契機に市民とオーストリア軍が衝突し、街角ごとに石畳を剥がして築かれたバリケードをめぐる市街戦が始まりました。学生、職人、店主、貴族の若者までが市民防衛隊に加わり、教会の鐘が合図を送り、女性や子どもが弾薬・食糧・瓦礫運びで支えました。狙撃と屋上からの投石、路地の奇襲が兵站と士気を削り、アルコレやナポレオン時代の記憶が都市の誇りとして動員されます。指揮官ラデツキーは、一時的に都市から撤退して要塞地帯へ下がる決断を迫られ、3月22日にミラノは解放されました。臨時政府が樹立され、サルデーニャ王国への合併を問う住民投票の準備が進みます。
ほぼ同時期、ヴェネツィアでもダニエーレ・マニンとニッコロ・トンマゼオらが主導して蜂起が成功し、かつてのサン・マルコ共和国の名を復活させました。造船所と港湾の労働者、船乗り、職人が共和国軍の中核となり、潟(ラグーナ)という地の利を活かして帝国軍の包囲をしばらくの間食い止めます。共和国は徴税と徴兵、紙幣の発行、糧食の配給など、戦時行政を短期間で整え、市民の結束を維持しようと努めました。外交ではフランスやサルデーニャへの支援要請が繰り返され、印刷物と演説は「自由の古都」という自己像を育てました。
しかし、都市蜂起の力は時間とともに限界を露わにします。長期包囲は飢餓と疫病をもたらし、砲撃に耐える石造の街並みも、補給の途絶の前では無力でした。ミラノはサルデーニャの正規軍との連携で広域戦争に持ち込むことを選び、ヴェネツィアは孤立の中で持久戦を強いられます。都市の熱狂が王国の軍事力と結びつくのか、それとも孤立して消耗するのか——この分岐が、蜂起の命運を左右しました。
拡大と挫折:第一次独立戦争、ローマ共和国、敗北の帰結
ミラノ解放の報に呼応し、サルデーニャ王カルロ・アルベルトは対墺開戦に踏み切り、いわゆる第一次イタリア独立戦争が始まります。各地の義勇兵と正規軍が合流し、ロンバルディアの運命を賭けた会戦が展開されました。しかし1848年7月のクストーツァ会戦でサルデーニャ軍は敗北し、戦略主導権はラデツキーに戻ります。秋には講和が模索される一方、ヴェネツィアは包囲下で抗戦を続け、ミラノ周辺でも緊張が解けませんでした。
1849年初頭、ローマでは教皇ピウス9世の退去後に共和派が主導してローマ共和国が樹立され、マッツィーニが事実上の指導者として社会改革と国民軍の整備に着手しました。ガリバルディの義勇隊は守備の要となり、共和政は短いながらも斬新な立法を打ち出します。ところが、フランス第二共和政の政府はカトリック世論に配慮してローマへの軍事介入を決定し、1849年6〜7月にかけての攻囲戦の末、共和国は陥落しました。この介入は、自由主義とカトリックの微妙な関係、そして列強の思惑がイタリアの進路を拘束した象徴的事件でした。
同じ1849年3月、再起を図ったサルデーニャ軍はノヴァーラ会戦で決定的敗北を喫し、カルロ・アルベルトは退位してヴィットリオ・エマヌエーレ2世が王位を継ぎます。ヴェネツィアは夏まで抗戦しましたが、飢餓とコレラの蔓延、砲撃の激化に耐えきれず降伏しました。こうして1848〜49年の「イタリア蜂起」は軍事的・政治的に後退し、多くの活動家が亡命へ向かいました。各地で導入されかけた臨時憲法や言論の自由は巻き戻され、オーストリアは北部で再び厳格な秩序を敷きます。
ただし、敗北は完全な空白を意味しませんでした。サルデーニャでは1848年憲法(アルベルティーノ憲章)が維持され、議会主義と内政改革の「器」が残りました。亡命者はロンドン、パリ、マルセイユなどで連絡を保ち、新聞・パンフレット・資金集めのネットワークを維持します。工業と金融の伸長、鉄道建設、軍制改革は1850年代のピエモンテを強化し、カヴールの現実外交へとつながっていきました。蜂起の人材と物語は、10年後の統一戦争の舞台に再登場することになります。
余波と評価:失敗の内訳、残された遺産、統一への橋渡し
蜂起が失敗した理由は一つではありません。第一に、軍事面での分散と指揮統一の欠如が挙げられます。市民軍の勇敢さと熱意は十分でしたが、兵站・砲兵・工兵・要塞戦の運用で正規軍に劣り、都市ごとの闘いを広域戦争へ統合する仕組みが脆弱でした。第二に、外交面で列強の利害に翻弄されたことです。フランスはローマで保守的に振る舞い、イギリスは均衡維持を優先し、プロイセンやロシアはオーストリアの秩序回復を黙認しました。第三に、理念の分岐です。王政下の立憲を目指す勢力と、徹底した共和・社会改革を志す勢力の距離が最後まで縮まらず、統一指導部の形成が遅れました。
それでも、蜂起の「遺産」は大きかったと言えます。都市の自治経験、国民軍の組織、徴税・徴兵・救護といった戦時行政の実地訓練、新聞と演説による世論形成、象徴としての旗・歌・記念日など、国家形成に必要な文化的・制度的資本が蓄積されました。ヴェネツィアの紙幣発行やミラノの臨時政府の委員会構成、ローマ共和国の立法は、のちの統一国家の制度設計にヒントを与えます。敗北の体験は「現実主義」への傾斜も促し、カヴール型の外交路線や、王国を核に統合を進める折衷案が支持を得る下地となりました。
社会の記憶の面では、ミラノの「五日間」は市民連帯の神話として、ヴェネツィアは自治と海の共和国の誇りとして、ローマ共和国は自由と殉教の物語として語り継がれました。これらの記憶は、統一後の国家が国民的物語を編む際の重要な素材となり、教育・記念碑・祝祭に反映されます。他方で、1848年の挫折を「外国依存の欠陥」や「急進主義の暴走」として批判する言説も生まれ、統一運動の内部で自己省察を深める契機になりました。
総括すると、「イタリア蜂起」は、1848〜49年にイタリア各地で噴出した自由と統一のための試みの総称であり、ミラノとヴェネツィアの都市蜂起を核に、ローマ共和国と第一次独立戦争を含む広い現象を指します。短期的には軍事的に敗れ、政治反動を招きましたが、中期的には人材・制度・記憶の蓄積を通じて、1859年以降の統一戦争に橋を架けました。用語が狭義/広義で使い分けられる点を意識しつつ、都市蜂起・王国軍・列強介入という三つの軸で捉えると、その全体像が見通しやすくなるはずです。

