イランは、イラン高原を中心にカスピ海・ペルシャ湾・オマーン海にまたがる多様な地形をもち、古代から文明の交差点として独自の文化と国家を育んできた地域です。公用語はペルシア語(ファールスィー)で、シーア派十二イマーム派が多数を占めますが、アゼルバイジャン系トルコ語話者、クルド人、ロル人、バルーチー人、アラブ人など多様な共同体が共存します。首都テヘランは巨大都市圏として政治・経済の中心であり、イスファハーン、シーラーズ、タブリーズ、マシュハドなど歴史都市が各地に点在します。世界史の上でイランは、アケメネス朝・パルティア・ササン朝という古代帝国、イスラーム化後のペルシア文化圏の再編、サファヴィー朝によるシーア派国家の確立、近代の立憲革命と資源近代化、そして1979年の革命以後のイスラーム共和国という連続の中で、常に「東西の間」で独自の道を模索してきました。
本項では、まず地理と社会の基礎を押さえ、ついで古代イランの帝国と宗教文化、イスラーム化から近世のサファヴィー朝、そして立憲革命から現代のイスラーム共和国までを見通します。専門用語に偏らず、主要な出来事としくみを結びつけて説明します。とくに、(1)オアシスと遊牧・定住の交差、(2)王権と宗教権威の関係、(3)交易路と都市のネットワーク、(4)近代の国家建設と資源・外交の三角関係、という四つの視点を念頭に置いて読むと、イラン史が立体的に理解しやすくなります。
イランの歴史はしばしば政治事件で語られますが、実際には家族法や水利、バザールと学寮、詩と庭園、衣食住の文化といった生活の装置が長期にわたり連続しています。ザグロスとアルボルズの山並み、カヴィールとルートの砂漠、カスピ海沿岸の湿潤な低地、ペルシャ湾の港町という地理が、人の移動と国家のかたちを規定しました。こうした「場の条件」を踏まえながら、以下の各節で歴史の流れをたどります。
地理・社会の基礎――高原とオアシス、言語・宗教の多様性、生活の装置
イラン高原は、北にアルボルズ山脈、 west南にザグロス山脈が走り、内陸にはダシュト・エ・カヴィール(塩砂漠)とダシュト・エ・ルート(砂礫砂漠)が広がります。オアシス都市は湧水やカナート(地下水路)に支えられ、都市と農村、遊牧と定住が季節移動や交易を通じて結びつきます。カナートは、山麓から地下で水を導き、蒸発を抑えて耕地と居住地に配る技術で、古代から近代まで都市の存立を支えました。こうした水利の配分は、村落の合意・宗教法・州官の調停が絡む社会的技術でもあり、イラン社会の「見えない憲法」として機能してきました。
人口の多くはペルシア語を話しますが、北西部にはアゼルバイジャン系トルコ語の話者が集中し、北・西にはクルド語、南東にバルーチー語、南西部にアラビア語などが見られます。宗教はシーア派十二イマーム派が優勢で、ナジャフやカズィメインと並ぶ聖地マシュハド(イマーム・レザー廟)が巡礼の核です。他方、スンナ派ムスリム、ゾロアスター教徒、アルメニア教会やアッシリア教会に属するキリスト教徒、ユダヤ教徒など、歴史的少数派も都市や峡谷のコミュニティに根づいています。これらの共同体はバザール(市場)・宗教施設・ギルド・慈善基金(ワクフ)を介して生計と互助を営み、国家との距離を調整してきました。
都市の骨格は、金曜モスク(ジャーミ)、バザール、キャラバンサライ(隊商宿)、浴場(ハンマーム)、神学校(マドラサ)、庭園(バーク)で構成されます。イスファハーンのような都市では、広場を核に王宮・モスク・市場が直結し、政治・宗教・経済の三要素が日常的に接続されました。工芸では絨毯、金属細工、ミニアチュール、タイル装飾が高度に発達し、詩と音楽は生活の核心に位置します。春分のノウルーズ(新年)は、古代イラン以来の季節祭がイスラーム期にも連続した象徴例で、家内の清浄と親族・近隣の挨拶回り、贈り物の交換が社会関係を再確認する儀礼になっています。
資源の面では石油・天然ガスが国家財政の基盤を構成しますが、農業(小麦・果樹・ピスタチオ・サフランなど)、製造業、IT・文化産業も重要度を増しています。物流はペルシャ湾とカスピ海、陸上回廊(トルコ・コーカサス・中央アジア・アフガニスタン方面)を結ぶ複合ネットワークで、歴史的にはシルクロードの南回廊として機能してきました。こうした地理と社会の設定が、古代から現代までの政治構造を理解する前提になります。
古代イランの文明と帝国――アケメネスからササン、ゾロアスターと王権
古代イラン世界の本格的な広域帝国は、紀元前6世紀のアケメネス朝です。キュロス2世(大王)がメディア・リュディア・新バビロニアを併合し、ダレイオス1世の下でサトラップ(総督)制と王の道(ロイヤル・ロード)が整備されました。楔形文字の伝統とアラム語の実用行政文書が併用され、ペルセポリスの壮麗な宮殿群は帝国の儀礼空間でした。ギリシア世界との戦争・交流は、東西の政治文化に長い陰影を落としますが、アケメネス朝は多民族・多宗教の統治に寛容で、宗教共同体の自治(例:ユダヤ人共同体の再建許容)を認めた点で画期的でした。
アレクサンドロスの遠征と後継王国セレウコス朝は、ヘレニズムの都市文化と計量・貨幣・美術がイラン世界に深く浸透する契機となります。前3世紀半ばに興ったアルサケス朝パルティアは、東西交易の要衝として台頭し、重装騎兵(カタフラクト)と騎射戦術でローマと拮抗しました。封建的結合の強い連合王国的性格は、地方貴族の自立と王権の均衡を生み、後代の政治文化に影を落とします。
3世紀に登場するササン朝は、宗教と王権の結びつきを強化して帝国を再編しました。ゾロアスター教は火の神殿と司祭団(モーベド)を中核に国家宗教として位置づけられ、アヴェスターと注釈文献の編纂が進みます。ササン朝はローマ/ビザンツ帝国と長期にわたり対峙し、コスロー1世・2世の時代には東地中海世界に深く介入しました。都市と税制の再編、道路・橋の整備、法学と医学の発展は、イスラーム期の行政の土台になります。7世紀、アラブ・イスラーム勢力の進出は、カーディスィーヤやナフワンドの戦いを経てササン朝を終焉に導きますが、行政・技術・文学語彙は新体制に吸収され、ペルシア文化は形を変えて持続しました。
古代イランの思想的遺産として、善悪二元論や終末観、王の正統(フラワシ)と正義(アーシャ)の観念が挙げられます。王は秩序の守護者として宗教的責務を負い、正義と繁栄は天意の配分と結び付けられました。この「宗教と王権の協働」は、後のサファヴィー朝のウラマーとシーア派法学、イスラーム共和国の法学者統治理論にも長い影を落とします。
イスラーム化と近世の再編――言語の再生、サファヴィー朝の国家、近代への前史
アラブの征服後、行政言語はアラビア語へ転換しましたが、東部イラン(大ホラーサーン)を中心にペルシア語は新しい語彙とアラビア文字を取り込んで「新ペルシア語」として再生します。サーマーン朝やガズナ朝の庇護の下で、詩人フェルドウスィー(『王書』)、ルーミー、ハーフェズ、サアディーらが活躍し、哲学・医学ではイブン・シーナー(アヴィセンナ)、法学・神秘主義ではガザーリーらが世界的な影響を及ぼしました。セルジューク朝はニザーミーヤ学院の設置など制度面で重要で、サファヴィー前夜の宗教・学知のネットワークが整います。
1501年にサファヴィー朝が成立すると、国家は十二イマーム派シーア法を公認の宗教として採用し、レバントやイラクのウラマーを招いて法学・神学の基盤を国内に形成しました。これは、スンナ派を掲げるオスマン帝国・シャイバーニー朝(後のウズベク)との政治的境界を宗教で可視化する政策でもありました。シャー・アッバース1世の時代には、首都イスファハーンが整備され、王のモスク(現イマーム・モスク)、シェイフ・ロトフォッラ・モスク、アーリー・ガープー宮などが広場を中心に配置され、タイル装飾・書・絨毯・金属工芸が黄金期を迎えます。隊商路の保護、アルメニア人商人の移住(ニュージュルファ)、絹の国際取引は、世界商業の連鎖にイランを深く結び付けました。
サファヴィー朝の後、アフシャール朝のナーデル・シャーが短期の征服帝国を築き、続くザンド朝を経て、18世紀末にカージャール朝が成立します。19世紀のイランは、ロシアとイギリスの「グレート・ゲーム」の板挟みとなり、北部領土の割譲、関税自主権の制限、特許・利権の供与に苦しみます。1891年のタバコ利権反対運動は、商人(バザール)とウラマー、都市民衆の連帯を示す前例となり、1905〜11年の立憲革命へつながりました。立憲革命はマジュレス(国会)と基本法を生み、シャリーアと近代法、王権と議会、中央と地方の新たな均衡を模索する実験でしたが、列強の干渉と内紛で安定は容易ではありませんでした。
20世紀以降の国家と社会――パフラヴィーの近代化、1979年革命、戦争と再建、現代の課題
1921年のクーデターを経て、レザ・ハーンが台頭し、1925年にパフラヴィー朝を開きます。レザ・シャーは中央集権化、徴兵制、民法整備、鉄道建設、服制改革、女性の就学推進、衣装の近代化(ヴェールの法的制限)など、強力な近代化政策を推し進めました。他方で言論統制や地方勢力の抑圧も強まりました。第二次世界大戦中、連合国の進駐によりレザ・シャーは退位し、モハンマド・レザ・シャーが即位します。1951年、モサッデク首相は石油国有化を断行しましたが、1953年の政変で失脚し、王権は再強化されます。1960年代の「白色革命」は土地改革・教育・家族法の改編・女性参政などを含み、都市の中産層と農村の構造を変えましたが、急速な近代化は宗教勢力・伝統商業層との摩擦を深め、治安機関(サーヴァーク)による統制が反感を増幅させました。
1978〜79年、宗教者、学生、商人、左派・民族主義者など広範な層が反体制運動に合流し、1979年2月に王制は崩壊、イスラーム共和国が成立します。新体制の特徴は、〈法学者の統治(ウィラーヤト・アル=ファキーフ)〉という理念に基づき、最高指導者が国家の大枠を監督し、選挙で選ばれる大統領・議会・自治体と、監督機関(護憲評議会、専門家会議、公益判別評議会)・革命防衛隊(IRGC)など複線の制度が並存する点です。憲法はイスラームの原則と人民主権を併記し、選挙と宗教的監督の間でバランスを取る設計になりました。司法・教育・文化はイスラームに適合するよう再編され、女性の装い(ヒジャーブ)や公的規範も再定義されます。
新国家は直ちに重大な試練に直面します。1980年、隣国との全面戦争が勃発し、1988年までの長期戦争は甚大な人的・経済的損害をもたらしました。社会は配給・志願兵・防衛産業の育成を通じて戦時体制に適応し、殉教の記憶が公共空間に刻まれます。停戦後は復興と産業の立て直し、人口増加と都市化の管理、教育・医療の拡充が進み、大学進学者や女性の教育水準は大幅に上がりました。文化面では映画・詩・現代美術が国際的評価を受け、都市景観では高速道路・メトロ・新住宅地が拡大しました。
1990年代末には改革派の潮流が強まり、市民社会・法の支配・メディアの自由をめぐる議論が活発化します。他方で、保守・改革の力学、地域安全保障、核開発をめぐる対立、経済制裁と原油価格の変動が、政治と生活に長く影響しました。核問題では、原子力の平和利用と国際的懸念の調整が課題となり、外交交渉と制裁の緩和・再強化が繰り返されました。国家の制度は選挙と監督機構の二重性を保ちつつ、外交・安全保障・経済政策で現実的な調整を続けています。
社会の内部では、若年人口の厚さ、都市と地方の格差、職の創出、住宅と水資源、環境(砂嵐・干ばつ・湖沼の干上がり)、民族・宗教少数派の権利と包摂など、具体的な課題が山積しています。女性は教育・医療・研究・文化産業で大きな存在感を示し、家族法や労働参加をめぐる議論が続きます。ディアスポラは欧米・中東・中央アジア・東アジアに広がり、学術・企業・芸術で活躍しつつ、本国の経済と文化に影響を与えています。経済では、石油・ガス依存からの多角化、国営・準国営の企業と民間の役割、テクノロジーとスタートアップの育成、観光(文化遺産・巡礼・自然)の拡大が論点です。
地域外交の文脈では、イランは古くからのペルシア湾・カスピ海・コーカサス・中央アジアとの結節点として、宗教・言語・貿易のネットワークに深く関与してきました。近代以降は、湾岸アラブ諸国、トルコ、イラク、アフガニスタン、パキスタン、カフカス諸国、ロシア、欧米との多層的関係をマネージし、時に対立・緊張、時に協力・調整を繰り返します。交通回廊(北南回廊など)、エネルギー、難民・移民、麻薬・治安、宗派とアイデンティティという横断的課題が、外交と内政をつなぎます。
総じて、イランを理解する鍵は、古代の帝国以来の「文化の厚み」と、地理・資源・制度の制約の中で針路を選び続ける「政治の現実主義」の交点にあります。庭園の四分割(チャハールバーグ)に象徴される秩序感覚、詩の一行に凝縮される倫理と皮肉、バザールの交渉術、宗教と世俗の緊張と調停――これらが重なり合ってイランという社会を形作ってきました。東西のはざまで培われた「しなやかな持続力」は、今もなお変動の時代を生き抜くための資源であり続けています。

