イリ条約 – 世界史用語集

「イリ条約」は、1881年2月24日にロシア帝国と清朝のあいだで結ばれた取り決めで、1870年代の動乱期にロシアが占領していた新疆のイリ地方(伊犁)をどう処理するかを定めたものです。別名「サンクトペテルブルク条約」または「中露改訂条約」とも呼ばれます。結論としては、イリの大部分を清に返還する一方、ホルゴス河以西の一部をロシアに割譲し、清が900万ルーブルの賠償金を支払う、国境を詳細に画定する、住民の去就を選ばせる、通商・領事の取り決めを整える、という折衷的な内容でした。きっかけは、清朝の内乱(回民蜂起・ヤクブ・ベク政権)とそれに乗じたロシアの軍事占領、清軍による再征服という一連の過程にあり、当初に結ばれた不評の「リヴァディア条約(1879)」を作り直すかたちで最終合意に至りました。条約は新疆の「省」への再編(1884年)と国境の確定に直結し、清とロシアの力関係、そして当時の「グレート・ゲーム」期の中央アジア情勢を映し出す出来事として位置づけられます。

この条約の要所は理解の鍵がいくつかあります。第一に、清は軍事的に盛り返していたため、当初案より多くの領土を取り戻しましたが、対価として賠償や一部割譲、領事・通商上の権利を認めました。第二に、国境線はホルゴス河など具体の地理を基準に引き直され、その後の複数の「界約」で山口や河川の細部まで確定されました。第三に、地域住民の保護と移住選択が定められ、宗教や出自にかかわらず報復を避ける規定が盛り込まれました。以下では、背景、交渉の曲折、条約の中身、そしてその後の展開について、順を追って詳しく見ていきます。

スポンサーリンク

背景――イリ危機と清の再征服、列強の力学

19世紀後半の新疆は、清朝の統治が大きく揺らいだ地域でした。1860年代半ばから「回民蜂起(ドゥンガン反乱)」が広がり、南疆ではコーカンド系のヤクブ・ベクが政権を樹立して広い範囲を支配しました。北疆のイリ地方でも、清の行政と軍事は機能不全に陥り、国境の向こう側からはロシア帝国が政治と安全保障の空隙に目を光らせていました。

1871年、ロシアは治安回復を名目としてイリを占領し、長期の「暫定管理」に入りました。イリは天山北路の要衝で、草原とオアシスが交わる交通の結節点です。ここを押さえることは、東はウルムチ、南はトルファン・カラシャール、西はセミレチエ(ジュンガル盆地とカザフ草原の境界帯)へ通じる道を握ることを意味しました。ロシアは自国のトルキスタン支配の安全化と対英戦略上の緩衝地帯確保を意識していました。

一方、清では左宗棠の遠征軍が1876年以降に北路・南路から進撃し、1877年にはヤクブ・ベク政権を瓦解させ、広範な地域を再征服しました。軍事的主導権が戻ると、清はロシアに対してイリ返還を要求します。ところが、当初交渉にあたった崇厚が1879年にクリミアのリヴァディアで結んだ条約は、イリの大部分を事実上ロシアに残し、賠償・領事・通商でロシアに大幅な譲歩をする内容でした。これは北京朝廷内外の激しい反発を招き、条約は批准されませんでした。

リヴァディア条約の頓挫を受けて、交渉は仕切り直しとなります。清は曽国藩の子で外交に通じた曾紀沢(曾紀澤)を特命使節として派遣し、ロシア外務省との直接交渉に臨ませました。背景には、左宗棠の「塞防」論(まず西北辺境の安定を優先)と、李鴻章の「海防」論(海防と通商を重視)の綱引き、そして清財政の限界という国内事情もありました。ロシア側も露土戦争後の財政と外交の再調整期にあり、イリをめぐる強面一本槍では長期の負担が大きいという現実を計算していました。

交渉の曲折――リヴァディアからサンクトペテルブルクへ

曾紀沢は1880年から翌年にかけてサンクトペテルブルクで粘り強く交渉を重ね、1881年2月24日、ついに新条約に署名しました。ロシア側では外相ニコライ・ギールスらが応じ、清の全権は曾紀沢が務めました。新条約は、リヴァディア条約の枠組みを踏襲しつつも、領土の返還と国境の再画定で清側がより有利な内容を引き出すことに成功しました。

ただし、交渉は一方的な「勝利」ではありませんでした。清はイリの大部分を取り戻す代償として賠償金の増額(900万ルーブル)を受け入れ、また国境線の一部で割譲を認めました。さらに、領事館の設置や通商の便益など、ロシアの経済的影響力を地域に残すことも承知しました。これは軍事的再征服で圧倒し続ける余力が清に乏しかったこと、欧州情勢に配慮するロシアが面子を保てる出口を必要としていたことの折衷でした。

国境画定は条約本文の骨格であり、抽象的な「線」ではなく山脈や河川、峠の名を挙げて具体的に記されました。とくにホルゴス河(コルガス川)を基準とする区間は重要で、ここを境にして西側の狭い地域がロシアに残されました。条約後も、1882年の「イリ界約(ホルゴス河段の勘分)」、同年の「喀什噶爾界約(北東段)」、1883年の「科布多—タルバガタイ界約」など、複数の子約・補足議定書によって細部が詰められていきます。これにより、現在につながる中露(のちの中ソ)国境の基礎線が形成されました。

交渉過程では、住民の扱いが大きな焦点になりました。占領期にロシア行政下で暮らしたムスリムやカザフ、漢人、回族(ドゥンガン)など多様な住民の法的地位、帰属選択、財産の取り扱いは、人道と治安の両面で難題でした。新条約は、宗教・出自を問わず報復を禁じ、居住地にとどまるかロシア領に移るかを一定期間内に本人が選べる原則を定め、引き揚げ・移住に伴う実務を双方で協力して行うとして調整しました。

条約の主要条項――領土・国境・住民・賠償・通商

第一に、領土の帰属です。ロシアは1871年以来占領していたイリの大部分を清へ返還することを約束しました。他方で、ホルゴス河以西のイリ西部の一帯がロシア領として確定され、のちのカザフ側へと連なる帯状の地域が中国側から切り離されました。これにより、イリ盆地はおおむね清側に戻りつつも、西縁にロシアの「舌状地域」が残る形になりました。

第二に、国境線の画定です。条約は、山脈の稜線や峠、河川の流路を列挙し、ベースとなる線を定めました。ホルゴス河の合流点、イリ河の横断点、ウゾン套山(ウゾン峠)、さらに既存の「タルバガタイ議定書(1864)」の線と連結するといった具合に、地理的な基準点を積み重ねる手法が採られました。これは、曖昧な「勢力圏」の発想から、国際法的な「線」へと発想を転換する作業でもありました。条約後の界約で石標の設置や測量が進み、国境管理の近代化が段階的に進展しました。

第三に、住民の保護と帰属選択です。条文は、占領期間中の行為を理由として住民を処罰しないこと(不問・大赦の原則)、宗教と財産の自由を守ること、移住希望者には一定の期限内に国籍と居住地の選択を認め、移動と財産処分を双方が円滑に支援することを定めました。これにより、紛争終結後の報復連鎖や難民化を抑える意図が示されました。

第四に、賠償金と財政です。清はロシアに対して900万ルーブル(銀ルーブル建て)の支払いを約し、その用途を「占領経費」「被害補償」「死亡者の遺族扶助」などに限定する形で明記しました。支払いは批准書交換後の2年以内に分割で行い、総額と期日、手続きが付属議定書で規定されました。これはリヴァディア案(500万ルーブル)よりも増額でしたが、領土返還の範囲拡大と引き換えの妥協でした。

第五に、通商・領事の取り決めです。ロシアの領事館は、内陸の粛州(嘉峪関周辺)やトルファンなど限られた地に設置を認められ、通商路の往来、貨物の通過、商人の保護などについて規定が置かれました。リヴァディア案が広範な領事・通商特権を列挙していたのに比べれば、最終条約は範囲を絞りつつも、ロシアの経済的存在感を一定程度制度化する内容でした。これらの条項は、以後の北西辺境の交易と治安に直接の影響を与えました。

第六に、引渡しの手順です。イリ行政の移管は、批准後一定期間内に段階的に行い、現地での業務引き継ぎは双方の高官が合意した手順に従って実施することが決められました。軍隊の撤収、倉庫や施設の引渡し、税の徴収や裁判の未処理案件の扱いなど、実務の細目は現地委員会が調整しました。これにより、形式的な「返還」が実地で機能するよう配慮がなされました。

影響と後続――新疆省の設置、国境の定着、外交文化の転換

イリ条約の直接の帰結は、新疆の行政再編でした。清は1884年、新疆を形式上の辺境から本土同様の「省」へと格上げし、官制・司法・租税を内地準拠へ近づけました。これは、軍事再征服と国境画定を受けて、恒久的な統治枠組みを整える決断でした。ウルムチ(当時は迪化)に行政中心が置かれ、イリを含む北疆と南疆のオアシス都市群を同一の省として編成する近代的な枠組みが整いました。

国境の定着という点でも、この条約は大きな区切りとなりました。1882年から1884年にかけての追加界約で峠や谷の一本一本にまで線引きが及び、境界標石が設置されました。これは後の中露・中ソ関係で参照される法的な基礎となり、国際法にもとづく対外交渉の出発点のひとつになりました。国境が「地図の上の線」と「現地の標識」の両方で確定されることは、地方行政や警備、交易管理に安定をもたらしました。

住民社会にとっては、短期的には移住・帰属選択の制度が生活を左右しました。とくにカザフや回族(ドゥンガン)など遊牧・半遊牧の人びとにとって、牧地の移動や交易路、親族・部族のネットワークが国境によって切断されることは重大でした。他方で、宗教施設の保護や日常的な商いの継続は、報復の連鎖を避けながら地域秩序を再建していくうえで重要でした。条約は完全に緊張を解消したわけではありませんが、最低限の枠を示したことは確かです。

経済面では、ロシア商人の活動が継続・制度化され、北西ルートの交易は国境管理のもとで再開されました。これは内地の物価や税収にも波及し、清の「洋務」政策が進めた機械化・運輸の試みと結びつく部分もありました。もっとも、沿岸の海上通商に比べれば、北西辺境の交易規模は限定的で、財政の重荷となった賠償の穴埋めは容易ではありませんでした。

外交文化の観点では、イリ条約は清が列強と地図・測量・界標を共有する「近代的国境」の言語に本格的に入っていく転機でした。山や川の固有名、緯度経度、石標番号、付図の作成といった実務は、従来の朝貢・互市の慣行とは異なる交渉術を必要としました。曾紀沢の交渉は、国内の強硬論と実利論のあいだで均衡を探る政治そのものであり、のちの対露・対日交渉にも影響を残しました。

同時に、イリ条約は「完全な勝利」でも「完敗」でもない中間解にとどまったため、評価は一枚岩ではありません。左宗棠らは領土返還の実質を重視して肯定的に捉え、他方で国内の一部には賠償と割譲、領事・通商の容認をもって不満を抱く声もありました。歴史的に見れば、軍事・財政・国際環境という制約の中で、清が取り得た現実的な妥協の一つであったと言えます。

最後に、用語の整理です。日本語で「イリ条約」と呼ぶとき、たいていは1881年のサンクトペテルブルクでの最終条約を指しますが、しばしば1879年の「リヴァディア条約(未批准)」と混同されます。両者は内容が大きく異なり、前者は返還範囲が広く、賠償が増額され、国境が明確化された点に特徴があります。背景には、清の再征服と国内世論、ロシアの対外事情というタイミングの差がありました。この違いを押さえておくと、イリ条約の性格とその後の新疆統治の流れがより立体的に見えてきます。