インド大反乱とは、1857年に英領インドで勃発し、翌1858年まで広範に続いた武力蜂起を指す用語です。発端は東インド会社のインド人傭兵(セポイ)の反乱でしたが、瞬く間に北インドの都市と農村へ波及し、旧ムガル帝国の権威、藩王・地主・宗教勢力、都市職人や農民の不満が結びついた大規模な社会政治運動へ発展しました。メーラトの蜂起とデリー奪取、アワド(アヨーディヤー・ラクナウ周辺)やカーンプル、ジャーンシーなどの攻防は、会社統治の矛盾を一挙に噴出させ、最終的にはイギリス本国が統治機構を会社から王冠へ移す大転換を招きました。反乱は地域により性格が異なり、「セポイの叛乱」「第一次独立戦争」などと呼称が分かれますが、いずれにしてもインド近代史の分水嶺であったことに変わりはありません。本稿では、発生の背景、蜂起の展開、鎮圧と終結、帰結と制度改革、歴史的評価という観点から、用語理解に必要なポイントを分かりやすく整理します。
発生の背景:会社統治の歪みと兵士・農村の不満
反乱の背景には、東インド会社統治の急拡大と、それに伴う軍事・財政・社会の歪みがありました。会社は19世紀前半に「失権の原理(ドクトリン・オブ・ラプス)」や条約改定を通じて藩王国の併合を加速し、サタラ、ジャンシー、ナーグプル、アワド(1856年)などを直轄地化しました。これは王統や地方エリートの政治的基盤を切り崩し、宮廷・官僚・軍人・祭祀に連なる多くの生活世界を不安定化させました。
農村では、土地制度と税制の変更が階層関係を揺さぶりました。ベンガルの恒久地代制、北西部のライヤットワーリー制、アワドのタルクダール(地主)に対する政策変更などは、地主と小農の双方に負担と不安をもたらし、徴税の厳格化や裁判・競売の普及が伝統的な保護関係を解体しました。職能と市場の構造変化、綿工業の国際競争、鉄道と電信の導入は、利益を生む一方で既存の生業に打撃を与え、都市の職人・商人層にも不満が広がります。
軍事面では、セポイの待遇と規律が火薬庫でした。海外出征はカースト規範に触れると恐れられ、手当と昇進の不公平、武器・装備の更新に伴う不安が蓄積していました。決定打となったのが、エンフィールド小銃の紙巻薬包に牛脂・豚脂が塗られているという風説です。口で薬包を噛み切る訓練は、ヒンドゥー教徒とムスリム双方の宗教的禁忌に触れると受け止められ、兵士たちの不信と憤激を一気に爆発させました。宗教の領域への侵犯感、強制的同化への不安、宣教師活動の拡大などが、経済・政治の不満と結びついたのです。
さらに、会社統治は「法と契約」の名の下に在地秩序を急速に再編し、地元の名望家や王権との儀礼・互酬の回路を切断しました。西欧的裁判と官僚制の導入が公正をもたらす一方、在地社会にとっては距離と異物感を生み、生活世界の政治化を促しました。こうした多層の不満が、1857年の春に臨界点へ達します。
勃発と拡大:メーラトからデリー、アワド・カーンプル・ジャーンシー
1857年5月10日、北インドのメーラトで、薬包問題などを背景にセポイが蜂起し、拘禁中の兵士を解放して武装蜂起に踏み切りました。蜂起兵は直ちにデリーへ進み、老帝バハードゥル・シャー2世(ムガル最後の皇帝)に謁見して名目的主権者と仰ぎ、デリーの占拠に成功します。ここで帝国の名義を得たことは、反乱に象徴的な正統性と動員の言語を与え、周辺地域へ波及する強い合図となりました。
アワドでは、併合で地位と収入を失った貴族・タルクダール(大地主)と農民が共振し、ラクナウや周辺の城砦・町場で激しい攻防が続きました。カーンプルではナーナー・サーヒブの名の下に反乱勢力が台頭し、欧州人居留地の包囲と悲惨な虐殺事件が国際的非難と報復の連鎖を生みました。ジャーンシーでは女藩王ラクシュミー・バーイーが卓越した指導力を発揮し、周辺のマラーター勢力と連携しながら抗戦しました。中部インドではターンティヤー・トーペーが機動戦を展開し、反乱の火点を持続させます。
一方、パンジャーブ、ラージプート諸邦、シク王国の旧領、ネパール・ゴルカ兵(グルカ)などは概して会社側に立って動員されました。彼らは雇用と政治的利害、地域間の競合、宗教・共同体の文脈から計算して参戦し、反乱の広域化を相殺する力として機能しました。交通・電信の掌握、河川・要塞の制圧、砲兵運用の差は、局地戦の趨勢に大きく影響しました。
都市では行政府・兵営・弾薬庫・電信局・橋梁の掌握が早期の勝敗を分け、農村では徴税・治安・食糧の配分権をめぐって村役場や地主の立ち位置が揺れ動きました。反乱は一枚岩ではなく、旧支配者の復権を志向する動き、宗教的規範の防衛、租税・地代の軽減を求める運動、兵士の待遇改善と名誉の回復など、複数の動機が絡み合っていました。
鎮圧と戦争の終結:デリー再占領、ラクナウ救出、ジャーンシーの戦い
会社軍(後にはイギリス本国軍の増援を含む)は、パンジャーブ・ビハール・ベンガル方面から機動し、要衝を段階的に奪回しました。1857年9月、激烈な市街戦ののちデリーは再占領され、ムガル宮廷は崩壊、バハードゥル・シャー2世は退位・流罪に処されます。カーンプルでは報復的な処罰が行われ、復讐の連鎖が住民に重い傷を残しました。
ラクナウでは包囲された居留地(レジデンシー)をめぐって二度の救出作戦が試みられ、1858年初頭に決定的な奪還が実現します。中部インドではラクシュミー・バーイーが果敢に抗戦し、ジャンシーとガーリヤードでの戦闘は反乱の象徴的場面となりましたが、最終的には英印連合軍の兵力集中と砲兵力に押し切られました。ターンティヤー・トーペーの遊撃も、補給と同盟の限界から次第に消耗します。
鎮圧過程では、英印側による厳罰と広範な報復が行われ、多数の処刑・財産没収・村落ペナルティが課されました。反乱側による殺害・掠奪もまた多くの犠牲を生み、地域社会に深い分断と怨恨が残りました。軍事的には1858年半ばまでに主要拠点が制圧され、散発的抵抗は残りながらも大規模戦闘は収束していきます。
帰結と制度改革:王冠統治へ、軍・藩王国・土地制度の再編
最大の帰結は、統治の主体が東インド会社からイギリス王冠へ移されたことです。1858年のインド統治法によりインド省(ロンドン)と副王政府(デリー)が制度化され、君主は「インド皇帝/女帝」の称号を帯び、会社の商業的性格は政治的官僚制へと置き換えられました。これに伴い、併合政策の見直しが行われ、「失権の原理」は事実上停止され、忠誠を示した藩王国は地位を保障される方向へ転じます。宗教の不干渉が明確化され、宣教師活動と行政の距離が意識的に取られるようになりました。
軍制改革では、欧州兵とインド兵の比率が引き上げられ、砲兵・重要拠点は本国兵主体で保持されました。出自の異なる連隊配置(宗派・地域のミックス)、武器・補給の統制、軍紀の再訓練が進み、ゴルカ/シク/パンジャーブ系の部隊が重用されます。通信・鉄道・運河の整備は、軍の迅速な展開と行政の可視化に資するインフラとして一層推進されました。
土地と財政では、アワドのタルクダールの一部復権や租税の調整が行われ、地方エリートとの協調を通じた安定化が図られます。他方、法典化・裁判制度・地籍の整備が進み、統一的な行政基準が広域に及びました。政治面では、1870年代以降の限定的な自治拡大、1909年の議会改革、1919年・1935年の段階的権限移譲へとつながる「漸進的改革」路線が採られ、民族運動と交錯しながらインドの政治空間が変容していきます。
評価と歴史的意義:反乱か独立戦争か、記憶の政治
インド大反乱は、史学上さまざまに評価されてきました。イギリス側の古典的叙述では「セポイの反乱(Mutiny)」として軍紀と秩序の問題に還元されがちでしたが、インドのナショナリスト史観では「第一次独立戦争」として民族的解放の嚆矢と位置づけられます。今日では、双方の中間に立ち、兵士の不満、農村と都市の社会経済的圧力、宗教・儀礼の侵犯感、旧支配層の利害、そして帝国の近代行政の衝撃が複合して起きた「多発性の反乱」として理解する見方が広がっています。
地域ごとの差異も重要です。アワドでは地主と農民の反英連携が顕著で、中央インドでは藩王と都市層の政治力学が前面化しました。パンジャーブやベンガルでは反乱の広がりが限定され、会社側の動員が迅速でした。こうした非対称性は、反乱を単一の民族戦争として語ることの難しさを示す一方、後の民族運動がなぜ広域の連携と統一的指導を必要としたかを教えてくれます。
記憶の政治において、ラクシュミー・バーイー、ターンティヤー・トーペー、ナーナー・サーヒブらの物語は、文学・演劇・映画で英雄譚として語り継がれ、記念碑や博物館、学校教育の中で地域アイデンティティと国家物語を架橋してきました。他方、報復や虐殺の記憶、宗派間・共同体間の脆い関係もまた、近代以降の政治対立に影を落としています。
総じて、インド大反乱は、帝国と在地社会が正面から衝突した瞬間であり、近代統治の制度化と民族運動の誕生を同時に促した契機でした。反乱の敗北は直ちに独立をもたらしませんでしたが、王冠統治への転換、行政と軍の再編、政治改革の導入、近代インフラの拡張は、やがて20世紀の自治拡大と独立運動の舞台装置を整えることになりました。反乱を学ぶことは、制度と儀礼、宗教と経済、軍事と社会の複雑な絡み合いを理解し、帝国の秩序と抵抗がどのように相互規定的であったかを捉える手がかりになるのです。

