「インド統治法(1935)」は、英領インドの政治制度を大きく組み替えた近代最大級の統治改革で、州(プロヴィンス)における責任内閣制の本格導入、選挙と有権者の大幅拡大、司法と財政の再編、ビルマ分離や州境の見直しなど、植民地統治の枠組みを根本から作り替えた法律です。特徴は二つあります。第一に、1919年法の「二元統治(ディアーキー)」を州レベルで廃止して、選挙で選ばれた閣僚に広い行政分野を委ねたことです。第二に、インド全体を〈直轄州+藩王国〉が参加する「連邦(Federation of India)」へ移行させる構想を掲げたことです(こちらは諸条件が整わず未実施に終わりました)。改革は独立を与えるものではありませんでしたが、1937年選挙で誕生した州内閣の経験、司法・財政・選挙制度の整備は、戦後の独立・憲法制定へ直結する実務基盤となりました。ここでは、背景と狙い、制度改革の中身(州・連邦・選挙・財政司法・行政区画)、運用と政治の動き、評価と限界、遺産と影響という観点から、要点をわかりやすく整理します。
背景と狙い:1919年法の限界克服と「連邦」構想
第一次大戦後の1919年法は、州に二元統治を敷いて一部分野の行政を「責任大臣」に委ねましたが、治安・財政など中枢領域を知事と官僚が握り、改革は度々行き詰まりました。1927年のサイモン委員会は制度の再検討を進めましたが、インド人委員不在のため大規模なボイコットを受けます。これに対抗して各勢力は統一国家・普通選挙を唱える報告(ネルー報告)を提出し、1930〜32年の円卓会議では、藩王国の地位や宗派・少数者代表、中央—州の権限配分をめぐる複雑な交渉が続きました。こうした過程を経て、イギリス政府は〈州の責任政府化を拡大〉しつつ〈インド全体を連邦へ〉という折衷案にたどり着き、包括的な統治法が1935年に成立します。
改革の狙いは、三つに要約できます。第一に、州レベルで本格的な議院内閣制を実施し、政治の責任をインド人内閣に担わせることです。第二に、藩王国を含む「連邦」へ枠組みを拡大し、英本国の責任を段階的に軽減することです。第三に、選挙・司法・財政・通貨制度を近代的に整備し、統治の安定と予見可能性を高めることでした。
制度改革(州):二元統治の廃止と責任内閣制、知事の特別権限
1935年法の中核は、州(プロヴィンス)で二元統治を廃止し、教育・保健・農業・工業・地方自治・公共事業など広範な行政分野を、議会多数に立脚する「州内閣(ministry)」に委ねた点です。州議会下院は公選によって構成され、内閣は議会に対して連帯責任を負います。予算編成や条例立法の主導権も大きく拡張され、1919年法より一段進んだ〈責任政府〉が制度化されました。
ただし、知事(Governor)には依然として強力な「特別責任(special responsibility)」と「裁量権(discretion)」が付与されました。具体的には、治安・公共秩序・少数者保護・藩王国との関係・財政の健全性などに関し、知事は必要と判断すれば内閣の勧告に従わない、決定を差し止める、さらには「第93条」に基づいて州議会を停止し〈知事統治〉(Governor’s rule)に移行することが可能でした。つまり、〈二元統治の廃止=完全な自治〉ではなく、非常時に本国側が統治を掌握できる安全弁が温存されたのです。
制度改革(中央・連邦):未実施の「インド連邦」、二院制の設計
1935年法は、〈直轄州+藩王国〉からなる「インド連邦」を樹立し、中央に二院制の連邦議会(上院:国務評議会/下院:連邦議会)と責任政府を置く構想を示しました。藩王国は〈条約に基づく自発的参加〉が前提で、参加すれば上院で大きな比重を持つ仕組みでした。しかし、藩王側の主権・内政裁量の確保や、中央税源の配分、王冠と副王の権限などで合意が整わず、「連邦」部分は発足しません。したがって、中央レベルでは従来の副王政府と立法評議会の延長上にとどまり、〈州での自治拡大〉が先行する「半身の改革」となりました。
連邦が未発足でも、中央機構にはいくつかの重要な新設・改編が伴いました。1937年に〈連邦裁判所(Federal Court)〉が設置され、中央—州・州—州間の紛争、憲法問題の付託審理が始まります(最終上訴はなおロンドンの枢密院でした)。また、通貨・金融の安定に関しては、直前の1934年法に基づき〈インド準備銀行(RBI)〉が1935年に開業し、中央銀行制度が本格稼働しました。これらは、将来の主権国家の制度基盤として機能していきます。
選挙・有権者の拡大:史上最大規模の限定選挙と代表枠
1935年法に基づく選挙は、1919年法より格段に大規模になりました。有権者は識字・納税・不動産などの資格要件こそ残ったものの、地方自治体の納税者や農村の地主・テナント層、教育資格者などを広く取り込み、従前よりはるかに多くの成人が投票に参加できるようになりました。女性参政も限定的ながら拡張され、都市と農村の政治参加の地図が塗り替えられます。
同時に、宗派別・コミュナルな代表枠は大きく残りました。ムスリム、シク、ヨーロッパ系、アングロ・インディアン、商工会議所、大学、地主、労働者、指定カーストなど、複数の特別選挙区や指定議席が設けられ、共同体ごとの代表性を制度化しました。これは多様性の反映という積極面を持つ一方、政治競争が共同体の線に沿って固定化され、〈共通の市民的代表〉を育てにくいという難点も抱えました。
財政・司法・行政区画:連邦財政の設計、連邦裁判所、州境の再編
財政制度では、〈中央—州の税源配分〉が詳細に定められ、関税・所得税などの中央税、土地収税・酒税などの州税、共有税の分担が整理されました。補助金と交付税の枠も設けられ、州の責任政府化に耐える財政の骨格が整えられます。通貨・銀行はRBIの管理下で一体化が進み、為替・公債の運用も近代化しました。
司法では前述の連邦裁判所が新設され、各プレジデンシー高等法院とともに〈司法審査〉の回路が整いました。行政区画の面では、〈ビハールとオリッサの分離(オリッサ州の独立)〉、〈シンド州のボンベイからの分離〉、〈北西辺境州(NWFP)の設置の再確認〉などが行われ、〈ビルマ(ミャンマー)のインドからの分離〉(1937年施行)も大きな変更でした。さらに〈アデン(港湾都市)のインドからの分離〉も実施され、帝国内の行政地図は大きく描き替えられます。
運用と政治:1937年選挙、州内閣の誕生と辞職、戦時への移行
1937年、史上最大規模の州選挙が実施され、複数の州で選挙結果に基づく〈インド人の州内閣〉が誕生しました。国民会議派(コングレス)はマドラス、ボンベイ、中央州、ユナイテッド・プロヴィンシズ、ビハール、オリッサなどで政権を握り、教育拡充、農村債務救済、労働法整備、言語・文化政策、地方自治の強化などに着手します。他方、ベンガルやパンジャーブ、シンドなどでは地域政党・連合政権が続き、宗派・地域・地主勢力のバランスの上に政治が営まれました。
この〈自治期〉は長くは続きません。1939年の第二次世界大戦勃発に際し、英印政府がインドの意向を問わず参戦を宣言すると、国民会議派の州内閣は抗議して一斉辞職します。以後、知事の裁量と官僚機構が州統治を引き継ぎ、〈第93条〉による〈知事統治〉の局面が各地で生じました。戦時の配給・物価統制・検閲・治安法の運用は、改革で広がった政治空間を再び狭め、ベンガル飢饉(1943年)の悲劇は制度の限界を露呈させました。
評価と限界:大きな一歩、長い影
1935年法は、州の責任政府化と選挙の拡大という点で〈大きな一歩〉でした。議院内閣制の実地運用、予算・条例・委員会・質疑の慣行、地方行政・教育・保健の具体改革は、独立後の州政治・行政の土台となります。連邦裁判所や中央銀行の制度化、財政連邦主義の設計は、戦後のインド憲法と計画経済の基礎にもなりました。
一方で、〈知事の特別権限〉や〈非常時の本国統制〉、〈宗派別選挙区〉は、民主化の天井と分断の制度化を同時に意味しました。中央連邦構想の未発足は、〈中央の責任政府化〉を先送りし、政治の重心を州に偏らせました。州内閣の経験は有益でしたが、戦時の一斉辞職と知事統治は挫折感を残し、植民地統治の限界を再確認させる結果にもなりました。
遺産と影響:独立・憲法への橋、行政・司法・財政の継承
総じて、インド統治法(1935)は、独立までの〈最後の大改造〉として、制度と人材の両面で決定的な遺産を残しました。州で鍛えられた政治家・官僚は、独立後に州首相・大臣・行政官として即戦力となり、議会運営や予算・委員会の手続は新憲法下でも滑らかに移行しました。連邦裁判所と高等法院の経験は最高裁判所の設計へ、中央銀行・財政配分の仕組みは計画と連邦財政の運用へとつながりました。行政区画の改編やビルマ・アデンの分離は、帝国内の再編とインドの地理的定義を明確化する効果も持ちました。
同時に、この法律は〈分断の政治〉の回路も残しました。宗派・共同体別の代表枠は、協調と摩擦の両方を制度的に再生産し、のちの分割独立や少数者政治の基調に影響を与えました。〈中央の連邦〉が成立しなかった事実は、戦後しばらくの間、強い中央と多様な州の関係をどう設計するかという難題を残します。だからこそ、1935年法を学ぶことは、インドの〈連邦制〉と〈民主主義〉が抱える宿題の起点を理解することにつながるのです。

