インドネシア国民党 – 世界史用語集

インドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia, PNI)は、スカルノの指導下で1927年に創設された民族主義政党で、植民地末期の大衆動員から独立革命、1950年代の議会政治、スカルノ期「指導された民主主義」の与党勢力として、そして1965年の政治危機後に新秩序体制へ組み込まれて姿を変えるまで、インドネシア近現代政治の中心的役者でした。PNIは、農民・零細自営層を象徴する「マルハエン(Marhaen)」の理念と国家主導の近代化を掲げ、植民地当局への非協力・民族資本の育成・社会的平等を訴えました。1955年の初の総選挙では最大政党となり、その後はナサコム(民族主義・宗教・共産主義の共存)体制の中で国家運営を担いますが、1965年の「9月30日事件」を契機に党内が粛清と分裂に見舞われ、1973年の政党統合でPDI(民主党)へ吸収されました。現在、メガワティ・スカルノプトリの率いるPDI-P(闘争民主党)がPNIの歴史的系譜を自認しています。本稿では、成立と植民地期、独立革命と議会期、指導された民主主義下の役割、1965年危機と新秩序下の変容、思想・組織・支持基盤という観点から要点を整理します。

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成立と植民地期:スカルノの登場、PNI誕生と弾圧、後継諸派

PNIは1927年、バンドンでスカルノら若手民族主義者によって創設され、当初は「インドネシア民族同盟(Perserikatan Nasional Indonesia)」と称しました。翌1928年に「インドネシア国民党(Partai Nasional Indonesia)」と改称し、民族自決・反植民地・独立を明確に掲げ、演説・小冊子・新聞を通じて都市の学生・職人・鉄道や港湾の労働者、地方の名望家に訴えかけました。教育・宣伝・大衆集会を軸に、非暴力の直接行動(不買・請願・非協力)を重ね、当局の検閲や結社規制に対しても巧みに活動の場を広げました。

急速な動員は植民地政府の警戒を招き、1929年末にスカルノら幹部が一斉検挙されると、1931年にPNIは自解散に追い込まれます。空白を埋めるため、二つの系譜が生まれました。第一は、スカルノに近い活動家が1931年に結成したパルティンド(Partindo)で、宣伝と大衆闘争を重視する「実践的民族主義」を標榜しました。第二は、ハッタとシャフリルらが1932年に立ち上げた「プンディディカン・ナショナル・インドネシア(Pendidikan Nasional Indonesia, 通称PNI-Baru=新PNI)」で、理論教育と非協力、組織の規律を重視し、長期の政治教育を通じて幹部養成を進めました。両者は戦術と組織文化が異なり、ときに競合しましたが、共通して民族自立への道を模索した点で同時代の車の両輪でした。

1934年、当局は指導者の流刑(ハッタ・シャフリルのバンダネイラ島、スカルノの各地転住)で運動を封じ、1930年代後半には弾圧と不況、また宗教・地域の分断が重なり、合法的民族運動の空間は大きく縮小します。その一方で、印刷・学校・青年団・互助会が細く長くつながり、占領期に再点火される人的ネットワークの基盤が温存されました。

独立革命と議会期:戦後再建、1955年総選挙で第一党へ

1942年の日本軍占領は、植民地行政を解体しつつ青年の組織化(義勇軍PETAや青年団)とインドネシア語メディアの拡張を促しました。1945年8月の独立宣言後、PNIの名は各地で復活し、1946年に全国政党として再編されます。この戦後PNIは、スカルノのカリスマを象徴資本としつつも、日常の政党運営では官僚・教師・企業人・地方名望家が中核を担い、地方組織と国会・内閣の両面で影響力を広げました。共和国内閣の構成では、マシュミ(イスラーム系)、社会党、国民党が連立や勢力争いを繰り返し、PNIは「国家建設の中核」を自認して行政の継続性を強調しました。

1950年に単一国家となると、議会制民主主義の下で政党政治が本格化します。1955年の初の総選挙でPNIは得票約二割強を獲得し第一党となり、国会でも制憲議会でも最大会派の一つとして主導権を握りました。PNIの支持は、中部・東ジャワの行政・教育関係者、都市の中間層、国営企業の労働者、地方の名望家層に厚く、農村でも「地主と小作の調停」「灌漑・道路の確保」など実務的課題に取り組むことで票田を固めました。外交では非同盟・反植民地主義を掲げ、国内では経済ナショナリズムと産業育成、官僚制の拡充と秩序の維持を訴えました。

しかし、多党乱立と政策対立は内閣を不安定にし、地方反乱(PRRI/Permesta)やインフレ、汚職批判が政治の士気を下げます。PNIは時にPKIや宗教政党と戦術的に協調し、時に対立する「連立の政治」に適応しましたが、議会制の統治能力に対する国民の不満が蓄積する中、スカルノが提示する新たな政治枠組みへ徐々に接近していきます。

「指導された民主主義」とナサコム:与党勢力としての役割と左傾化

1957年以降、スカルノは議会不信と国家統合の危機を背景に「指導された民主主義」を唱え、民族主義(ナショナリス)・宗教(アガマ)・共産主義(コミュニス)の三潮流の協調=ナサコムを国是化しました。PNIはこの新体制の主柱であり続け、国家主導の経済(国営企業の拡張、外資の管理)、反帝国主義外交(西イリアン回復、アジア・アフリカ連帯)、社会政策(教育・衛生・価格統制)を推進しました。党内には、PKIとの協調を重視する左派(アリ・サストロアミジョヨら)と、宗教勢力とのバランスや官僚秩序を重視する温和派(オサ=ウセプ派)などの潮流が共存し、政策選好と連立相手の選定で揺れ動きました。

イデオロギー面では、スカルノが提示した「マルハエン主義(Marhaenisme)」がPNIの大義名分となり、小自作農・零細都市民の自己解放を国民経済の中心に据える語彙が整えられました。これはマルクス主義の階級分析を土着化した言語としても機能し、土地問題・小商人保護・国民資本の育成を正当化する論理を提供しました。他方、農村での土地紛争や都市労働争議では、PNI系組織とPKI系組織の競合・連携が混在し、しばしば地域ごとに異なる力学を生みました。

60年代前半、国家動員と対外強硬路線(西イリアン、対マレーシア「コンフロンタシ」)が進むにつれ、軍(特に陸軍)と左派勢力の緊張が増し、PNI内部の路線対立も深まります。党はスカルノ支持の下にナサコム維持を目指しましたが、現実の政局は不安定化へと傾斜していきました。

1965年の政治危機と新秩序下の変容:粛清・分裂・政党統合

1965年9月30日夜の将官殺害事件(通称「9月30日運動」)は、陸軍の反撃と反共キャンペーンを誘発し、PKIが壊滅的打撃を受ける一方、PNIも「左派協調」の疑いで地方組織が粛清の対象となりました。党本部はスカルノ路線の継続を唱えるも、各地で逮捕・処分・解任が相次ぎ、党の基盤は急速に縮小します。PNI内部では、対PKI強硬・反共を前面に出す「オサ=ウセプ」系が主導権を握り、党名に「マルハエン前線(Front Marhaenis)」を付した系譜が台頭しましたが、実力は新秩序の政治枠組みに依存する状態でした。

1966年にスハルトが権限を掌握し、1967年に大統領へ就任して「新秩序」体制が本格化すると、政党の再編と統制が急速に進みます。1973年、政府は多党乱立の解消を名目に政党統合を実施し、民族主義・世俗諸政党(PNI、IPKI、Murba、カトリック党、プロテスタント系Parkindoなど)が「インドネシア民主党(PDI)」へ合同させられました。こうしてPNIは独自の党としての歴史に幕を下ろし、体制内野党としてのPDIに吸収されます。PDIはその後も分裂と合流を繰り返し、1990年代末の民主化(改革期)を経て、メガワティ・スカルノプトリが率いるPDI-P(闘争民主党)がPNIの「理念的後継」を標榜して台頭しました。

思想・組織・支持基盤:マルハエン主義、官僚—大衆の二層構造、地域分布

PNIの思想核はマルハエン主義です。これは、植民地資本と在地の大地主の狭間で搾取される小規模生産者(マルハエン)を国民経済の主体と見なし、国家がインフラ・教育・信用・市場の整備を通じて彼らの生産性と生活を引き上げるというビジョンでした。民族資本の育成、国営セクターの役割、外国資本の規制、土地と信用の改革、教育の普及は、PNIの政策パッケージを形作りました。

組織面では、中央—州—県—支部の階層に加え、職能・地域の大衆団体、青年・女性組織、文化ネットワークを結合させ、選挙期には戸別訪問、歌と劇の宣伝、識字教室や互助金庫を通じた基層の接触を重視しました。同時に、官僚・教師・国営企業の管理職など「制度の担い手」が党の屋台骨を形成し、行政の継続性を訴える「秩序の政党」という側面も強く持ちました。こうした二層構造は、都市と農村の橋渡しに強みを発揮した一方、急進的改革や自発的運動への対応では硬直性を生みやすい弱点ともなりました。

支持の地理分布は、中・東ジャワ、スマトラの一部の都市、バリやヌサ・トゥンガラの地域で相対的に強く、イスラーム政党が強い西ジャワや内陸農村、PKIが強い一部の農村地帯では競合が激しくなりました。宗教との関係では、世俗主義・多宗教共存を掲げ、宗教団体との対話を重視したものの、地域によっては緊張や競争が避けられませんでした。

歴史的意義と射程:独立国家の「世俗ナショナリズム」の器

PNIは、インドネシア国家の世俗ナショナリズムを受け止める制度的「器」を提供しました。植民地下の非協力運動から独立革命、1950年代の議会政治の主役、スカルノ体制の与党と、政治体制の変遷に合わせて役割を変えながらも、国家統合・行政の持続・大衆の包摂という課題に向き合い続けました。同時に、党内の路線対立、官僚主義化、地域・宗教・左派との競合は、PNIが抱えた限界でもありました。1965年の危機は、PNI自身の矛盾に加えて、軍の政治化と冷戦構造、暴力の政治の台頭という外的要因が重なって党の存続を終わらせました。

それでも、マルハエン主義の語彙、世俗的国民統合の理念、官僚と大衆を結ぶ政党運営、非同盟・反植民地主義の外交姿勢など、PNIが残した遺産は、のちのPDI/PDI-Pや広義の世俗民族主義勢力に受け継がれています。インドネシア政治を歴史的に理解するうえで、PNIは「宗教政党」「共産党」と並ぶ第三の柱として、国家と社会の接合部を形づくった存在だったと言えるのです。