「ヴィシー政府」とは、1940年7月から1944年8月までフランス中部の保養地ヴィシーに本拠を置いた政権で、第一次世界大戦の英雄ペタン元帥を首班に、敗戦後のフランスを独伊枢軸に協力させた体制を指します。正式には「フランス国(État français)」と称し、第三共和政の議会制を停止して元首に権限を集中させました。政府は対独協力(コラボラシオン)と国内秩序の再編を掲げ、「国家革命(Révolution nationale)」と呼ぶ保守的・権威主義的な理念を推進しました。ユダヤ人差別立法や対英米武力衝突、強制労働(STO)や治安部隊の動員など、占領と協力の現実に国民社会を巻き込みました。他方で、ロンドンのド・ゴールが主導した「自由フランス」と国内レジスタンスが台頭し、1944年の解放後、法的には第三共和政の連続を主張する臨時政府の下でヴィシー期の諸行為は無効化されました。以下では、成立までの背景、体制と政策、戦争の推移と対独協力、崩壊後の法的処理と記憶という観点から整理します。
背景と成立:敗戦・休戦・権力集中
1940年5月、ドイツ軍は電撃戦でフランス・低地諸国に侵攻し、フランス軍は6月にかけて崩壊しました。6月14日にはパリが無血占領され、政府は南方へ転々と移動します。6月22日、コンピエーニュの森で独仏休戦協定が締結され、フランスは領土の約3分の2をドイツ占領地区とし、残る「非占領地区(いわゆる自由地帯)」に限定的主権を残されました。
7月10日、ヴィシーに集められた上下両院は、元帥フィリップ・ペタンに「新憲法制定のための全権」を付与する法律を可決しました(賛成多数、反対80余名)。これにより第三共和政の憲法は停止され、同日から翌日にかけて公布された「憲法法」によって、元首(国家元首=ペタン)に立法・行政・司法の広範な権限が集中しました。国家の名称も「フランス共和国」から「フランス国」に変更され、共和制の象徴・標語(自由・平等・友愛)は「労働・家族・祖国」に置き換えられます。
国土は、北部・西部のドイツ占領地区、イタリア占領地区(南東端)、非占領地区(自由地帯)に分割され、さらに海外領土は各地で忠誠が分裂しました。政権内では、慎重な現状維持を図る官僚派と、対独「積極協力」を唱えるラヴァルらの政治家が主導権を争い、1940年10月のモントワール会談でペタンがヒトラーと会見して以降、協力路線は既成事実化します。
体制と政策:「国家革命」と差別立法、統制社会の構築
ヴィシー政府は、敗戦の原因を「議会主義の腐敗」「道徳の頽廃」「都市的個人主義」に求め、農本主義・家父長制・階層的協調を掲げる「国家革命」をスローガンにしました。政党は解散、労働組合は統合・監督され、地方総監や県知事を通じた中央集権的統治が強まりました。青少年団や職能団体の整備、家族政策(母性手当・多子優遇)なども実施される一方、言論・集会の自由は厳しく制限され、新聞は検閲下に置かれました。
特徴的なのが対ユダヤ政策です。1940年10月および1941年6月の「ユダヤ人法令(Statut des Juifs)」は、ユダヤ人の定義を人種的に規定し、官吏・軍人・教育・報道・文化など多くの職から排除しました。財産の「アリア化(企業・不動産の管理人指定・接収)」が進められ、外国籍ユダヤ人の収容・登録も制度化されます。これらはドイツの要求だけでなく、ヴィシー側が自発的に先行した側面を持ち、フランス警察・官僚が法令執行を担いました。
治安と軍事では、休戦軍(Armistice Army)という小規模な正規軍のほか、憲兵・警察・民兵の強化が進みます。1943年1月には対レジスタンス戦のためにラヴァル主導で「民兵(Milice)」が創設され、粛清・拷問・市民への威圧で恐れられました。さらに、ドイツ側の労働力不足に対応して、1942年に労働力の「一対一」交換(Relève)、1943年には若年男性をドイツ本土へ送る「強制労働奉仕(STO)」が導入され、農村や都市で地下活動・逃亡(マキへの合流)を誘発しました。
海外では、英仏の対立も深まりました。1940年7月、イギリス海軍は戦艦拿捕を恐れて北アフリカのフランス艦隊を攻撃(メルセル=ケビール事件)し、多数の死者を出しました。ヴィシー政府は対英断交を決め、英本国や自由フランスとの武力衝突は、ダカール(1940)、シリア=レバノン(1941)、マダガスカル(1942)などで発生します。これらの戦闘は、帝国の忠誠と現地社会を深く分断しました。
対独協力と戦争の推移:占領拡大、民衆の選択、レジスタンスの伸長
1942年11月、連合軍が北アフリカ(トーチ作戦)に上陸すると、ドイツ軍は休戦違反を承知で「アントン作戦」を発動し、自由地帯も事実上占領しました。フランス艦隊はトゥーロン軍港で自沈し、地中海での主力喪失は連合・枢軸の双方に影響を与えます。以後、ヴィシー政府の「中立的管理者」的余地は狭まり、対独隷属の度合いが増しました。
同年夏、パリを中心にフランス警察が主導したユダヤ人一斉検挙(いわゆるヴェル・ディヴ大検挙)が行われ、家族を含む多数がドランシー収容所を経て東方へ送られました。地方でも拘束・移送が続き、教会人や官吏の一部は抗議・隠匿に動いたものの、全体としてヴィシー当局の協力は犠牲の拡大に直結しました。農村・都市では、食糧配給の窮乏、闇市の拡大、検問・徴用の恐怖が生活を覆い、民衆は協力・不服従・抵抗の間で日々の選択を迫られました。
一方、レジスタンスは、新聞・ビラ・ラジオを通じて反独・反ヴィシーの宣伝を行い、脱走者やユダヤ人の匿い、鉄道・工場への破壊工作を実施しました。思想的には、共産主義者、キリスト教民主主義者、急進共和派、ガリストなどが分立していましたが、1943年、内部抵抗評議会(CNR)の設立で統合が進みます。国外では、ド・ゴール率いる自由フランスがシリア・北アフリカ・赤道アフリカの植民地を糾合し、正規軍としての地位を確立しました。
1944年6月のノルマンディー上陸、8月のパリ解放により、ヴィシー政権の実効支配は崩壊します。ペタンとラヴァルはドイツへ移送され、占領末期の「ジークマインド」的な対抗措置は散発的な暴力を残したのみでした。解放地域では、臨時政府(ド・ゴール)が行政の連続性を宣言し、ヴィシー期の法令のうち人種差別・国家主権侵害に関わるものを原則無効としました。
崩壊後の法・裁き・記憶:連続性の主張、責任の所在、長い影
1944〜45年、臨時政府は「法による粛清(épuration légale)」を実施し、戦争犯罪・国家反逆・共同謀議などを対象に特別司法が開かれました。ラヴァルは1945年に処刑、ペタンは死刑判決を受けましたが、高齢を理由に終身禁固へ減刑され、孤島ユ島で生涯を終えます。他方、法の外での私的報復(髪剃り・私刑・即決)も各地で発生し、戦後社会の傷を深めました。官僚や企業の多くは職務継続の名で戦時協力を相対化し、責任の所在は曖昧化しました。
戦後の記憶では、ド・ゴールの言説が主導した「共和国の連続性」論—第三共和政は法的には途絶えておらず、ヴィシーは不法政権に過ぎない—が正統解釈となりました。1960年代以降、歴史研究と裁判はこの前提を相対化します。リヨンのゲシュタポ長官バルビー(1987)、民兵指導者トゥヴィエ(1994)、官僚パポン(1997–98)らの裁判は、フランス人自身の加担を可視化しました。1995年にはシラク大統領が国家としてヴェル・ディヴ検挙への責任を公式に認め、国家記憶の転換点となりました。
ヴィシー期の社会史研究は、地方の県庁・警察・司法、教会・学校・企業のレベルで、命令・忖度・抵抗のグラデーションを追跡します。ある現場では義務感と恐怖からの執行、別の現場では消極的不服従や書類操作による遅延・回避、さらに別の現場では積極的な迫害—その斑模様が、占領下社会の複雑さを示しています。レジスタンス神話と協力の汚名の間で、人びとの日常は揺れました。
海外領の視点からは、ダカールやシリア=レバノン、マダガスカル、北アフリカでの内戦的対立が、戦後の植民地解体と民族運動の前哨となったことが重視されます。ヴィシーか自由フランスかの選択は、単なる外交的忠誠ではなく、現地社会の階層・宗教・人種関係に深く食い込み、その後の政治的亀裂を準備しました。
総じて、ヴィシー政府は「占領」という外圧の下で成立しただけでなく、内発的な権威主義・排外主義・秩序志向を制度化した政権でした。そこでは、国家が「保護」と称して自由と平等を縮減し、法が差別と暴力の回路へ転化するプロセスが、平時の行政手続きや専門職の倫理の中で静かに進行しました。戦後のフランスは、共和国の理念を再確認しつつ、その陰に潜む脆弱性と責任に長く向き合うことになったのです。ヴィシーを学ぶことは、非常時の統治がいかに常態へ浸透し、人びとの日常と記憶を変えてしまうかを見抜く手がかりになります。

