エリツィン – 世界史用語集

ボリス・エリツィン(Boris Yeltsin, 1931–2007)は、ソ連末期の改革期からロシア連邦創設期にかけて権力の中心に立ち、1991年のソ連解体、1993年の憲法危機、1994年の第一次チェチェン戦争、1998年の金融危機など、激動の節目を自らの決断で切り抜けた政治家です。彼は地方の実務家からペレストロイカ期の反体制的改革派へ転じ、ロシア共和国大統領として「市場化」と「大統領制国家」の二つの基軸を押し出しました。他方、急進的な価格自由化や民営化は格差と寡頭資本の台頭を招き、議会との対立は武力に訴える深刻な憲政危機を生み出しました。エリツィンを理解する鍵は、(1)ソ連体制の末期における“外圧としての国内改革”、(2)超大統領制の制度設計と権力運用、(3)「ショック療法」と呼ばれる経済戦略とその帰結、(4)チェチェン戦争と国家・社会の関係、(5)継承問題(プーチンへの権力移譲)にあります。以下では、生涯と政治的上昇、統治と危機、経済・外交・安全保障、メディアと社会、遺産と評価の順に整理して述べます。

スポンサーリンク

生涯と台頭――地方実務家から改革の「顔」へ

エリツィンは1931年、ウラル地方のスヴェルドロフスク州に生まれ、建設工学の技師としてキャリアを始めました。ソ連共産党に入り、工業・建設の現場で成果を上げる実務家として評価を高め、やがてスヴェルドロフスク第一書記(州党トップ)に昇進します。現場感覚と強引さ、演説の迫力で知られ、党内の停滞や特権への苛立ちを隠しませんでした。1985年にゴルバチョフが書記長に就任しペレストロイカ(改革)を掲げると、エリツィンはモスクワ市委第一書記に抜擢され、首都行政の刷新に乗り出します。官僚特権や腐敗を公然と批判したために中枢と衝突し、87年には更迭・失脚しますが、テレビ討論や人民代議員大会での発言を通じて「反特権・反停滞」の人気政治家へと再浮上しました。

1990年、ロシア共和国最高会議議長に選出され、91年6月にはロシア共和国初の大統領に直接選挙で当選します(ソ連全体では依然としてゴルバチョフが大統領)。この「二重権力」の下で、エリツィンはロシア共和国の主権化を推し進め、連邦と共和国の権限分担をめぐる攻防に主導権を握ります。

1991年のソ連解体――クーデター抵抗から独立国家共同体へ

1991年8月、保守派による非常事態委員会がゴルバチョフを軟禁しクーデターを試みます。エリツィンはモスクワのロシア政府庁舎(通称「白い家」)前で装甲車の上から演説し、軍・市民に抵抗を呼びかけました。この姿は衛星中継で世界に広まり、クーデターは数日で崩壊します。事件後、共産党は活動停止に追い込まれ、共和国の主権化が一気に加速しました。12月、ロシア・ウクライナ・ベラルーシの首脳はベロヴェージ合意を結び、ソ連の消滅と独立国家共同体(CIS)の設立を宣言します。ゴルバチョフは12月25日に大統領を辞任し、翌日ソ連は公式に消滅しました。エリツィンはロシア連邦の国家元首として、核戦力の継承・国連安保理常任理事国の地位承継など、国際法上の連続性を確定させます。

「ショック療法」と民営化――市場化の加速と寡頭資本の台頭

ソ連解体後、最大の課題は計画経済から市場経済への移行でした。エリツィン政権はガイダルら急進改革派を登用し、1992年初頭に価格自由化・補助金削減・財政引き締めを断行します。外貨不足と供給網の断絶の中で、インフレは急騰し、貯蓄は目減りし、生活必需品の価格は数十倍に跳ね上がりました。次いで進められたのが大規模民営化です。全国民に配布されたバウチャーを用いて企業株式を取得できる制度は、形式的には広い参加を可能にしましたが、情報格差と現金不足が相俟って、金融業者や企業内管理層が株式を集約する結果になりました。

1995年以降の「ローン・フォー・シェア(担保融資=株式入札)」方式では、国家が大企業株の一部を担保に民間から資金を借り、その返済が滞ると株式が民間に移る仕組みが採用され、石油・金属など戦略産業に寡頭資本(オリガルヒ)が誕生しました。彼らはメディアと金融を握り、政治献金や選挙キャンペーンを通じて政権と密接な関係を築きます。市場化は企業経営の効率化と起業の自由をもたらした一方で、雇用の不安定化、賃金遅配、社会保障の空洞化、地方自治体の財政難など、深刻な社会コストを伴いました。

1993年憲法危機――二つの正統性の衝突と超大統領制の確立

経済の混乱は政治対立を激化させました。旧ソ連型の最高会議(議会)は、価格自由化や大統領令の乱発に反発し、エリツィンは議会解散・権限再編を狙います。1993年9月、彼は大統領令で最高会議の解散と新憲法制定の国民投票を宣言し、議会側はこれを「反憲法クーデター」と非難して副大統領ルツコイを代行に指名しました。10月、双方の対立は武力衝突に発展し、モスクワ市内で死者が出る事態となります。エリツィンは軍・治安部隊を投入して「白い家」を砲撃・制圧し、議会指導者を拘束しました。

12月の国民投票で新憲法が成立し、大統領に広範な権限(首相任命、解散権に準ずる手段、広い大統領令権、外交・安全保障の主導)が付与されました。二院制(国家院・連邦院)と連邦主義も規定されましたが、中央と地方の権限配分は大統領・大統領府の裁量に大きく依存しました。こうしてロシアは、議会主義と大統領制が併存しつつも、実質的には「超大統領制」と呼ばれる強い執行権構造を持つ体制へと移行します。

チェチェン戦争と治安――国家統合の名の下の武力行使

ロシア連邦は多民族・多地域からなる連邦国家であり、主権と自治の線引きは常に政治課題でした。北カフカスのチェチェン共和国では、ダドゥエフらが独立を主張し、中央政府の統制が及ばない状態が続きます。1994年、エリツィン政権は軍を投入して秩序回復を図りましたが、首都グロズヌイの市街戦は甚大な被害を生み、軍の士気と統制の問題が露呈しました。反政府勢力による人質事件やテロが発生し、治安と人権の緊張が高まります。1996年のハサブユルト合意で停戦に至るものの、問題は凍結されただけで、のちに第二次チェチェン戦争(1999~)へと再燃しました。

チェチェン戦争は、国家主権・領土保全と、住民の権利・戦争犯罪の問題を鋭く衝突させました。メディアの報道が世論を動かし、兵士の母の会など市民団体が反戦の声を上げる一方、治安対策は強権化の方向へと傾き、連邦保安庁(FSB)など治安機関の影響力が増大します。この過程は、のちの権力移行と安全保障観の変化にも影を落としました。

1996年大統領選挙とメディア――再選の代償

エリツィンの支持率は経済混乱と憲法危機で低迷しましたが、1996年の大統領選挙では共産党のジュガーノフを相手に熾烈なキャンペーンを展開します。寡頭資本が所有するテレビ局・新聞は、娯楽と政治宣伝を巧みに組み合わせ、危機感を煽る「反共」キャンペーンを展開しました。政府は賃金遅配の解消や年金支払いの前倒し、地方へのばらまき支出などで支持固めを図り、決選投票でエリツィンは辛勝します。しかしこの勝利は、財政規律の緩みと政治献金への依存、メディアと権力の癒着という代償を伴いました。選挙後、エリツィンの健康問題(心臓手術など)は深刻化し、政権運営は側近・家族・寡頭資本の影響を受けやすくなります。

1998年金融危機――ルーブル暴落と債務不履行

アジア通貨危機の波及、原油価格の低迷、税収不足、短期国債(GKO)依存などが重なり、1998年8月、ロシアはルーブルの切り下げと対外債務の一部支払い停止(デフォルト)を発表しました。銀行は破綻し、貯蓄は再び目減りし、輸入品の価格は急騰しました。危機は短期的に深刻でしたが、ルーブル安は輸入代替と資源輸出の収益改善を通じて2000年代初頭の回復の土台にもなりました。それでも、国家の信用と政策の一貫性は大きく傷つき、政権は首相を次々と交代させる迷走に陥ります。

外交と安全保障――西側協調と拡大NATO、CIS秩序の模索

エリツィン期の対外路線は、西側との協調と旧ソ連空間への影響力維持の二面性を帯びました。核兵器削減条約(START I・II)や米露首脳会談を通じて冷戦の終結を制度化し、G7拡大会合(のちのG8)への参加で国際的承認を得ました。他方、NATOの東方拡大はロシア国内で懸念を呼び、政権は抗議と現実的対応の間で揺れます。CIS枠組みでは、エネルギー・通貨・安全保障を通じて影響力を保とうとしましたが、中央アジア・コーカサスの紛争やウクライナ・ベラルーシとの関係管理は容易ではありませんでした。対日関係では北方領土問題で前進は限定的にとどまり、対中関係は国境画定と軍事技術協力で漸進的に改善しました。

統治スタイルとメディア――テレビ時代のポピュリズムと大統領府

エリツィンは、街頭の劇的な演出(装甲車上の演説、選挙集会での踊りなど)とテレビ時代のイメージ政治を巧みに使いました。大統領府(クレムリン行政局)は政策調整・メディア戦略の中枢となり、官僚機構をバイパスする「大統領室内政治」が進行します。緊急命令や人事で局面を一気に転換する手法は、短期的効果を上げる一方で、制度的な負荷と予見可能性の低下を招きました。メディアの自由はソ連期に比べ飛躍しましたが、96年選挙以後は所有構造と政治の近接が深まり、報道の独立性は揺らぎます。

権力移行――1999年末の退任とプーチン登場

1999年、首相人事は短期間に何度も入れ替わり、同年8月には無名に近いウラジーミル・プーチンが首相に就任します。第二次チェチェン戦争の勃発と強硬な治安方針を背景に、プーチンの人気は急伸しました。1999年12月31日、エリツィンはテレビ演説で大統領職の辞任を表明し、憲法に基づき首相のプーチンが大統領代行に就きます。同時に、エリツィン一家や側近の法的保護(不訴追)を得たとされ、権力移行は「相互安全」の取り引きの色彩を帯びました。2000年3月の選挙でプーチンが大統領に当選し、ロシア政治は新段階へ進みます。

評価と遺産――自由化の功と混乱の罪、制度の二面性

エリツィンの遺産は、自由化の扉を開いた功績と、混乱と格差を拡大させた過失が交錯します。言論・結社・移動の自由、選挙と政党の競争、私有財産の承認、地方自治の萌芽は、ソ連の統制国家ではあり得なかった変化でした。一方で、憲法危機での武力行使、超大統領制の濫用、寡頭資本と権力の癒着、チェチェンでの人権侵害、社会保障の崩れは、民主化の信頼を損ない、国家へのシニシズムを広げました。1998年の金融危機は、制度の脆弱さと政策運営の不安定を白日の下に晒し、政治的ペンデュラムを「秩序重視」へ振らせる契機になります。

歴史的に見ると、エリツィンは旧体制の解体と新体制の創設を同時に引き受けた稀有な指導者でした。多民族連邦の維持と市場経済の導入、国際秩序への再参入という三重課題のもとで、彼の選択はしばしば「第二善(最善でないが現実的)」の連続でした。制度的には、1993年憲法が与えた強い大統領制は、危機対応には有効でしたが、均衡装置を弱め、のちの権力集中を容易にしました。社会的には、90年代の経験が市民の政治参加と自律の芽を育てた一方、「安定への切望」が強権的統治への支持を拡大する逆説を生みました。

総じて、エリツィンは英雄でも独裁者でも一色に塗れない、転換期の「矛盾の器」でした。彼の名を学ぶことは、体制崩壊後の国家建設がいかに困難で、経済・制度・安全保障・社会心理が互いに絡み合うかを理解する手がかりになります。装甲車上の一枚の写真と、議会庁舎を砲撃した煙、空になった店の棚と民営化の株券、テレビの熱狂と地方の疲弊——それらの並置の中に、エリツィン時代の現実が立ち上がります。そこから先のロシアをどう評価するかは、彼の遺した制度と記憶をどう読み解くかにかかっているのです。