ガザン・ハン – 世界史用語集

ガザン・ハン(Ghazan Khan, 1271–1304)は、モンゴル帝国の分国イルハン国(イラン・アゼルバイジャン周辺を中核とする国家)の第7代君主(在位1295–1304)です。彼は即位とともにイスラームに改宗し(洗練された宮廷名マフムードを名乗ります)、宗教と制度の両面を再設計して国家の立て直しに取り組みました。貨幣・税制・輸送の統一、軍の規律回復、農耕・都市経済の保護、宗教政策の調整、知の後援といった改革は、しばしば「ガザン法(カーヌーン=イ・ガザニー)」として総称され、後継のオルジェイトゥにも引き継がれます。対外的には、シリアをめぐってマムルーク朝と幾度も交戦し、1299年にはワーディー・アル=ハズナダールで勝利してダマスクスに入城する一方、1303年には反撃を受けて撤退するなど、軍事的成果は限定的でした。とはいえ、内政の刷新と学芸の奨励(宰相ラシードゥッディーンの『集史』)によって、イルハン国の政治文化に持続的な影響を与えた君主として記憶されています。本稿では、出自と時代背景、改宗と統治理念、内政改革の実像、対外戦争と遺産という観点から、ガザン・ハンの実像をわかりやすく解説します。

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出自・即位・時代背景:草原の系譜とイラン社会の結節点

ガザンは、イルハン国の祖フレグ(フラグ)の曾孫にあたり、父はアルグン・ハンです。幼少期からモンゴルの遊牧的訓育を受けつつ、イラン系の行政・宗教文化に囲まれて育ちました。当時のイルハン国は、広大なイラン高原・イラク・アゼルバイジャン・アルメニアを支配しつつも、通貨の乱れ、徴税の混乱、軍の綱紀弛緩、各地の有力家門や官人の利害対立に悩まされていました。加えて、北西のカフカース方面ではジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国=金帳汗国)と国境紛争を抱え、西南ではマムルーク朝がシリアを固く保持し、紅海・地中海の交易動脈も握っていました。こうした〈内憂外患〉の只中で、1291年に父アルグンが没し、いったんは叔父のゲイハトゥ、つづいてバイドゥが君位を得ますが、宮廷内の抗争は収まらず、最終的に軍事的基盤を固めたガザンが1295年に即位して局面を変えます。

即位の過程で、ガザンはイランの有力アミール(軍事貴族)と官僚層を巧みに結びつけました。彼自身、漢字文化圏由来の紙幣(チャオ)を域内に導入しようとして失敗したゲイハトゥ時代の混乱を反面教師とし、貨幣制度の信認回復と市場の再起動を最優先課題に据えます。同時に、遊牧的掠奪に傾きやすい軍の行動様式を改め、農耕民・都市民の財産と生産を守る「秩序の再建」を旗印に掲げました。こうしてガザン政権は、草原の軍事力とイランの文治官僚制を〈接合〉する試みとして立ち上がります。

イスラーム改宗と統治理念:信仰の選択と多宗教社会の調整

ガザンは即位の前後にイスラームに改宗し、イスラーム名マフムードを冠しました。彼の改宗は、単なる個人的信仰告白にとどまらず、国家統治の正当性と社会統合の設計と深く結びついていました。イルハン国は、仏教・キリスト教(ネストリウス派)・イスラーム・ゾロアスター教・ユダヤ教が併存する多宗教社会であり、宮廷・都市・地方共同体に多様な宗教ネットワークが張り巡らされていました。ガザンは、イスラームを王権の象徴に据えつつ、他宗教の礼拝と共同体組織を全面的に否定することは避け、段階的な調整を行います。たとえば、金曜礼拝(フットバ)に自らの名を唱えさせ、コインの銘文をイスラーム的形式に統一しつつ、キリスト教徒やユダヤ教徒に対しては従来の保護規定(ズィンミーの地位)を再確認しました。

一方で、仏教寺院やシャーマニズム的儀礼については、国家保護の対象から外し、寺領や財貨の整理・転用を進めています。これは宗教政策の転換であると同時に、財政再建の一環でもありました。ガザンは、遊牧貴族の〈狩猟・贈与〉中心の財政から、課税と通貨による〈計算可能な財政〉への移行を志向しており、宗教施設の財産や免税特権を再検討したのです。宗教の序列化は社会に緊張をもたらしましたが、同時に〈法による支配〉を宗教の枠を超えて敷くことにもつながりました。

この理念の言語化に大きく貢献したのが、宰相ラシードゥッディーンです。彼は医師であった経歴を持ち、精密な文筆と現実感覚で知られ、『集史(ジャーミー・アル=タワーリーフ)』という大著を編纂して、モンゴル帝国と諸民族の歴史をペルシア語で体系化しました。ガザンの改宗と改革は、この史書の背景に厚く刻まれ、王権の正当化装置としても作用します。イスラームの法と倫理、モンゴルのヤサ(成文規範)、イランの行政伝統という三つの基盤を、ガザンは折衷・統合の形で再構成しようとしたのです。

内政改革の実像:税・貨幣・輸送・農政—「ガザン法」の中身

ガザンの内政は、しばしば「ガザン法(カーヌーン=イ・ガザニー)」と呼ばれる改革群に凝縮されます。第一に、税制の再編です。徴税請負(ムカータア)や臨時賦課が乱発されていた状況を改め、農地台帳の作成と実地検分を通じて負担を均し、二重徴税や軍の通過時の過剰徴発を抑制しました。徴税権の売買や恣意的免税の制限、納税時期の明確化、税目の簡素化は、生産者の予見可能性を高め、耕作放棄の防止に資しました。地方官や軍の横領を取り締まるため、査察と監査の仕組みも整えられています。

第二に、貨幣制度の立て直しです。前君主ゲイハトゥの紙幣実験(チャオ)が信用危機を招いた反省から、銀貨・銅貨の鋳造と品位・重量の基準を統一し、主要都市の造幣局を管理下に置きました。貨幣改鋳の頻度を抑え、流通の信頼を回復することは、課税の実効性と市場の再活性化に直結しました。さらに、長距離交易の要である両替・計量の基準化にも手を入れ、各地で錯綜していた度量衡を糺して、都市間の取引コストを下げています。

第三に、駅逓(ヤーム)と輸送の改革です。モンゴル帝国の広域通信を支えてきた駅伝制度は、各地で軍や役人の私用・乱用により、民間の人馬・資材が圧迫されていました。ガザンは制度使用の証票を厳密化し、許可枚数と配賦の上限を設け、違反時の罰則を明確化しました。これにより、交通網の機能を維持しつつ、民間経済への過度の負担を軽減するバランスが追求されます。道路・橋・隊商宿(キャラバンサライ)の整備も進められ、商隊の安全と速度が改善しました。

第四に、農政と環境管理です。耕地・果樹園・用水路(ガナート)の保全を優先し、播種期の家畜侵入を禁じ、収穫前後の徴発を制限して農民の生産意欲を守りました。灌漑施設の修復には国家が人夫と資材を補助し、旱魃や疫病時には種子・家畜の貸し付けを行う救済措置が講じられます。森林・放牧地の管理では、過放牧と乱伐の抑制を命じ、地域共同体に責任を分担させました。これらは遊牧と定住農耕の接触地帯における摩擦(家畜の踏み荒らし、用水の取り合い)を減じ、長期的な収量と税基盤の安定を図るためのルールでした。

第五に、都市社会とワクフ(寄進財産)の整備です。ガザンはタブリーズ近郊のシャム(シャンベ)地区に自らの霊廟を中心とする巨大な宗教・公益複合施設(病院、台所、学院、宿駅、浴場、倉庫)を整備し、これを維持するためのワクフ網を築きました。宗教的記念碑であると同時に、都市インフラと福祉の拠点として機能する設計で、学者・学生・旅人・貧者を対象にした給食・宿泊・医療が提供されます。ワクフの台帳化と運用規範の明確化は、寄進財産の乱用を抑え、公益の継続性を担保する効果を持ちました。

これらの改革は、遊牧帝国の資源動員を都市・農村の生産構造と接続し直す試みでした。掠奪的課税と臨時徴発を常態化させれば短期の軍資金は得られますが、耕地の荒廃と市場の縮小で国家はやがて窒息します。ガザンの内政は、この〈悪循環〉を断ち切るための制度化だったと言えます。

対外戦争・外交と遺産:マムルーク戦争、ジョチ・ウルスとの角逐、知の後援

ガザンの対外政策は、シリア奪回を核に据えたマムルーク朝との抗争と、カフカースでのジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)との軋轢に二分されます。1299年、イルハン軍はアナトリア諸侯やアルメニア王国、キリスト教系勢力と連携し、ハルギャーダル(ワーディー・アル=ハズナダール)の戦いでマムルーク軍を破り、ダマスクスに入城しました。十字軍残存勢力の一部とも連携が模索され、〈反マムルーク包囲〉の構図が一時的に整います。しかし、補給と連携の持続に難があり、1300年に冬営のため撤退すると、マムルーク側は素早く巻き返しました。1303年のマルジュ・アッサッファール(マルジュ・サッファル)ではイルハン軍が敗れ、シリア支配の安定化はならず、以後は国境線を挟んだ戦略的膠着に移ります。

北方では、アゼルバイジャン・アルメニア方面でジョチ・ウルスとの境界紛争が断続し、コーカサスの通商路・牧地・関税収入をめぐる争奪が続きました。これは単なる領土問題ではなく、黒海沿岸とイラン内陸を結ぶ交易ネットワークに直結する問題で、イルハン国の財政と軍需補給に少なからぬ影響を与えています。ガザンは国境防衛を担うアミール層の再編と兵站線の整備で応じ、局地的優勢を保ちながらも、決定的解決には至りませんでした。

外交面では、ヨーロッパ諸国との連絡が注目されます。イルハン宮廷は、反マムルークの共同戦線を志向して、教皇庁やフランス王国などに使節を送り、十字軍再興とイラン=地中海交易の活性化を提案しました。実際の軍事協力は成立しなかったものの、情報・技術・商人の往来は続き、アナトリア・アルメニア・キプロスなどの地域を介して文化的接触が広がっています。

学芸の後援は、ガザンの遺産の中でも特筆に値します。宰相ラシードゥッディーンによる『集史』は、モンゴルの帝王学とイラン・イスラーム世界の知の体系を接合する試みであり、後世の歴史学に巨大な影響を与えました。天文・医学・地理・農政に関する書物の編纂も進み、宮廷は実務と学術をつなぐ翻訳・記録の拠点として機能しました。モンゴルの口承的知をペルシア語の文書文化に定着させる作業は、帝国の記憶を〈書く〉という行為を通じて、新たな政治文化を形成します。

1304年、ガザンは遠征準備の最中に病没し、弟のオルジェイトゥが継ぎました。オルジェイトゥは一時シーア派に改宗し、スルターニーヤに壮麗な霊廟を築くなど宗教文化政策を展開しますが、税制・駅逓・ワクフの枠組みは概ねガザンの路線を踏襲しました。したがって、ガザンの改革は短命な思いつきではなく、イルハン国の制度的骨格を形づくった持続的成果だったと言えます。

総じて、ガザン・ハンは、遊牧帝国のダイナミズムを失わずに、イランの文治秩序と接続し直した統合の君主でした。イスラーム改宗を国家建設の基盤に据え、税・貨幣・輸送・農政という日常の「制度」を整え、戦争と交易の現実に向き合いながら、学芸の言葉で自らの改革を記録させるという周到さを持っていました。軍事的にはシリア恒久支配に失敗したものの、内政の再建と文化的遺産の厚みは、イルハン国が短期の征服国家に終わらず、地域国家として成熟するための決定的な一歩だったのです。