ギリシア独立戦争は、オスマン帝国の支配下にあったギリシア人が、1821年に蜂起して1830年に国際的承認を得るまでの独立闘争を指します。内陸と島々で別々に火がつき、内戦と分裂を挟みながらも、国際世論の支援と列強の介入を取り込み、最後は外交と軍事の合わせ技で国家を獲得しました。蜂起の背後には、正教会とギリシア語の共同体としての長い記憶、海運・商業で力をつけた島嶼都市の資本、ディアスポラ知識人の啓蒙と陰謀組織、バルカン諸民族の反乱の連鎖、そして「古代ギリシア」の象徴力に惹かれたヨーロッパのフィルヘレニズム(親ギリシア主義)がありました。戦争は単なる民族の解放物語ではなく、帝国の改革と列強政治、聖地と教会の問題、海上秩序と地中海貿易の再編など、広い文脈と結びついています。以下では、背景、蜂起と戦局、列強と世論、国家形成と遺産の四つの観点から丁寧に説明します。
背景:帝国支配と共同体、啓蒙と陰謀の地下水脈
オスマン帝国のもとで、ギリシア正教徒は「ルーム(ローマ人)」の宗教共同体(ミッレット)に編成され、コンスタンティノープル総主教庁の下で婚姻・相続・教育などに一定の自治を有していました。重税や差別は存在しましたが、教会・修道院・学校の網は、ギリシア語と正教信仰を通じて共同体の継続を支えました。エーゲ海の島々、特にヒオス、イドラ、スペツェス、プサラなどは海運と中継貿易で繁栄し、富裕な船主・商人層が育ち、武装商船と海事技能を蓄積しました。イオニア海や黒海の商圏を結ぶこの流動性が、のちの私掠戦・補給・外交資金の基盤になります。
18世紀末から19世紀初頭、ディアスポラのギリシア人はウィーン、オデッサ、ロンドン、トリエステなどで商業や出版に携わり、啓蒙思想と民族意識を錬成しました。こうした都市で結成された秘密結社「フィリキ・エテリア(友愛協会)」は、正教のアピールと革命的組織技術を結びつけ、全ギリシア蜂起を構想しました。ナポレオン戦争後の保守反動(ウィーン体制)の中で、露・墺・普は革命の波及を警戒しましたが、ロシアの一部官僚や軍人には「正教徒保護」の情念とバルカン進出の思惑がくすぶっていました。こうした外交の隙間が、蜂起のタイミングを左右します。
思想と感情の面では、古代ギリシアへの憧憬が重要でした。ヨーロッパの知識人は「古典の祖国」に自由の復活を夢見て、資金・武器・志願兵を送ります。ギリシア側でも、古典教育と聖書希語の教養が、言語と歴史の連続性を意識化し、「ヘレネスとしての自覚」を強めていました。他方、地方社会では、山岳の武装農民(クレフテス)と治安維持民兵(アルマトロイ)が複雑に交錯し、権力の真空を埋める自衛集団が形成され、蜂起の武力母体となりました。
蜂起と戦局:ペロポネソスからエーゲ海、そして国際戦へ
1821年3月、モレア(ペロポネソス)で蜂起が始まり、数か月で多くの城塞が陥落しました。テオドロス・コロコトロニスら山岳勢力が主力となり、オスマン側の反撃を受けながらもゲリラと包囲戦で優位を築きます。同年、ドナウ公国(モルダヴィア・ワラキア)ではフィリキ・エテリアのアレクサンドロス・イプシランティがロシア国境付近で挙兵しましたが、ロシア皇帝アレクサンドル1世はウィーン体制破壊の烙印を恐れて支援を拒否し、蜂起は短期で潰えます。したがって、戦争の重心はモレアと中部ギリシア、島嶼部に移りました。
1822年、エピダウロスの国民会議が独立宣言と暫定憲法を採択し、政治的正統性の旗を掲げます。しかし、地域勢力・島嶼の船主・知識人の利害対立は深刻で、1823~25年には二度の内戦が起き、指導層は分裂しました。こうした混乱の最中、オスマン政府はエジプト総督ムハンマド・アリーに支援を要請し、その息子イブラーヒム・パシャが近代編成の軍を率いてモレアに上陸します(1825)。イブラーヒム軍は整然とした歩兵・砲兵・騎兵の連携で反乱軍を圧倒し、メソロンギの籠城を破り、各地を制圧しました。メソロンギの陥落(1826)は欧州世論に強い衝撃を与え、フィルヘレニズムの機運を再燃させます。
海上では、イドラ、スペツェス、プサラの船隊が火船攻撃で大艦隊に挑み、カナリスらの奇襲は象徴的勝利をもたらしましたが、総力では苦しく、補給と資金をめぐる島嶼間の不一致が足を引っ張りました。こうした状況は、戦争の趨勢を列強の外交・軍事介入へと引き寄せます。英露仏は、オスマン帝国の崩壊を望まない一方で、混乱の長期化と人道的惨禍を収める必要から、ギリシアに自治的地位を与える折衷案を模索しました。
1827年、ロンドン条約で英露仏は調停を提案し、停戦受け入れを迫りますが、現場の緊張は高まり、同年10月、ペロポネソス沖ナヴァリノで三国連合艦隊とオスマン=エジプト連合艦隊が交戦し、後者は壊滅的打撃を受けました。近代蒸気艦を含む欧州艦隊の火力と射撃統制が、帆走艦中心の連合艦隊を圧倒した瞬間でした。ナヴァリノ海戦は、列強が事実上ギリシア側に軍事支援を与えた転換点であり、以後、戦争は国際政治の管理下に入ります。
1828年、ロシアが露土戦争に踏み切り、ドナウからコーカサス方面でオスマン軍を圧迫します。これによりイスタンブルはギリシアへの譲歩を余儀なくされ、英仏も仲介に動きました。翌1829年のアドリアノープル条約で、ギリシアの自治的承認への道が開かれ、1830年のロンドン議定書によってギリシアは独立国家として国際承認を獲得します。当初の国境はペロポネソスと中部ギリシアの一部に限定されましたが、1832年のロンドン会議で国境と統治形態(バイエルンの王子オソンを国王に迎える君主制)が確定しました。
列強と世論:フィルヘレニズム、保護権、そして外交の舞台
ギリシア独立をめぐる国際環境は、ウィーン体制の保守秩序と民族自決の理想、宗教保護と勢力均衡という複数の論理がせめぎ合う舞台でした。英国内では、古典教養と自由主義の世論が親ギリシア感情を高め、詩人ジョージ・ゴードン・バイロンは志願してメソロンギに赴き、病没して象徴的人物となりました。フランスは自由主義運動を抑制しつつも、1830年の七月革命前後の雰囲気の中で親ギリシア世論が広がり、ナヴァリノでの軍事行動に参加しました。ロシアは正教徒保護の名目と黒海・バルカン政策の実利の両方を追求し、露土戦争を通じて決定的圧力をかけました。
列強の利害は一致していたわけではありません。イギリスは地中海航路とインドへの道を確保するため、海峡の安定とオスマン帝国の存続を望む一方、ロシアの南下を警戒しました。フランスは地中海西岸の覇権と北アフリカ(1830年のアルジェリア侵攻)への関心を持ち、軍事的名誉を回復したい思惑がありました。こうした中で、ギリシア独立は、帝国の崩壊ではなく、限定的な領域での新国家創出という妥協の産物となり、列強は「保護国」的な管理を続けます。王制の導入や国王の選定も、この外部管理の一環でした。
世論動員の面では、欧州全土で慈善コンサート、募金、志願兵募集、新聞論陣が展開され、古代の遺産とキリスト教の同胞意識が結びつきました。「フィルヘレニズム」は、後のイタリア統一やポーランド問題でも模倣される国際世論の先駆けであり、国家の外交計算に影響を与え得る「感情の政治」の力を示しました。他方で、同じ時代に起きたヒオス島虐殺などの惨劇は、イメージの戦争を加速させ、ドラクロワらの絵画が共感と怒りを増幅させました。
国家形成と遺産:カポディストリアスの改革、王政、言語・教会・土地
独立過程の終盤、臨時政府は外交官出身のイオアニス・カポディストリアスを総裁に迎えました(1828)。彼はスイスの改革経験やロシア外交の人脈を生かして、行政・軍事・教育の整備、通貨「フェニクス」の導入、公共事業、孤児救済、治安の回復に尽力しました。伝統的首長層や島嶼の船主、地方の自立性を重んじる勢力とは衝突し、1831年に暗殺されますが、近代国家の骨格を描いた点でその意義は大きいです。
カポディストリアスの死後、列強の仲介でバイエルン王家のオソン王が即位し(1832)、外来王朝の下で中央集権化と近代官僚制の導入が進みます。王政はしばしば外債と財政難に悩み、列強の財政管理下に置かれることもありました。1843年には軍と市民の蜂起で立憲政治が導入され、王権と議会の均衡が模索されます。のちにデンマーク王家から迎えられたゲオルギオス1世の時代を通じ、領土拡張(テッサリア、イオニア諸島、マケドニア南部など)と行政整備が進みました。
社会文化の面では、言語と教育、教会の位置づけが国家統合の鍵でした。教育は古典語への畏敬を基盤にしつつ、行政・司法の運用には実用的な「民衆語(ディモチキ)」が不可欠で、19~20世紀にかけて文語(カタレヴーサ)と口語の「言語問題」が政治化します。教会はコンスタンティノープル総主教庁から独立(自頭)し、国家と密接な関係で国民アイデンティティを支えました。他方、農地制度では、没収オスマン地の分配や共同体所有の再編が課題となり、小農経営の基盤が形づくられました。海運・移民ネットワークは戦前からの強みを生かし、ディアスポラと本国の経済・文化の循環を支えます。
独立戦争の記憶は、メガリ・イデア(大ギリシア主義)として、オスマン領内のギリシア人解放と領土回復の理念に結びつき、19世紀末から20世紀初頭の外交・軍事目標を方向づけました。バルカン戦争を経て領域は拡大しますが、小アジアでの挑戦は1922年の敗退と住民交換(1923)で逆流し、独立戦争の神話と現実の落差が露呈します。にもかかわらず、独立戦争は今日まで国民的記念日(3月25日)に祝われ、学校教科・文学・美術で繰り返し語り直されてきました。
主要人物としては、軍事ではコロコトロニス、マヴロミハリス家、マルコス・ボツァリス、海ではアンドレアス・ミアウリス、ラザロス・コンドゥリオティス、火船のヒーロー、コンスタンディノス・カナリス、政治ではアレクサンドロス・マヴロコルダトス、ディミトリオス・イプシランティ、そして外交・行政のカポディストリアスが挙げられます。敵側ではイブラーヒム・パシャとマフムト2世が鍵を握りました。これらの人物像は神話化されつつも、研究は地域・階層・外国勢力との関係という複眼的視点から再評価を進めています。
総じて、ギリシア独立戦争は、帝国の縫い目がゆるむ時代に、共同体の記憶と近代の政治技術、海の資本と山の武力、国際世論と列強政治を繋ぎ合わせて国家を創出したプロセスでした。勝利は外部支援なくして語れず、同時に内部対立の克服なくして持続しませんでした。この二重性を正面から理解するとき、独立戦争は単なる英雄譚を越え、近代世界における「国民の誕生」の複雑さを教えてくれます。

