均田制(北魏) – 世界史用語集

均田制(きんでんせい、Equal-field system)は、北魏が5世紀後半に打ち出した土地と人民の再編政策で、国が戸籍に基づいて耕地を基準配分し、受給者の死亡・転出時には原則として土地を返還(収公)させる仕組みです。要は「人に土地をつける」ことで、税と兵役の担い手を固定し、豪族や軍閥による土地の独占を抑え、荒蕪地を耕作へ引き出す狙いがありました。北魏の均田制は485年頃に制度化され、486年の三長制(戸籍・治安・徴発の単位を再編)と一体で運用されます。のちに西魏・北周・隋・唐へ継承され、唐代の租庸調制の基盤となりました。制度の中心は、(1)個々の成年男女に生涯使用権を与える「口分田(こうぶんでん)」、(2)家産として相続できるが課税対象となる「永業田(えいぎょうでん)」や苗木・桑麻田などの専用地、(3)戸籍と連動する徴税・徴兵です。仕組み自体はシンプルですが、土地と人・税・兵の四者を一つの回路に束ねた点に、北朝国家の先進性がありました。

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成立の背景:遊牧—定住の転換と財政・軍事の再設計

北魏は鮮卑系拓跋部を母体に北中国を統一した王朝で、当初は騎馬遊牧に強みを持つ軍事国家でした。5世紀後半、孝文帝の洛陽遷都(494年)に代表される漢化改革が進むなかで、遊牧的動員から定住的な戸籍—租税—兵役の体系への転換が急務となります。豪族・旧軍閥が各地で開墾地や荘園を囲い込み、流民の発生・荒蕪地の拡大が財政を蝕んでいました。税と兵の安定確保、開発余地のある黄河流域の再耕作、そして権門勢力の抑制—これらが均田制の導入動機でした。

均田制は、単独の「土地法」ではなく、三長制・改籍(戸口整理)・移住政策(屯田・徙民)・法令編纂といった広い改革パッケージの中核でした。三長制は五家で「隣」、五隣で「里」、五里で「党」を編成し、隣長・里長・党長が戸口・治安・賦役を掌握します。均田の割当・返納や税の徵収はこの末端組織が実務を担い、中央は郡県を通じて統計と監督を行いました。こうして、中央の意思が末端の耕地と人に直接届く管路が形成されます。

制度の構造:口分田・永業田・桑麻田と返還原則

均田制の要は、戸籍簿上の「人」に付随して耕地を配ることでした。成年男子(丁男)には耕作用の口分田が与えられ、受給者の死亡や規定の年齢に到達すると国に返すのが原則です。これは私有の売買対象ではなく、国家が管理する「生涯使用権」に近い性格でした。女性や高齢者、奴婢の扱いも細則で定められ、労働力として期待される層に厚く配分する傾斜設計が見られます。丁男に付随して牛田(耕牛を持つ者への加給)や具装田(軍装・兵役に関わる者への特別配当)が定められることもあり、税役の負担とセットで設計されました。

これに対して、永業田は家の資産として相続が可能な区画で、桑麻田・果樹園・宅地など、長期投資を要する作物・用途に充てられました。永業田は返還義務がないぶん課税対象となり、所有者の責任で維持管理されます。桑田の給付はとくに女性の労働(養蚕)を想定し、衣料や軍需の絹・麻生産を底支えしました。口分田が「暮らしを回す田」で、永業田・桑麻田が「家を育てる田」とイメージすると、二層構造の狙いが理解しやすいでしょう。

返還原則は、土地の固定的私有化を避け、世代交代のたびに国家が再分配できる余地を確保する仕掛けです。豪族による吸い上げを抑え、流民を戸籍に復帰させる効果が期待されました。配田の面積は地域の地力や水利によって差が設けられ、類型化と弾力運用が図られます。現実の運用では、旱魃・水害・戦乱による「調整」「免除」「補給」条項が付され、一定の柔軟性が持たせられました。

租税・兵役・労役:人に土地を付す=徴発回路の再設計

均田制の狙いは、耕地配分そのものよりも、「誰から何をどれだけ取るか」を明確化することにありました。戸籍に登録された者は、配田に応じて穀物(租)・布帛(調)・労役(徭)を負担します。北魏段階ではのちの隋唐の租庸調制ほど定式化していないものの、穀物・布の納入と労役出役の枠組みが整備され、里党レベルでの割当と取立てが統一されました。労役は城壁修築・道路・治水・宮城営繕に動員され、兵役は戸籍を基礎とする徵兵・傭兵の併用で賄われます。

軍事面では、均田制はのちの府兵制(西魏・北周に整う)への橋渡しとなりました。耕地を持つ戸を兵戸として登録し、平時は農・有事は兵という二重の身分を制度化することで、常備軍の維持コストを抑えつつ動員力を確保します。これは遊牧的な寄せ集め兵力から、定住基盤に根ざした兵農一致型の編成へと重心を移す発想でした。国が配る田で暮らす→税・兵で返す、という循環は、北朝国家の「国力の回路」を可視化します。

税制の透明化は、貨幣流通が弱い地域でも徴発を実物中心に運ぶ実務性を持ちました。一方で、戸籍逃れや豪族の隠匿—寄客・部曲(私兵)として抱え込む—は常に問題で、監督者(三長)と郡県官の癒着が起これば制度は形骸化します。均田制は「正しく運用されれば強い」が、「運用の穴」が開くとすぐに漏れる—そうした脆弱性を抱えていた点も忘れてはなりません。

効果と限界:開墾促進・豪族抑制・社会統合/自然・人為の壁

効果面では、第一に荒蕪地の再生です。移住者・流民に配田することで耕作が再開され、用水・畦畔の整備が進みました。第二に豪族抑制です。均田原則のもとでは、荘園的な大規模集積は監督の対象となり、徭役・兵役の免除特権は切り崩されます。第三に社会統合で、鮮卑を含む多民族を「戸—里—党」という同じ行政単位に載せ、衣食住・税・兵のルールを共通化しました。これは漢化政策の実務面の骨格でもあります。

同時に限界も明瞭でした。黄土高原から華北平原にかけては、水害・旱魃の振れ幅が大きく、毎年のように「配っても収穫が安定しない」地帯が広がります。配田を返還させるにも、実測・境界確認・引き継ぎの行政コストがかかり、文書・測量・人員を恒常的に投入できるかが課題でした。豪族側も抜け道を編み出し、戸籍上は小分割・実態は共同経営の形で実効支配を維持する例が出ます。流民は飢饉や戦乱で再発し、配田—徴発の循環はしばしば途切れました。

さらに、北魏は6世紀に東西に分裂(東魏・西魏)し、戦乱と再編のなかで地域差が拡大します。制度の理念は継承されつつも、実施能力は地域の官僚・有力者・軍の力量に左右され、均質な運用は困難でした。それでもなお、均田—三長—徴発の枠組みは北周で洗練され、隋・唐に引き継がれて大枠を保ち続けます。

継承と転生:隋唐の均田制・租庸調制への架け橋

北魏型均田制は、隋・唐の大土地法制の原型となりました。唐律令の条文には、口分田を60歳で返還、男子の標準配田、桑麻田の相続可、などより精密な規定が整い、租庸調制(租=穀、調=布、庸=労役代替の布)と一体で運用されます。戸籍・計帳・土地台帳(図籍)の整備は、国家の統計能力を高め、均田—租庸調—府兵という三位一体の財政軍事構造を成立させました。北魏段階での試行錯誤が、隋唐大帝国の「標準形」を準備したといえます。

もっとも、唐後期には人口増と荘園化の進行、安史の乱以後の軍事財政の変容によって、均田—租庸調の枠組みは崩れ、両税法(780年)へと転換します。ここには均田制の「返還と再配分」に依存するモデルの限界—測量・監督のコスト、地価・人口の変動への硬直性—が露呈しています。均田制は永遠の制度ではなく、国家の形成期における「土地—人—税—兵の接続技術」の一形態だったのです。

比較と誤解:井田制とのちがい、東アジアへの波及

しばしば教科書で並べられる「井田制」との比較にも触れておきます。古代中国の井田制は、周代の理想化された土地割り(九分割の共同耕作)として記述されますが、実態史としては不確かな部分が多く、規範的制度に近い概念です。これに対して均田制は、戸籍と土地台帳にもとづいて現実に配賦・返納を繰り返した運用型の制度で、中央集権的国家の行政技術として理解すべきものです。「皆で均しく分ける」という素朴な平等主義ではなく、「戸口に応じた課税・徴兵を安定させるための配分」である点が本質です。

波及の面では、均田制の思想—人に土地を付す—は東アジア各地で参照されました。日本でも大化改新以後の班田収授法が均田的な発想を取り入れ、六年一班、男女別の口分田、口分田の返納と条里制の地割が運用されました(その後、人口動態・墾田の進展で崩れ、墾田永年私財法を経て荘園制へ)。朝鮮半島でも高麗・朝鮮王朝の賦役・田籍は、口分田的な配当と地税の組み合わせを工夫しつつ発展しました。各地域は自らの社会構造と資源条件のもとで、「均田的なもの」を選び取ったのです。

総括:土地・人・税・兵を一本の回路で結ぶ国家技術

均田制(北魏)は、土地の再分配=社会正義の制度というより、国家が限られた行政資源で最大の効果を上げるための「回路設計」でした。人に土地を配り、耕作させ、収穫と布・労役を徴し、必要なときに兵を動員する—この循環を維持するために、返還原則と相続可能な区画を組み合わせ、末端の三長組織で運用の摩擦を減らす。その結果、北朝の多民族国家は、遊牧の機動力と農耕の蓄積力を接合し、のちの隋唐帝国が依拠する標準モデルを作りました。自然環境の厳しさ、豪族の抵抗、行政コストの重さという限界も抱えましたが、それでも均田制は、土地—人—税—兵—記録の一体化という発想を、アジアの国家に長く刻みつけたのです。制度を通じて社会を編成するとはどういうことか。その答えの一つが、北魏の均田制に凝縮されています。