ケープ植民地 – 世界史用語集

ケープ植民地は、現在の南アフリカ共和国南西部に位置する地域で、1652年にオランダ東インド会社(VOC)が補給基地として建設して以来、ヨーロッパ勢力の拠点・奴隷制社会・多言語社会・帝国間競争の舞台として三世紀以上にわたり変容し続けた場所です。ケープタウンの湾を囲む山並みと良港は、インド洋と大西洋を結ぶ海上交通のチョークポイントであり、ここを押さえることは香辛料貿易や東方航路の安全確保に直結しました。現地のコイコイ(コイサン系)やサンの人びと、のちに東方から移動してきたコーサなどのアフリカ諸社会は、家畜・土地・水源をめぐって入植者と複雑に交錯し、協商と衝突が繰り返されました。奴隷はインド洋とアフリカの広い網から連れてこられ、マレー=インドネシア系の文化やイスラーム、マダガスカルや東アフリカの要素がケープの社会を彩りました。19世紀にはイギリスが支配権を確立し、奴隷制の廃止、土地と労働の再編、辺境戦争、ボーア人のグレート・トレック、ダイヤモンドの発見と帝国主義の拡大、そして1909年の南アフリカ連邦成立へと続く政治再編の中心舞台となりました。

ケープ植民地の歴史は、単純な「征服と支配」の図式では語り切れません。交易と補給、農業と牧畜、奴隷制と自作農、港湾都市と辺境農地、オランダ語(のちアフリカーンス)・英語・コイサン諸語・マレー語・イスラームの諸伝統が混じり合い、ときに排除され、ときに創造的に結び直されてきました。ケープの経験を辿ることで、世界貿易の拠点と植民地社会の形成、法と暴力の交差、労働と自由の定義、そして南アフリカに固有の「人種」区分の成立過程が立体的に見えてきます。

スポンサーリンク

VOCの補給基地から農牧フロンティアへ:創設と初期拡張

1652年、ヤン・ファン・リーベック率いるVOCの隊がテーブル湾に要塞(カーステル)と菜園を築き、航海者の食料と淡水の補給拠点を設けました。目的は定住というより船団の健康とコスト削減でしたが、すぐに牧畜と農耕の拡大が必要となり、従業員の中から自由身分の農民(フリーバーガー)を生み出して農地を与える政策へ進みます。葡萄栽培とワイン、穀物、牧畜が広がり、入植者は山脈と乾燥地を越えて内陸へ移動する「トレックボーア(移動牧畜農民)」として辺境を切り開きました。

この過程でコイコイ社会は家畜と放牧地へのアクセスをめぐって入植者と摩擦を起こし、天然痘の流行や交易条件の不利もあって脆弱化しました。サンの狩猟採集民は入植地の広がりとともに狩場を失い、しばしば「コマンド制」と呼ばれる民兵遠征の標的とされました。初期ケープは、契約・交換・通婚もあれば、暴力・略奪・報復もある境界社会で、法と武力が混じり合う秩序が常態でした。

奴隷制と多文化社会:インド洋世界との接続とアフリカーンスの形成

ケープの労働力は、自由農民とともに奴隷に大きく依存しました。VOCは西アフリカだけでなく、マダガスカル、東アフリカ、インド、インドネシア、スリランカなどインド洋世界から奴隷を連行し、家内労働・農場・都市サービス・工匠仕事などに従事させました。都市のケープタウンには、退役社員・商人・職人・船員・奴隷・解放奴隷(フリー・ブラック)・現地人の多様な居住民が混在し、イスラーム(ケープ・マレー共同体)と教会の両方がコミュニティの核となりました。

言語文化面では、オランダ語を基調に東南アジア語・マレー語・コイサン諸語・ポルトガル語ピジンなどが影響を与え、のちにアフリカーンスとして定着する日常言語が形成されました。通婚や解放によって生まれた「コロード(Coloured)」と呼ばれる多元的系譜の人びとは、ケープ特有の料理・音楽・信仰実践を育て、都市文化の担い手となりました。こうした多文化性は、後世の人種分類と隔離政策のもとで制度化・固定化され、しばしば差別の口実にもなりましたが、ケープ社会の創造力を支えた重要な基層でもありました。

英領化と改革:奴隷貿易停止、奴隷制廃止、労働と土地の再編

ナポレオン期、英海軍は航路の要衝であるケープを押さえ、1795年に一時占領、1806年に再占領して恒常的な支配を確立しました(1803〜06年にはバタヴィア共和国期の統治を挟みます)。英国は1807年に奴隷貿易を違法化し、1834年には植民地全域で奴隷制そのものを廃止(移行期の見習い制度を経て1838年完全解放)しました。解放は道義的進歩である一方、補償の仕組みや貨幣経済への移行、賃金労働の整備が不十分で、農場主と元奴隷、コイコイや混血の自由民との関係は激しく揺れます。

1828年の「オーディナンス50号」は、コイコイなどの自由移動と契約の権利を認める画期的な通達でしたが、現場では「雇用主と使用人条例」やパス制度によって依存関係が持続しました。英本国の法と宣教は、法廷・学校・宣教駅を通じて新たな規範を持ち込み、識字と新教徒コミュニティが辺境社会の一角に生まれます。港湾都市は英語化が進み、行政・司法・商業の標準が整えられました。

辺境戦争とグレート・トレック:移動の政治とボーア諸共和国の誕生

ケープ東境界では、18〜19世紀にかけてコーサとの間で多数の戦争(ケープ辺境戦争)が起こりました。家畜の盗難・土地境界・入植地の拡張・宣教と行政の介入が連鎖し、軍事遠征と和議、保護領化、強制移住が繰り返されました。戦争と飢饉、疫病は現地社会を深く傷つけ、ケープ政庁の財政・軍事負担も重くなりました。

1830年代、オランダ系入植者(アフリカーナー)の一部は、英当局の法と文化(奴隷解放や英語化、教会・慣習の変更)に不満を募らせ、内陸へ大移動するグレート・トレックを開始します。彼らはオレンジ川やヴァール川を越え、ナタールや高原地帯で共同行政体を樹立し、のちにオレンジ自由国と南アフリカ共和国(トランスヴァール)として結晶しました。ケープ植民地は、ここから英領ケープ・ナタールとボーア諸共和国という多極構造の一極となり、後の英ボーア戦争の布石が打たれます。

ダイヤモンド、鉄道、ローデス:拡張と帝国政治の時代

1860年代後半、オレンジ川上流のキンバリー周辺でダイヤモンド鉱床が発見されると、投機と移民が殺到し、治安・税制・鉱区管理をめぐる争いからグリクアランド・ウェストの併合が行われました。ケープ政庁は鉄道と電信を敷き、ケープタウン—内陸—東ケープを結び、港湾の近代化を進めました。ダイヤモンドは労働の分割・層別化(鉱夫収容所、パス、賃金格差)の制度化を加速し、人種化された労働秩序を強化しました。

1890年にはセシル・ローズがケープ植民地首相となり、鉱業資本と領土拡張を結びつけた大計画を掲げます。ローズの下で、選挙制度の財産要件の厳格化やグレン・グレー法(1894)など、アフリカ人農村を労働市場へ組み込む政策が進みました。1895年のジェームソン襲撃はトランスヴァールへの不成功の越境攻撃で、英本国・ケープ・ボーアの対立を激化させ、1899年の英ボーア戦争へと通じます。戦争はケープ域内のアフリカーナー住民にも分断をもたらし、焦土作戦や収容所が社会の傷として残りました。

ケープ憲政と「ケープ有資格選挙権」:多「人種」植民地の例外的制度

ケープ植民地は、1853年憲法以来、財産・所得・識字などの資格を満たせば人種にかかわらず投票できる「ケープ有資格選挙権(Cape Qualified Franchise)」を採用した点で特異でした。1872年にはモルテノ政権の下で責任政府が導入され、議会内閣制が機能し始めます。この体制は、都市の自由黒人やコロード・アフリカ人の政治参加に一定の道をひらき、新聞・協会・請願のネットワークを育てました。

とはいえ、財産要件の引き上げや選挙区割の調整、ローズ期以降の制限強化によって、実際の包摂は漸減しました。1909年の南アフリカ連邦憲法では、ケープの有資格選挙権は州ごとの慣行の継承として限定的に温存されましたが、後に分離・抑圧政策(アパルトヘイト)の進行とともに掘り崩されていきます。それでも、ケープの制度的記憶は、南アの「非人種的市民権」を主張する政治文化の源泉の一つとなりました。

都市・経済・日常:港湾、ワイン、教育と出版、宗教と祝祭

ケープタウンはアフリカ南端の海運ハブとして、船会社・海軍・倉庫・ヤード・造船・通関・保険の産業を抱え、インド洋と大西洋の人・物・情報が行き交いました。ステレンボッシュやパールのブドウ園はワイン産業の基盤となり、灌漑や醸造の技術革新が繰り返されました。19世紀後半には印刷・出版・図書館・博物館・大学が整い、アフリカーンスと英語の二重文化が知の競演を生みました。

宗教はオランダ改革派教会を柱に、英国国教会、メソジスト、カトリック、イスラームが共存し、祝祭・慈善・教育で地域社会を支えました。イスラーム法学やマレー語写本の伝統は、ケープのイスラーム文化に独自の厚みを与え、アザーンが山並みに響く都市景観は港町の多元性を象徴しました。食文化はスパイスと砂糖、ぶどうと肉料理、島嶼世界の香りが交差し、今日のケープ・マレー料理として定着しています。

連邦への合流とその後:ケープの遺産と南アの近現代

1902年に英ボーア戦争が終結すると、帝国は和解と融合を図り、1909年南アフリカ連邦法でケープ・ナタール・オレンジ自由州・トランスヴァールが合併して1910年に連邦が発足しました。ケープ植民地はケープ州となり、港湾・金融・ワイン・教育の中枢としての地位を保ちつつ、国政の中でアフリカーナー民族主義と英系勢力の力学、アフリカ人・コロードの権利をめぐる攻防に巻き込まれます。20世紀半ばのアパルトヘイト下で、ケープは他地域と同様に隔離と強制移住の政策に翻弄されましたが、反アパルトヘイト運動の拠点の一つでもあり、大学・教会・市民団体が連帯の場を提供しました。

今日のケープは、文化遺産保護と不平等の是正、観光と環境の両立、都市再開発と歴史的コミュニティの存続など、過去から引き継いだ難題に向き合っています。テーブルマウンテンの麓に広がる多言語の街は、オランダ・英国・アフリカ・アジアが折り重なった時間の層を可視化し、ケープ植民地の長い歴史が今も景観・食・音楽・言葉の中に生きていることを教えてくれます。